教師に望むこと
一絶えざる研修に基づく教育・授業を一

浪本勝年(立正大学)

 

   
日本の教師の質は高い

 このところ教師をめぐる環境は、「異常に」厳しいものとなってきている。親・子ども・生徒からの批判、行政当局による教育の自由の圧迫など、さまざまな方面からの教師への批判もしくは非難めいた言葉が発せられている。日本の教師は、最近、質が低下してきているのであろうか。答えは、否である。
 たしかに、ほんの一部ではあるが、「先生ともあろうものが」と批判されるような教師が、残念ながら存在することを否定できない。しかし、ほとんどすべての教師は、子ども・生徒の健全な成長・発達を、また日本の、そして世界の安定した平和と繁栄を願いながら、熱心に、かっ献身的に教育活動に努力を傾けているのである。日本の教師の質は、世界の教師の中でも極めて高いもの、といわれている。
 逆境にあっても質の高い研修を

 最近の行政当局による教師をめぐる施策、すなわち、文部科学省による「指導力不足教員」に対する免職・配転措置を可能とする法改正、東京都教育委員会による「主幹制」の新設や夏期休暇中の毎日「登校」政策等々をみるに、まさに「管理・統制・圧迫強化的」政策と言わなければならない。
 私は、このような悪条件に置かれたときにあっても、いや、置かれたときにこそ、教師は、現行教育公務員特例法の規定する教師の自主研修権の尊重を要求するとともに、その実質を備える研修を行うよう努めるべきであると考える。
 そこで、ここでは、教師の自主研修権を定めている現行教育公務員特例法の規定を、再確認しておきたい。

 一般行政公務員と異なる教師の研修の意義

 公立小・中・高等学校学校の教師は、地方公務員であり、しかも教育公務員でもある。そこで、教師の研修法制のしくみを考えるにあたって、まず地方公務員法(以下、地公法という。)からながめてみよう。地公法は、「第三章・職員に適用される基準」の「第七節・研修及び勤務成績の評定」において、研修に関して次のように規定している。

 「職員には、その勤務能率の発揮及び増進のために、研修を受ける機会が与えられなければならない」(三九条一項)。

 国家公務員法七三条も、ほぼ同旨の規定をしている。この点からも明らかなように、一般行政公務員の研修目的は、「勤務能率の発揮及び増進」にあり、しかも、その種の研修を「受ける」機会が、「与えられ」なければならないのである。つまり一般行政公務員は、研修に関して一方的かつ受動的立場に立たされているのである。
 これに対し、同じ公務員であっても、教育公務員である教師の場合は、特別法である教育公務員特例法(以下、教特法という。)の「第三章・研修」において、次のように定められている。
 「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない」(一九条一項)。
すなわち、一般行政公務員の場合と異なり、教師の研修目的は、教師に固有な「職責を遂行するため」であり、しかも、「絶えず」「研究と修養」(これをつづめて一般に研修という。)に「努めなければならない」、と職務の性質上、不断の自主研修の努力が課せられているのである。
 このように、まず研修の本質的意義づけが、一般行政公務員と教師とでは、大きく異なっていることに注目しなければならない。このことは、研修規定が、地公法の場合は、第三章第七節という一節の一部に位置しているのに対し、教特法の場合は、「第三章研修」と一つの章を独占する重い位置づけがなされていることからも理解されるのである。

 教師の研修の特殊性

 このように、教特法は、まず教師の自主研修の重要性を指摘したあと、さらに研修の機会について、二○条で次のようにいう。

「教育公務員には、研修を受ける機会が与えられなければならない。
2 教員は、授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる。
3 教育公務員は、任命権者の定めるところにより、現職のままで、長期にわたる研修を受けることができる」。

 教特法二○条の一項と三項の主語は、「教育公務員」であるのに対し、二項のみ主語が「教員」となっているところがら、教育公務員の中でも教員は、特別に手厚く研修の機会が保障されるしくみになっているのである。すなわち、教員は「授業に支障のない限り」「本属長の承認を受けて」勤務場所(学校)を離れて「研修を行う」(「受ける」のではなく、自主的に「行う」のである)ことができるのである。もちろん、教員は教育公務員であるから、三項にいう長期研修(いわゆる国内留学とか海外研修など)を権利として受けることができるのは、当然である。
 以上が、教員の研修に関する現行法律の概要であるが、教育界で一般に"国際常識"ともいわれるILO・ユネスコ共同の「教師の地位に関する勧告」(1966年)においても、「W 教員の継続教育」(31〜37項)をはじめ、教師の研修の重要性について触れられている。
 なお、こうした研修に関する考え方は、私立学校の教師や学校で働く事務職員にも準用されてしかるべきであろう。

