第8回 教育研究所シンポジウム
減るの?変わるの?どうなるの?

―神奈川の高校の行方を探る

 

 8月に神奈川県教委による「高校改革推進計画」が発表されました。今後10年間にも及んで県立高校を大規模に改編するとの事です。計画には、前期5年間での学校の「統廃合」が具体的に示され、単独校での改編計画と合わせ、該当校には大きな重みを持つものです。それにとどまらず、計画は全県立高校の教育内容とシステムを見直し、新たな青写真を描くようにと要請しています。
 さらに、高校現場は学習指導要領の改定による新カリキュラムの作成を否応なく進めなければならない状況にあります。
 私たち県立高校の教委職員にとってはこれまでの高校教育の発想を切り替えるべき時がきているのかもしれません。
 私たちは県行政の改革案をどう評価し、どのように対応したらよいのでしょうか。また生徒の視点・立場からの高校改革プランをどのように立案し実践していけばよいのでしょうか。
 いずれにせよ今や、「高校改革」問題を正面から受け止め、考えていくのは待ったなしの状況のようです。
 「推進計画」の該当校を中心にシンポジストをお招きし、会場からのご意見も踏まえながら、シンポジウムを進めていきたいと思います。その中から、これからの高等学校改革のヒントでもつかめればと思います。ふるってご参加ください。

期日 1999年11月20日(土) 14:00〜17:00(入場無料)
会場 Lプラザ(神奈川労働プラザ)
横浜市中区寿町1-4 関内駅下車3分
コーディネーター 中野渡強志さん(県立相模台工業高校教諭;教育研究所所員)
シンポジスト 梅本霊邦さん(県立寛政高校教諭)
高村史朗さん(県立川崎南高校教諭)
本間正吾さん(県立田奈高校教諭;教育研究所所員)
 
 

シンポジウムに寄せて〜シンポジストから
「県立高校改革推進計画」の不思議
     県立田奈高校 本間正吾
  •  八月に公表された「県立高校改革推進計画」を、多くの新聞は、県立高校「削減」計画として報じた。県立高校の「削減」を正当化する理屈は、こうである。2006年をボトムとして、少子化(中学卒業生の減少)が進むはずである。少子化が進む中で、いまのままの公立高校数を維持すると、学校の規模は小さくなりすぎてしまう。そうなれば、個々の学校の教育条件は悪化するだろう。だから、学校数を減らさなければならない。こんな理屈である。
     もともと、学校の規模と教育条件が、ストレートに結びつくものではないと思う。とはいえ、99年の中学卒業生77,424人が、2006年には、63,000人にまで減少するという具体的な数字を出されると、この理屈にも一応うなずかざるをえないだろう。だが、ここから先にすすむと、首を傾げざるをえなくなる。2006年の中学卒業生数は、99年に対し 81.4%である。とすると、公立高校の第一学年のクラス数は、99年には 1,268あったのだから、それに81.4% を乗じて出る1,032 が、2006年の常識的な数値になるはずである。ところが、計画の上で示された2006年のクラス数は 973である。これは99年に対し76.7% である。つまり、中学卒業生数の減少率よりも、公立高校のクラス数の削減率の方が、より大きく設定されているのである。この差の59クラスは、6クラス規模校、10校にほぼ相当する。とすると、今回発表された県立高校、14校の「削減」は、本当に必要なものだったのだろうか。どうして、ボトムの時期に、公立高校が入りにくくなるのか。理屈が分からない。不思議である。
    また、今回発表された計画は、「削減」「統合」する学校名を明記するとともに、新しくつくられるはずの個々の学校について、基本方針を定めた計画も添えている。事情を知らない人が、この計画を見たならば、これは現場との協議を繰り返す中で、作成されたものだと思うだろう。どんな系列の選択科目をおくか、どんな特別教室をつくるか、どんな生徒指導、進路指導の体制をつくっていくか、現場の意見を聞かずに、計画をつくることなどできるはずがないと思うのが普通である。だが、この計画は、現場のまったく与かり知らないところでつくられたものである。子どもたちについて、もっとも的確で実態に即した知識をもっているのは、現場の教職員である。その意見を聞くことなしに、机上で計画をつくっても、良い結果が生まれるとは思えない。どうして、現場の声を聞かずに計画をつくろうとしたのか。これまた不思議である。
     こんな不思議な計画が、神奈川の高校を大きく変えようとしている。どうしたら、この不思議の国から抜け出すことができるのか。シンポジウムにおける議論に期待したい。

