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読売新聞(2003.3.11)文化より | |||||
個人主義、民主主義
ここで用いられている「日本人のアイデンティティ」という表現は、かなり広い含意を有するので、教育基本法のような理念的根本法において用いる場合には、十分掘り下げた検討が必要であろう。こかし上 の箇所に使われているアイデンティティという用語は、法律化する際には、カタカナ英語ではなく、正しい日本語に置き換えるべきだという意見があり、私もその方が良いと思う。 しかし、アイデンティティーを心理学用語で使われる「自己同一性」とか「存在証明」と訳してみても、どうもぴったりしない。『若者ルター』(一九五八)や『アイデンティティi-青年と危機』(一九六八)を著し、アイデンティティー理論の創始者ともいわれるエリク・エリクソンは、精神分析家の立場からライフサイクルとの関連でアイデンティティーの変容の過程を位置づけているが、今日の時代においてこの言葉は、時には少数者の自己主張の根拠にもなるなど、もっと広い文脈で使われるさつになっている。それだけに日本語には適訳がないのであろうか、去る十二月二十五日に国立国語研究所がカタカナ英語の濫用を戒めるために発表した言い換え日本語のなかにも、アイデンティティーは入っていなかった。 しかし、アイデンティティーという表現を軽視してよいのではなく、東西冷戦構造崩壊後の国際社会のさまざまな変動を見すえたとき、その基底をと一やえるためにも、アイデンティティーは重要なキーワードだといえよう。 わが国では、こうして一般には依然としてカタカナ表記をしているのに、台湾では「認同」という見事な訳語を漢字で見つけ、台湾人としての「認同」を深めようとしている。一方の大陸中国ではアイデンティティーは一種のタブーであって、そこでは強烈な中国人意識もしくは中華意識しか許容されていない現実とは好対照だ。 ところで、中央教育審議会の右の「中間報告」では、一部のマスコミやアナクロニスチックな反対論者を意識して「愛国心」という用語はあえて避けているのだが、この点も検討する必要があろう。 愛国心という言葉はナショナリズムと同様に感情的価値を伴う厄介なものであり、私たちの同時代史においては、いわば左右両翼がいずれもその陥穽に落ち込んだといえよう。この言葉は、亡き清水幾太郎氏が早くも一九五〇年に名著『愛国心』(岩波新書)で指摘していたように、個人の自覚と民主主義を欠いている場合には、大いに因った存在になるのである。だとすれば、わが国のように個人主義と民主主義が制度的に保証されている場合と、戦前のファシズムの時代の愛国心とでは、その時代環境がまったく異なっていることに留意しなければならない。個人主義も民主主義も欠落している北朝鮮やイラク、あるいは一党独裁国家の中国が唱える"愛国主義"とも、根本的に異なっている。 「中間報告」.にあるような郷土(terra patria)への愛を「愛国心(パトリオティズム)」の母職だと言ったのは、米コロンビア大学の歴史学教授カールトン・ヘイズであった。このような考え方に立てば、郷土愛に発する愛国心はきわめて健全な精神なのであって、それをあえて「国を愛する心」と言い換える必要は本来ないはずである。ヘイズが名著『ナショナリズムについての評論』で右のように語ったのは、ファシズムや軍国主義以前の一九二六年のことであった。 「国を愛する心」も英訳すればパトリオティズムであろうし、中国語に訳せばやはり「愛国心」となるつ。要は、その愛国心が国家主義によっ てではなく、民主主義と個人主義によって担保されているか否かだといえよう。 |
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