読売新聞(2003.7.4)論点より
風通しいい♀w校目指せ
内藤朝雄(ないとう あさお)明治大学専任講師
 子どもの学力低下が取りざたされている。しかしこの問題が浮上するまでは、子どもたちは「ゆとり」を奪われて押し潰されている、という世論が優勢だった。「ゆとりが必要」という考えは間違っていなかった。では、なぜこうなったのか。
 「ゆとり」派の知識人や政策グループは、そのエネルギーを見当はずれな的に暴発させたのである。彼らが敵視したのは「偏差値」や「つめこみ」教育あるいは勉強の労苦だった。しかし、学校の息苦しさの最たるものは勉強のきっさではない。
 日本では、学校は生徒を市民社会の論理から遮断して独特の閉鎖空間に囲い込み、「みんな仲良く」生きることを強いる場となっている。何より「協調性」が重視され、不満も怒りも押し殺して順応することが求められる。こうした閉鎖空間は江戸時代の大奥のように、「人間関係をしくじると運命がどうころぶかわからない」場所になる。先輩後輩や強者と弱者の関係は時として恐るべきものとなる。いじめも蔓延するだろう。
 加えて、人の心の「よい・わるい」を評価する内申という制度が、教員に生徒の生殺与奪の権を与え、生徒をしばしば卑屈にする。生徒たちは、いつ足をすくわれるかわからない人間関係に神経をすり減らし、しばしば感情状態を場のムードに売り渡して生き延びる。
 学校で剥奪される「ゆとり」とは、まず人間関係の「ゆとり」なのである。しかし、文部省(現文科省)は「ゆとり」の意味をはきちがえ、勉強が要する労苦を敵視して学習内容を削り、学力低下問題を引き起こした。これに対して、一部の人々が厳しい批判を展開した。しかしこの批判派は、「なんでも厳しく」しょうとする傾向が強く、勉強の厳しさと、集団で自分を殺して生きる厳しさを「抱き合わせのセット」にして主張しがちだ。
 一方「ゆとり」派は一見、保守的批判派の「何でも厳しく」に反発して、「勉強も人間関係も緩く」と主張しているように見える。しかし班活動などで集団主義を推進してきたのは、進歩的「ゆとり」派のはずの日教組だった。かつての大会記録には、同調しない生徒に対する「仲間はずし実践」が奨励された例さえある。
 私は、いずれの「論点抱き合わせセット」も、問題を解決しないと考える。学校は、全生活を囲い込む施設ではなく、何より勉強をする場として位置付け直すべきである。生徒には高い水準の学習成果を求め、水準に達しなければ単位を認定しないようにする。そのためには、一科目でも落とせば全科目がやりなおしになる学年制をやめ、学校制度を年齢にかかわらない単位制で組み直す必要も出てくる。
 一方、人格支配や身分的上下関係、内申や細かい校則、集団主義を進める学級制度などを見直し、学校を風通しのいい、「人間として」生きやすい場にする。教員も些末な生徒指導にとられるエネルギーを授業準備など本来の教育に集中できる。
 ある知人がオーストリアで、ピアスをした厚化粧の女子生徒が、教員から「この学業成果では単位はない」と言われて泣いている情景を見たという。独仏などでは、教員は生徒の私生活にほとんど介入しないが、学業専門家としては「厳しい」。ピアスや茶髪を犯罪であるかのように「摘発」する教員が、分数もできない中学生を卒業させてしまうような、日本のでたらめな「甘さ」とは好対照である。
 最近は、学力低下の弊害を突く「ゆとり」批判派が優勢だが、「勉強を厳しく」に引きずられて、「人間関係を厳しく」も優勢になれば、息苦しさが加速しかねない。「ゆとり」論争が、「勉強は厳しく、人間関係は緩く」という第三の視点を含め、より広い選択肢をふまえたものになることを期待したい。
高校中退、東大大学院を経て 現職。著書『いじめの社会理論』(柏書房)で教育改革を提言。