 
高校再編計画について
     県立寛政高校 梅本霊邦
  • 別に驚きゃしませんが…

     「百校計画」で新設された高校のいくつかを県当局は生徒の急減に対応して漸次廃止する計画らしい、おそらく寛政もそのプランのなかに含まれている。そんな噂が、そもそも私の職場ではここ数年まことしやかに囁かれてきた。職員会議の場など機会をとらえては校長が県当局の学校再編構想に言及し始めたころから、特に既存の学校の統廃合の可能性を示唆するようになった昨年あたりからは、寛政の存廃にかかわるいろいろな憶測や意見が教員の会話のなかで日常的に語られるようになっていた。朝日新聞がリークされた高校再編の前期計画を他の新聞を出し抜いてこの8月に特ダネのごとく報じたが、新聞の記事それ自体には特段驚くほどの内容はなかったと思う。 寛政と平安両校の統廃合を含む高校再編の前期計画について、私の職場ではこれまでのところ反応はおおむね冷静である。県当局の公式発表を待つまでもなく、両校の統廃合はある程度まではだれしも予想できたからなのだろうか。ただ、両校の統廃合と新校(総合学科)の立ち上げに向けた今後の実務作業に関しては、「いったいだれがやるの?」といった戸惑いが職場全体のムードとしてあるように私には思える。「冷静な反応」と言ったが、今回発表された再編計画に対しては「全体的に冷めている」と言ったほうが職場の状況を適切に表現しているかもしれない。統廃合計画を遂行する当事者意識は今のところ希薄に見える。そう言う私も今ひとつ気持ちが乗らないのだが、それは多分、私の年齢のせいだろう。高校再編よりも、実は自身の老後に向けて今後の生活のことがより気がかりなのだ。

  • えっ、寛政がなくなる…

     寛政がなくなったら、寛政が引き受けている生徒達はどこへ行くのかな。横浜東部学区での寛政の存在理由が解っていたら、県当局も寛政をつぶすことはないだろう。寛政をつぶせば、学力的にその直近にある別の学校が寛政がこれまで担ってきた役割を引き受けなけりゃならないし、それっていろいろ抵抗があるよ。中間層の学校にしてみれば「百校計画」のプロセスで確定した学区内での序列は、現状いろいろ不満があっても、とりあえず崩したくはない。あわよくばこの再編計画を機会にランクを1つでも2つでも上げようと考えるだろう。あえてランクを落とそうなど、まして底辺にまで落とそうとは絶対に思わないはずだ。県当局は存在理由のはっきりしている一番上(翠嵐)と一番下(寛政)はそのまま残して、たぶん中間層(鶴見〜平安)での統廃合を考えるんじゃないのかな。そのほうが話は簡単だ。「特色ある学校づくり」という命題もあることだし、中間層のほうが「特色」もつくりやすい。ことの善し悪しはともかく、高卒を求め中卒を受け入れないこの社会の状況が根本的に変わらないかぎりは、とにかく受皿としての高校はないと困る。高校再編に関して、実はそれが私個人の予測であった。
     果たして公表された高校再編の前期計画は横浜東部学区で最下位にランクされる寛政・平安2校の組合せを発表したが、新聞記事のなかに「平安存続、寛政廃止」の字句を見たときは正直言って少々憮然たる思いだった。が、よくよく考えてみれば、・存続とは施設設備の存続、廃止とは施設設備の廃止にすぎず、・「平安存続、寛政廃止」とは実際、寛政を平安に移転させたうえでの総合学科導入であり、・平安がこれまで受け入れてきた生徒層はその直近上位にランクされる新羽、城郷に吸収する、と読めないこともないのだ。それこそ私の推論通りだ。だったら、はっきりそう言えばいいものを、と思ったが、県当局も関係各位の心情をそれなりに配慮したってことなのかもしれない。あまり勝手な深読みはするな、って?でも、実質きっとそうなるね。

