読売新聞(2002.11.4)より
法律物語  教育基本法 中
軍国主義一掃が眼目◆「GHQに遠慮」◆教育の基本おろそかに
 「公」の軽視 当初から指摘

 誰にでも深い思い入れを抱いている本がある。
 教育改革に情熱を燃やした小渕元首相の場合、英文学者・池田潔氏の「自由と規律」(一九四九年刊、岩波新1)がそれにあたるo英国のパブリック・スクールの留学体験を通じ、自由の精神が厳格な規律の中ではぐくまれていく英国の教育制度を描いた名著だ。
 二〇〇〇年三月二十二日夜、小渕氏は、都内の中華料理店で教育改革国民会議の事務局スタッフを集めて激励した際、「自由と規律」を全員に配布し、こう念を押した。
 「必ず読んで・教育のあり方を考える原点にしてほしい」小渕氏がこの本に込めた思いは、戦後の教育が「個」の自由を過度に重んじ、規律に代表される「公」の精神をないがしろにしたことが、今日の教育の荒廃を招いたのではないかという問題提起だった。

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 敗戦風後の日本が取り組んだ教育改革は、軍国主義教育の一掃が最大の眼目だった。一九四六年十一月に発表された教育基本法の要綱案にも、次の一文が入っていた。「真の科学的精神と宗教的情操とが軽んぜられ、徳育が形式に流れ、教育は自主性を失い、ついに軍国主義的、又は極端な国家主義的傾向をとるに至った」
 最終的に冗漫という理由で削除されたものの、教育基本法の根底には、精神論が横行し、命令には服従が絶対だった画一的な戦前の教育への反省がある。
 だが、その反動で、国家や他者への奉仕といった公共意識が欠落していることへの危惧は、早い時点から指摘されていた。
 四六年九月から審議を始めた教育刷新委員会(委員長=安倍能成・元文相)で、哲学者の天野貞祐氏は疑問を投げかけた。「公のために生きる、そういう人をつくることが一番肝要だ。個人の完成にあまり重きを置くと、自分自身のために生きることが主になっているような気がする」だが、委員会は「本当に公に仕える人間をつくるには、個人を一度確立できるような段階を経なければならない。それが今まで日本に欠けていたのではないか」(哲学者の務台理作氏)という意見が大勢だった。
 杉原誠四郎・武蔵野女子大教授(教育学)は「占領下にできた教育基本法の限界だった。GHQ(連合国軍総司令部)に『復古主義的』と批判されるのを懸念し、委員に遠慮があったのだろう」と見る〇四七年三月十三日に国会に上程された法案には、「平和的な国家及び社会の形成者」という記述があるだけで、「公」「公共」などの表現はどこにもなかった。
 国会審議でも、「国家社会に対して犠牲、献身的精神を持ち、奉仕的精神に満ちた国民にすることが、日本を平和的国家としてこれから発達させていくのに非常に必要なことではないか」(荒川文六貴族院議員)といった指摘が相次いだ。が、政府は「奉仕の点は(第一条の)『勤労と責任を重んじ』という言葉で十分に表れている」などとかわし、教育基本法は三月二十五日、原案通り成立した。

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 学級崩壊や校内暴力、凶悪化する少年犯罪など「教育の荒廃」が社会問題化し、公共意識を育ててこなかった教育のあり方に批判が集まっている。
 教育基本法の見直しに取り組む中央教育審議会(中教審)は十月十七日、中間報告案を公表し、「国や社会など『公』に主体的に参画する意識や態度を涵養することが重要」と明記した。
 法見直しの流れを作った教育改革国民会議の報告書は、「自分自身を律し、他人を思いやり、自然を愛し、個人の力を超えたものに対する畏敬の念を持ち、伝統文化や社会規範を尊重し、郷土や国を愛する心や態度を育てるとともに、社会生活に必要な基本的な知識や教養を身につける」ことを教育の基礎と位置づけ、こう続けている。
 「このような当たり前の教育の基本をおろそかにしてきたことが、今日の日本の教育の危機の根底にある」
 教育の復権は、失われた「公」の意識を取り戻すところがら始まる。(「法律物語」は原則として月曜日こ掲載します)


「個人」を偏重

 教育基本法は前文と第一条で、教育の理念と目的を明示している。前文では「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす」、第一条では「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とし、「個人」「個性」「自主」などの表現が何度も出てくるのが特徴だ。
教育改革国民会議
 2000年3月、小渕内閣が首相の私的諮問機関として設置した。座長は江崎玲於奈・芝浦工大学長。道徳やしつけ、大学制度、教育基本法見直しなど多岐にわたって議論を進め、同年12月、17項目の提案を報告書としてまとめた。報告書は、「(学校は)社会性の育成を重視し、自由と規律のバランスの回復を図る」としたほか、奉仕活動の推進が「大勢の人の幸福を願う公的な視野にまで広がる方向性を持つ」と指摘し、「公」の意識を重視している。