社会的排除と学校 


岩田正美
    (日本女子大学人間社会学部 教授)
 
  1. ホームレス、「ネットカフェ難民」、派遣労働者
     90年代以降の格差論の登場以降、「中流日本」の崩壊がさまざまに議論されてきた。とりわけ、学校から職場への移行の困難については、そもそも格差論の端緒となった教育格差についての多くの実証研究だけでなく、フリーター、ニートの実態論と若者の自己責任論、さらにはその批判などの多様な若者論に結実している。また、これらの若者を含めたワーキングプア論は、昨秋のリーマンショック以降、かってないほどのリアリティをもって語られ出しているといえよう。年末からの派遣村の報道と、これへの市民の共感はその一端を示している。
     ところで筆者は、上記のような若者や教育現場の問題とはやや離れたところで、この時期の社会問題の変化を眺めてきた。離れたところというのは、90年代バブル崩壊後、いち早く出現したホームレスの起居する大都市の路上である。周知のように、日本のホームレスは圧倒的に中高年(平均年齢55歳前後)の男性であって、最近になって平均年齢がやや高まったものの、今日までその特徴はあまり変化がない。このため、80年代の欧米で、若年者や家族持ちのホームレス問題が「新しいホームレス」として社会問題化されていたことと対比すると、日本のホームレスは、ごく一部の日雇い労働者の失業や「不適応」問題と見なされてきたきらいがある。実際、派遣村が開かれていた日比谷公園で、以前からそこに起居していたホームレスが炊き出しなどに並ぶと、ボランティアやマスメデイアの一部から、派遣労働者ではなくホームレスが来ているという不満の声が漏れたとの話も聞いている。
     しかし、ホームレスも元労働者であり、失業して寮や住み込み先から出されたという経緯も、派遣村の中心となった人々と同じである。違うのは、路上での起居の期間の長さと、年齢にすぎない。他方で、派遣村の少し前に「ネットカフェ難民」という言葉が作られたことがある。これは「ネットカフェ」など24時間営業の娯楽施設に起居している、主として非正規労働者の呼称である。2007年に厚生労働省が行ったネットカフェ等利用者の調査(「住居喪失不安定就労者等の実態に関する調査」)によれば、ネットカフェ等でオールナイト利用者概数は、全国で約60,900人、そのうち週の半分以上利用する常連者概数は21,400人、さらにそのうち住居がなくてネットカフェ等に寝泊まりしている人々は約4700人と推計される。この住居喪失者についての東京、大阪調査での詳細な生活・就業実態調査によれば、住居喪失者の年齢は20代と50代の二つの集中点を持つカーブを描いている。「ネットカフェ」以外の場所との行き来は多く、中高年層の約半数は、ネットカフェ等以外での寝泊まり場所として路上を挙げているという。
     つまり、異なった呼称やイメージをもつ、ホームレス、「ネットカフェ難民」、寮を出された派遣労働者などは、実際上重なりあっており、ただし年齢によって、起居できる「場所」がやや異なるという程度に過ぎない。若者論や教育格差を離れたところから見てきた、という私の先の表現は、実はあまり離れていなかった、ということになる。



  2. 社会的排除という言葉
     このように、上記のような重なり合いを意識すると、異なったイメージを持つ若者論も、派遣労働者問題も、ホームレスも、実は同じ構図の中にあることに気がつく。ここでは、失業や不安定就労だけでなく、寮などの居場所の喪失、そして頼るべき家族の喪失などがあり、さらにいえば学歴の相対的低さや、さまざまな社会制度全体からはじき出されているという、いくつかの不利が絡み合った共通の構図がある。このような構図を説明する共通言語として、ワーキングプアも悪くないが、近年、EUで盛んに使われている社会的排除(social exclusion)という言葉がより適切であるように思われる。
     社会的排除とは、一言で言えば、主要な社会関係への参入を拒まれている状態を意味する。貧困が、さしあたりは所得など生活資源の量の高低(up down)で把握されるのに対して、社会的排除は、社会関係への出入り(in out) に焦点をあてて把握される。人間は社会を創って生活してきた動物であり、さまざまな社会関係を結んだり、解いたりしながら、その生活を成り立たせている。近代社会では、どのような社会関係を結ぶかは、基本的に個人の自由であるが、そうはいっても、人を社会に帰属させる適当な居住空間の確保、家族の形成維持、雇用関係の保持、政治への参加、教育、医療、福祉などの諸制度への参加などは、どのような人にとっても、社会の中で生きていく上で不可欠なことであろう。
     ところが、様々な要因からこれらの主要な社会関係から、長期に排除される人々が生み出されている。EUの議論では、80年代以降問題になる若者の長期失業〔場合によってホームレス化〕が一つの典型であるが、それは、失業という雇用関係からの排除だけでなく、これを受け止めるべき失業保険制度などの福祉国家の諸制度の機能不全、家族の解体、学校からのドロップアウトなどの「不利の複合性」が背後にあるという。つまり、社会的排除は、ある時点での社会関係からの排除だけではなく、それを引き起こすさまざまな不利が、その人のライフコースの中で絡み合って出現してきた結果であり、またその結果がさらに排除に結びつく、という連鎖構造として問題を把握するところに特徴がある。
     また、社会的排除は、単に排除されている人々の不利だけでなく、排除を生み出すことによって社会の連帯や統合機能が損なわれていく、という側面を問題にする点も大きな特徴である。つまり、排除されている人々の問題というより、社会全体の連帯の課題という見方である。このため、社会的排除論は、排除を阻止して、人々を社会に包摂していく(social inclusion)ことをゴールに設定することになる。