 研修に関する行政解釈の問題点

 これに対して、行政解釈は、研修に関して@職務命令に基づく研修、A職務専念義務の免除に基づく研修、B勤務時間外の自主的研修、の三つに区分して考えている。
 行政当局の実施する研修会への職務命令による参加などが@に該当し、Aは地公法三五条(国公法一○一条)に定める職務専念義務を免除されて、教特法二〇条に定める校外自主研修を行う場合であり、Bは教師という職業に内在的に要請される勤務時間外の私的修養など、教特法一九条の定めに関連する研修をさすものである。
 しかし、研修は、事柄の性質上、教師にとっては当然"職務"の重要な一部と考えられ、本来、「命令」によるとか、「職務専念義務」が免除されて行うとか、といった性質のものではない、と考えられる。

  「真理に対する燃えるような熱意」で研修を

 教師の研修をめぐる現状は、急速に悪化の一途を歩んでいる、といってよい。しかしながら、教師の研修については、さきにみた現行法の精神から言っても、また研修の本質から言っても、自主性・自律性が最大限尊重されるべきは、理の当然である。それは、「研究なくして教育なし」とよく言われるように、教育と研究とは不可分一一体のものであるからである。
 したがって、憲法二三条が「学問の自由」を保障していることに加えて、さらに丁寧に、「人格の完成」という「教育の目的」を達成するためには、「学問の自由を尊重し」なければならないことを、教育基本法も、強調しているのである。文部省は、
『教育基本法の解説』(1947年)という書物の中で、この点について、はっきりと「学問の自由の尊重は初等教育においても生かされなければならない」(69ページ)と述べている。
 また、かつて文部省は、みずから著作した教科書『民主主義』(下巻、1949年)の中で、次のように正論を説いていたことを、現在の行政当局は、想起すべきである。

 「先生が知識の量で生徒を敬服させようと思うのは、大きなまちがいである。それよりも、真理に対する燃えるような熱意が、おのずから先生に対する生徒の尊敬と信頼との的となるのでなければならない」(297ページ)。


 今日においてこそ一層味わい深いことばである、といえよう。

  

  

浪本勝年氏プロフィール

  浪本勝年氏は立正大学教授で、教育法・教育政策がご専門である。また、教師教育学会などでも活躍されている。
 家永教科書訴訟に関しては、学生時代から全過程をみつめ、応援してこられた。ほぼすべての法廷で口頭弁論を傍聴されている。
 著書に『戦後教育改革の精神と現実』、編著書に『現代の教師を考える』など多数ある。

後記
 本紙がみなさんに届く頃には、夏休みに入ってしまっていることだろう。発行が遅れてしまい申し訳ありません。しかし、原稿はまさにタイムリ」、研修権への心強い応援歌である。
 それにしても、教職員を取り巻くこの息苦しさは何なのだろうか。服務にしても研修にしても、教育公務員の「公務員」ばかりに力点が置かれて「教育」を考えない施策である。教員が自由でなくして、なぜ生徒に自由のエートスを感じさせられよう。
いやいや教員の不祥事があとをたたないではないか、という声が聞こえてきそうである。しかし、それが教員全体に敷桁できる構造的なことなのかどうかくらいは検証してほしい。部分と全体の問題が混同されている。教育改革の多様化・個性化を担う教員が、多忙化と不自由化と、そして官僚主義化の中で溺れそうになっている。まさに杜絶しそうだ。
 「教師の能力がもっともよく発揮できるのは、自由の雰囲気のなかにおいてだけである。行政官の任務は、この雰囲気を作り出すことであって、その逆ではない」と50年以上前に米国教育使節団は日本の軍国主義教育を批判し、戦後の教育行政の役割を示唆した。
 現在、進行する教育改革こそ自由な雰囲気の中で行いたいのに……。(手島)