  • 本当はどこへ行くのかな…

     寛政・平安2校の統廃合計画については、<寛政は平安に吸収され実質なくなる>とする受けとめかた(寛政廃止論)がある一方で、<寛政と平安は単純に合併されるだけ>とする受けとめかた(寛平合併論)や<否、寛政もなければ平安もない、まったく新しい高校をつくるんだ>とする受けとめかた(新校設立論)など、その解釈はいろいろだ。寛政・平安2校の統廃合は、・生徒数の急減に対応して高校を減らし、・学校不適応や学習疎外など今日の深刻な教育課題に対処するために総合学科を新設するのが狙いであると単純に納得してしまえば、横浜東部学区にあって「全日制普通科」としての役割をもてあましてきた寛政・平安両校の統合によってこれら2つの目的が比較的容易に果たせると考えた県当局の判断は一応妥当だと思える。が、計画を策定した県当局が総合学科導入に期待するものが本当は何なのか、私にはまだはっきり見えてこない。
     総合学科導入が、いわゆる「課題集中校」の抱えているさまざまな問題に真剣に取組もうとする県当局の決意なのかどうか、その辺のところは正直言って半信半疑だ。「課題集中校」の存在そのものをただ否定するだけの総合学科導入であればまったくのナンセンスだと私は思うが、今後、寛政・平安両校の統廃合を具体化していく過程で寛政・平安両校のいろいろな思惑が新校設立の基本方針にどのように絡んでくるのか、その辺も大いに気になるところである。学区の底辺から脱却し「課題集中校」との訣別を図るのか、学区の底辺に留まって「課題集中校」としての役割を今後も地道に担っていくのか、さて、どちらを選択するのか。いずれにせよ、寛政・平安統廃合計画のそこが一番の注目点だと思う。
     と言いながら、頬を撫でる秋風にふっと溜息をついて、意向調書に転勤希望を認める私なのだ。ごめん!

 
フレキシぶる高校
     県立川崎南高校 高村史朗
  •  再編対象校現場の反応その1『なんでウチ?どーしてフレキシぶる?』
     「いきなり」の新聞発表、頭越しの「フレキシブルへの再編統合」、まるで某宗教団体の集団結婚式みたい。お上のなさることはいつもこんなもんかもしれんが、発表前に少しでいいから現場の意見を聞いてくれてもよかったんじゃないの、本校の現状・生徒の実態をちょっとぐらい見てくれてもよかったんじゃないの、というのが率直な気持ち。生徒数減の状況、近接する二校、川崎南部地区にすでに総合学科が存在することなどを考えるとこういう事態もサモアリナミンと予想してたが予定はしてなかった。
     反応その2『大変ぢゃ』
     校門立番、校内巡視、校外巡回、駐輪指導、謹慎監督、家庭訪問、指名補習etcetcと、毎日毎日毎日毎日ほんと──に大変なのに、これに加えて新校設立準備をやれっていうの?A新聞に「削減校」(この書き方ホントひどいよな)なんて書かれた学校を受験してくるのはどんな生徒たちだろう。大幅に定員割れしたら二次募集もしなくちゃいかんし、ああ大変。
     反応その3『???』
     そもそもフレキシブルスクールって何なの?どんなカリキュラム?全・定の区分はどこでつける?クラスはあるの?学校行事は?部活動は?勤務時間はどうなる?会議はできる?新校設立準備といっても具体的にいつまでに何をどうやったいいの?「地域にねざした県内全域募集校」「両校の伝統を生かした全く新しい学校」なんてのは「曲がりくねった一直線」「てきぱきとした愚図」みたいでよくわからんぞ。
     反応その他『これで異動できなくなったよ』『結局指定校つぶしか』『リストラされちゃうよ』etc
     ちょっとだけ違う反応『パンドラの匣』
    不信、不満、不安は枚挙にいとまがない。しかし、学校の、高校の、川崎南の現状がこれでいいとはだれも思っていない(はず)。学習意欲が欠如し、無気力・無目的な日常を送りつつ、時に問題行動を起こす生徒たちに、この機会を最大限に活用し、新しい教育環境を設定・提供することにより学校再生をはかることも可能ではないか。いや、断固そうすべきではないだろうか。…という大層な言い回しはちとクサイけれど、生徒にとって今に比べて「ちょっとだけ行ってみようかという気が起きそうな学校」づくりのチャンスかも。

