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| 【財】神奈川県高等学校教育会館 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 神奈川県高校教育情報センター | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 1.教育課程の編成の制約 教育課程は、学校の教育計画であり、単にどういう科目をどれだけの時間数、学習させて、それを何年間で修了ということだけでない。さらに、学校だけの責任で編成できるわけではなく、各種の法規、学習指導要領、都道府県及び市町村教育委員会の基準、指導・助言に従わねばならない。 従来、文部省(旧称)が数年ごとに指導要領を改定し、それに従って各県教育委員会は管理職、担当者への伝達講習を開き、各学校は学習指導要領の改定の趣旨と教育委員会基準及び指導助言に応じて教務部もしくはカリキュラム委員会が編成作業に入る。 2.編成作業での問題 編成作業で難航するのが最近の指導要領改定で総取得単位数の減による、教科間での単位数の争奪、特に1学年での単位取得の調整である。 教育課程の編成に当たって「教育内容を系統的・組織的に配列した総合的な教育計画」をどう実現するかは、高校では自分の学校がどういう位置にあるかという認識と標準単位数に対して自分の教科の単位数をいかに確保するかという視点で決まってくる。自分の学校がどういう位置にあるかという認識は目標とする学校の在り方として、科目の陣容が整っているかどうかが争点になる。また、自分の教科の単位数の確保は生徒減による定数削減と絡まって教員の人事異動に影響してくる。 3.教育課程の編成での目的・目標と現実との乖離 教育課程の編成に当たっては、社会情勢や国際化等の変化への理解、学校及び地域社会の実態の把握、大幅な選択科目の導入、創意ある教育課程の編成等は最近の定番である。新教育課程では「総合的な学習」であfり、学校設定教科・科目であり、大学及び専門専修学校との連携である。 社会情勢や国際化等の変化への理解、学校及び地域社会の実態の把握、大幅な選択科目の導入、創意ある教育課程の編成等が問題なのではない。具体的に学校での教育課程の編成で、教師集団が自分の学校の「学習の体系」として、組織的な研修の結果として生まれたものではなく、多くの場合は個々の教師の献身的な努力によったり、とにかくやってみよう的な試みであったりするものは、担当の先生が転勤してしまったら、消滅してしまう。 4.教育課程の編成の要諦 学校がその目的・目標を達成するためには、個々の教師が授業を含めた自己の教育活動に生徒・保護者に責任を負う原点を明確にすることである。この当然なことがなぜ出来ないのか。 個々の教師が、学校で組織的にどう生徒・保護者及び同僚の教師に責任を負うことが出来るか考え出すことである。その指標として、「シラバス」と「授業評価」がある。大学では常識となっている「シラバス」は高校以下では十分認知されたとは言い難いが、高校でも十分その役割を果たせるものといえる。ただ、大学と高校の違いは学校管理の在り方が違う。 高校の多くの教師は、シラバスには否定的である。まして、授業評価はチャランポラしている生徒に評価されるのはたまらん…という教師はまだ多い。しかし、どんな生徒でも学校及び授業の主役であり、すべての生徒を巻き込んだ教育活動にしていかねばならない。教師は組織的にその学校の「学習の体系」を構築するとともに、個々の教師はシラバスを通じて自分の授業の在り方を説明し、責任を負う必要がある。個々の教師には個人差がある。個人差は個性であり、一人ひとりの個性ある教師が真摯に生徒に接し、責任を果たし、組織的に学校の「学習の体系」に参与する教師に、生徒は必ず応えてくれる。 東京大学の苅谷氏は、大学教育でのシラバスには、(1)事務的連絡文書としての性格、(2)法的契約書としての性格、(3)学術情報文書としての性格、(4)学習指導書としての性格という4つの側面があると指摘している(苅谷『アメリカの大学・ニッポンの大学−TA・シラバス・授業評価』)。 高校でも近い側面がある。 高校は大学と比較して教師集団が組織的に教育活動をしなければならないである。教師同士が協力してその学校の「学習の体系」を作りあげることが出来る。それを作りあげるのが「教科内研修」である。更にそれが「学校内研修」体制まで出来上がれば、その学校の教育課程の編成は生徒にも保護者にも誇れるものにある。(寄稿'04/9/3) |
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