すべての子どもに「特別扱い」を
一ニューカマー問題を考える一

志水宏吉(東京大学)

 

   

 三重のハードル?
 ニューカマーの子どもたちの教育支援を考え始めるようになってから、数年が経つ。
 かつて私は、家族とともに2年間イギリスの地方都市で暮らしたことがあった。私はある大学の客員研究員として勤務し、当時幼かった3人の息子たちは、それぞれがイギリスの学校や幼稚園・保育所に通った。振り返ってみると、彼らの学校生活をふくむ私たちのイギリスでの暮らしは、たいそうハッピーなものだった。それに対して、私は今でも、イギリス人に「恩義」のようなものを感じている。私が、日本に在住する外国人・外国籍の子どもたちのことを考えたいと志した主な理由のひとつが、その点にある。
 それに対して、私の子どもたちの、日本の学校・教育システムヘの再適応過程は、イギリスのそれへの適応の過程と比べると、決して簡単なものではなかった。学業面・生活面の両方で、彼らはいくつかの困難に遭遇した。日本の学校は、帰国子女である彼らにとって、それほど「やさしい」ものではなかった。
 以前私は、仲間たちと、「ニューカマーの子どもたちが、日本の教室でどのような具体的な経験をしているか」という問題を考えるために、首都圏の公立小・中学校で参与観察調査を行ったことがある。そこで浮かび上がってきたのが、田本の学校は、彼らに対して、『三重のハードル』を課している」という事態であった。
 「同化」を強いる風土
 まず第一のハードルは、子どもたちの「同調」や「同化」を強いる、日本の学校や教室の「風土」である。これについては、多言を要する必要はないだろう。「一斉集団主義」「奪文化化」といった言葉で、こうした日本の学校のなかにある傾向性が指摘され、そして批判されている。例えば、ピアスをつけることがふつうの身だしなみである南米からの女の子の「個性」は、日本の学校では認められにくい。「郷に入っては郷にしたがえ」、日本の学校ではピアスは「ご法度」なのである。 
 ピアスはまだましかもしれない。例えば、中国からの帰国者の孫世代にあたる子どもたちは、しばしば「日本名」を名乗ることを教育委員会から指導されることがあるという。その方が、「差別されないから」だそうである。冗談ではない。中国人としての自分の名前をふつうに名乗れるような学校・教室にすることが、先にやるべき仕事ではないのか。「君の名前は個性的ですてきだね」と言い合える子どもたちをつくるのが、教師の役目ではないのか。21世紀を迎えても、多くの学校では、いまだそうした旧態依然たる体質が温存されているようである。
 「個人化」する教師の考え方
 ニューカマーに対する第二のハードルは、私たちが「個人化する教師の考え方」と名づけたものである。わが国の教師たちは、子どもたちが学校に持ち込んでくる、彼らの家庭的バックグラウンドや生育歴に由来する「異質性」を生かそうとするよりは、それを極力排除しようとする傾向が強い(「脱文脈化」)。そのうえで彼らを、「われわれの学校」や「私のクラス」に所属する同質的集団の一員として扱い、親密にかかわっていこうとする(「同質化」)。そして、クラスや学校のなかで何らかの学習上あるいは生活指導上の「問題」が生じると、その原因をもっぱら問題となっている子ども自身の性格や資質に帰属させ、なお一層の努力や心がけの変化に解決の方向性を求めようとする(「個人化」)。
 例えば、授業中落ち着きがなかったり、運動会の練習をさぼったりする南米からの子どもたちのふるまいは、個人の「わがまま」や「きまぐれ」と解釈されがちで、その背後にある文化的・社会的背景の違いに思いが致されることは、残念ながらそう多くはない。もし教師に、「南米の学校では教師のコントロールがずっと厳しく、学業中心の学校生活で行事的な要素はほとんどない」といった背景知識があれば、目の前の子どもがとっている行動に対して、違った解釈を施すことが可能となるであろう。目を外に向けず、狭い学校的基準でしかものを考えない教師のもとで一日を過ごさなければならない子どもたちは、彼/彼女が教師との「異質性」を有していればいるほど、窮屈な思いをしなければならなくなるに違いない。
 「ソフト化」をすすめる改革のトレンド
 ニューカマーにとっての第三のハードルは、近年のわが国の教育改革の動向である。ここで言う教育の「ソフト化」とは、1990年代以降わが国で積極的に推進されている改革動向を形容するための言葉である。従来の「知識詰め込み」「教師主導」「画一的・硬直的」な授業やカリキュラムを抜本的に改めるために、今日の教育界ではさまざまな改革が推進されている。「個性尊重」「新しい学力観」「観点別評価」「指導から支援へ」」「生きる力」「総合的な学習」といったスローガンのもとに推し進められているこの改革路線は、着実に日本の教室・授業のあり方や教師生徒関係に変化をもたらしている。この「ソフト化」路線のもとで、教師の統制力は弱まり、子どもの活動の自由度は高まり、教科のカベはうすくなり、評価の基準は多元的になってきている。
 そうしたあり方自体、教育的にはのぞましいとも言えるのだが、そこに落とし穴がある。すなわち、こうした「ソフト化」が進んだ教室では、注意していないと、ニューカマーの子どもたちが、「ゆるやかな拒絶」によって置き去りにされてしまう危険性があるのである。「できないのも個性」と片づけられてしまう事態、とでも言おうか。私はある小学校で、日本語が不十分なペルーからの女の子が、「近くの川のゴミ調べをしよう」という授業の際に、模造紙に色を塗り、発表の際にその端を持って立っていただけ、という場面に遭遇したことがある。彼女はたしかにその授業に参加していたが、彼女がそこから何らかのものを学ぶことができたかというと、はなはだ疑問である。
 「特別扱い」はダメか?
 むろん、この三重のハードルは、何も外国人に対してだけ作用するわけではない。しかし、明らかに多くのハンディキャップを背負っているニューカマーの子どもたちの目に、それらのハードルはより高いものに映るだろう。中国や韓国といった東アジアの国からやってきた子どもたちの場合、状況は若干ましかもしれないが、南米やその他の地域から来た子どもたちにとって、日本の学校文化のカベは生易しいものではないというのが、私たちの率直な印象である。
 こうした事態に対して、教師たちはよく、「外国人だけ特別扱いするわけにはいかないので…」という。他にもさまざまな課題をかかえた子どもたちが教室に座っているのだから、外国人だけに特別多くの時間やエネルギーを割くことはできない、という現実的制約があることは私も理解する。しかしながら、だからと言って、ニューカマーを日本人と一緒に、「十把一からげ」に扱っていいということにもならない。彼らは、日本人とは異なる言語や生活習慣や価値観をもつ人々である。まずは、その「違い」を認識しなければならない。いくら日本語がうまくても、日本での生活が長くても、彼らは彼らなりの「個性」を備えているのであり、彼ら自身の「教育ニーズ」を有しているのである。
 すべての子どもが「特別」である
 片や「ニューカマーには固有の教育ニーズがある」が、一方で「ニューカマーだけを特別扱いするわけにはいかない」。このジレンマは、どのように解くことができるだろうか?答えは簡単である。「すべての子どもを特別扱い」すればよいのである。
 むろん、すべての子どものニーズに的確に応えるためには、膨大な人的・物的資源が必要であることは言うまでもない。現実の学校や教室では、ごく限られたことしかできないのが実情であろう。しかしながら、個々の教師が発想を転換することは、容易にできる。「すべての子どもが特別だ」と考えてみよう。彼ら自身のニーズに対して常にアンテナを張り、彼らの「声」をキャッチするように心がけてみよう。そして、できる範囲で、彼らのニーズに個別的に応えるよう試みてみよう。教室の状況は、それによって劇的に変わるはずである。私の子どもたちが、イギリスの学校や幼稚園でいい時間を過ごせたのも、思い返せば、イギリスの教師たちがそのような目で子どもたちと自然に接していたからに他ならないように感じる。
 ニューカマーの子どもたちとかかわることによって思い至った「すべての子どもを特別扱いする」というスタンス。これを、今後の教育を考えるキーワードとしたい。
(しみずこうきち)
 

