朝日新聞(2002.12.1)私の視点より
 ◆教育基本法 「愛国心」はなじまない
                     栗原祐幸 元防衛庁長官

 教育基本法の改正を唱えている中曽根康弘元首相の「二十一世紀日本の国家戦略」という著書を読んだ。そこには戦後教育の出発点に関する看過できない記述があった。基本法論議の前提にもかかわるので、私見を記したい。
 中曽根氏は同書で次のような「戦後」観を披露している。米仏英各国は戦勝の栄光もあって、民族や共同体の価値を維持し、歴史と伝統に対する自意識も残った。これに対し、日独両国は敗戦によって自己否定をさせられた、と。そのうえで氏はこう述べている。
 戦後に米国の教育使節団と論議した日本の学者には「抽象的な理想主義者や平和主義者、あるいは法律学者、さらにデューイの教育論に共鳴する入」はいたが、「歴史学者は一人も参加していない」。「伝統的な文化論をもっている人には発言力はなかった。それが教育基本法に如実に反映され、教育においてすら無条件降伏が行われた」
 中曽根氏によれば、その結果として仁、義、礼、智、信や恥の概念は一掃され、代わって英国の功利主義や米国のプラグマティズム、フランスの個人主義がおういつ横溢した、となる。
 本当にそうか。敗戦直後だから、あの戦争を是認したり、理論面で鼓舞したりした学者が選ばれるわけがない。それは当然だ。だからと言って、日本側の委員が日本の歴史や文化を解せぬ学者だったと断定するのはいかがなものか。米国側教育使節団と向き合った日本側教育者委員の代表は、南原繁東大総長であった。氏は戦前戦後を通じて思想的一貫性を保ち、敗戦後の思想的混迷の中でも揺らぐことがなかった。重厚な思想的信念とその人柄には国民の間にも深く共鳴するところがあった。日本の歴史にも、文化・伝統にも理解と見識をもっていたことは、多くの識者の認めるところである。
 しかも南原氏によれは、マッカーサー司令部の教育担当部局は、教育については初めから自主性を認め、日本側委員会の自由討議を尊重し、問題がある場合は彼我の協議と完全な了解の上に基礎を置いたという。「アメリカにとっては賢明、日本にとっては幸運であった」と回顧している。
 そうだとすれば、「教育基本法は米国の強要に屈したもの」という説は事実に反すると言わねばならない。政界でも、教育をめぐる論議でも、指導的立場にある人はその言動に正確を期してもらいたいと思う。 
 基本法改正の焦点は、理念にある「人格の完成」「個人の尊厳」に、新たに「国を愛する心」「伝統、文化の尊重」という文言を入れるかどうかのようだ。言うまでもなく、人間はその本性からして社会的な存在であり、現実に国家や民族あるいは社会を離れては存在し得ない。一方、愛国心とは、あるがままの国を無批判に肯定するものではない。よりよい国、より価値のある国を作ろうとするのが愛国心である。
 祖国愛・郷土愛は一歩誤ると危険な事態を招く。中央教育審議会の中間報告に「国を愛する心や伝統文化の尊重という表現は、国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならない」という修正意見が付されたのも、同じ考えからだろう。ただし書きを付さねばならぬような文言は基本理念になじまない。