 

夏休み紀行
 
夏の終わりの沖縄
    新井敦子(県立大清水高校)
  •  夏の終わりに沖縄に行った。目的はない。「沖縄」を味わおうと思った。気の向くままにレンタカーを走らせる。「海中道路」という名称に引かれて与勝半島からつながれた島々に行ってみることにした。県道104号線を越え、喜瀬武原で銃声のパンパン響くキャンプハンセンのフェンスをデジカメで撮影しているところを米兵に睨まれるという「怖い」経験をしつつ、迷いながらも海中道路の入り口に着く。気付いたら車は海中道路に滑りだしていた。翡翠色の海と紺碧の空の境を突き抜けていくようだ。
     海の道がつなぐ島は平安座島、宮城島、伊計島、そして浜比嘉島だ。少し前まで渡し船で行き来していたが、滄海を跨ぐ海の道がこんなふうにふらりと立ち寄ることを可能にした。この浜比嘉島にふらりと立ち寄って、私は不思議な気分に包まれた。琉球開闢の祖と言われる神々が祀られた洞穴が港の近くにある神秘的な島なのだが、集落に入るとまあなんと、「琉球の風」のロケ地のような、当時の庶民の生活そのままの町並みがひっそりとたたずんでいるではないか。古い石垣に囲まれた赤瓦屋根の民家が狭い道伝いに立ち並んでいる。琉球王朝にタイムスリップしてしまったような錯覚から、道ばたに所々に設置された自動販売機が、私を現実に引き戻してくれる。琉球王朝時代からのゆったりとした荘重な時間が、沖縄本島から海を隔てたこの島には特別に流れていたかのような不思議な錯覚は、しばらく私の中で後を引いた。が、琉球処分以来沖縄戦、現在の基地問題に至るまでの沖縄が辿った特異な歴史と、この島も無縁であったはずがない。港から内部に入ってすぐのところに、慰霊塔がひっそりと眩しい日差しの中にたたずんでいた。
     宿に戻る途中、部瀬名岬に立ち寄った。サミット会場建設の槌音が響き、開催国の旗が色とりどりにはためき、警備員が建設現場を警備している。こっちの方は慌ただしいぴりぴりした時間が小刻みに流れていた。

前事不忘……南京の虐殺記念館を訪れて
     円谷洋介
  •  今年の夏、組合の関係組織が主催したツアーで、念願の南京を訪れることができた。
     1937年に起こった南京大虐殺は、日本軍が正義も軍紀もない恐るべき殺戮集団となって起こした「事件」として世界史に刻まれている。しかし、わが日本国内ではこれを隠蔽しようとする勢力が、いまだに様々に装いを凝らしながら現れ続けている。機会があったらぜひ現地で真実をこの目に刻みたいものだと思っていた。
     南京の「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀年館」の入り口には「1937.12.13-1938.1」と刻まれたモニュメント。記念館までは壁や木々に囲まれた大きな広場になっていて、右手の壁に「前事不忘 后事之師」とある。正面には巨大な首や手が切り捨てられたような石像、覆い被さるように「300000」と犠牲者数が刻まれた石壁。左手階段を上げると記念館までは砂のしかれた大きなスペースがあり、虐殺行為が分かっている場所ごとの石碑がここ彼処に据えられている。その数13と聞いたが、数えるとそれより多い。まだ刻字が完了していない碑もある。まだまだ掘り起こしが続いているのである。
     館内は冷房設備はあるのだが、展示に圧倒されてしまうためか暑さにあえぐ状態。ざっと見て回るだけでも1時間はかかった。虐殺がなかったとどうしても言いたい人はここへ来て言ってみろ。そういう感想を記念館のノートに残していた日本の若者がいたが、そのとおり。だからこそ、そういう人が決してここには来ないことを認識し、やっぱりここにはいない圧倒的な数の日本人に、ここに来た私たちはこの真実を伝えていかなければならないのである。