  

  

志水宏吉氏プロフィール

  志水宏吉氏は学校臨床学・教育社会学が専門の東大教育学部助教授である。氏はマイノリティの問題にも詳しく、「ニューカマー研究会」を主催している。
 著書に『学校文化の比較社会学』、編著書に『学校臨床学への招待』『ニューカマーと教育』などがある。

後記

 今回、志水宏吉氏に原稿をお願いしたのは、東大で氏が主催する「ニューカマー研究会」に私が時々顔を出している関係からである。この研究会には、研究者はもとより、中高教員、地域でニューカマーの子どもたちに学習支援をしている方、外国人留学者、さらに外国籍の高校生も参加していて、開かれた研究会である。実践的な話と研究の視点の両方があって、勉強になる。神奈川からの参加者が多いのも特徴だろう。
 1月に神奈川県で人権・同和教育研究大会が開かれた。神奈川でもいろいろなところで人権や差別の問題が語られていることが分かる。しかし、まだ相互のパイプは細く、おおきなうねりにはなっていない気がする。一方、日本での排外主義的な傾向は広がっている。
 形だけで中身のない「人権教育」をおし進めるよりは、当たり前の「関係」や「対話」を大切にすればいいと思う。「すべての子どもを特別扱いする」という志水氏の指摘に考えさせられる点は多い。(手島)