  3. 学校と社会的排除
     以上の特徴をもつ社会的排除という角度から、日本の近年の問題を見ると、人々のライフコースの起点にある家族と学校の位置の重さが確認できる。それは格差や貧困の基点であると同時に、不利の連鎖の起点でもある。ホームレスや「ネットカフェ難民」等へのインタビューの分析〔拙著「社会的排除」有斐閣2008年、および釜ヶ崎支援機構・大阪私立大学大学院創造都市研究科『若年不安定就労・不安定住居者聞き取り調査』報告2008年、参照〕で気づくことは、学校や家族から職場への移行が困難という以前に、家族や学校から振り落とされている人々の多さがある。それは中高年のホームレスも、若者の非正規労働者も、あまりかわらない。
     学校については、まず相対的に低い学歴が共通点として浮かび上がってくる。中卒〔高校中退〕の学歴では良い就職ができないことは、当該本人に痛感されているが、今から学校をやり直すルートが見いだせていない。だが学歴よりも気になるのは、学校への組み込まれの弱さとでもいうべき点である。インタビューの中で、あまり学校時代が語られないし、学校の友人や先生がほとんど出てこない。むろん、これはインタビュー側の力量にもよるが、家族が家族内暴力や憎悪の記憶としてであれ、さまざまに語られていることと対照的である。
     「ネットカフェ」で寝泊まりしているある無職の若者は、信頼する人として、コンビニで働いていたときの店長を挙げている。彼は定時制高校時代からさまざまな仕事を転々としており、そのうち学校へは行かなくなっている。若者論では「働くこと」への意欲を失った若者がしばしば問題になる。インタビュー調査を見ても、「かったるくて仕事を辞めた」とか「遊びたかったので仕事を辞めた」という話も出てくる。しかし、そうした人々も含めて、むしろ学校時代から多様な労働を転々としていることに、むしろ驚かされるのである。
     なぜ学校へ行かずに、働くのか。その理由は必ずしも明らかではないが、一つは親の離婚や借金、失業、それらに伴う転居などの背景があって、学校を続けられなくなること、もう一つは、学校でのいじめを経験していることが示唆されている。前者は、最近学校関係者からもよく指摘される、子どもたちの経済環境の悪化でもあるが、貧困というだけでなく、家族の解体や転居、借金の追い立てなどが絡み合っていることに注意して頂きたい。また学校でのいじめは、これらの地域移動や生活の激変なども関連していると推測されるが、その内容については、親の虐待よりも口が重く、あまり語られない。
     学校への組み込まれの弱さは、彼らに友人がいない、作れないという結果をももたらす。労働を転々とする理由の一つに「友人が作れなかった」と述べた若者がいる。中学時代の友人と遊んでも、彼らは高校生であるから、疎遠になって行ってしまう。筆者が現在行っている低所得層への家計調査とそのインタビューの対象となったある無職の女性は、「大学へ行きたかった。もし大学へ行っていれば、友達も沢山出来たろう」と述べている。むろん、そうなったかどうかはわからないが、同じ地平で学び遊べる友人を持つ機会を得られなかった者として、つい口から出てきてしまった言葉であろう。
     さらに、気になるのは、学校から紹介された就職をしている人の少なさであり、あっても、比較的早期に離職してしまっていることである。彼らの多くは、アルバイトニュースなどの求人誌、家族の伝手、学校時代のアルバイトの延長などで、はじめての就職を探しており、また転職をしている。


  4. 子どもたちの生活と学校
     上記のような実態を見ると、学校は二つの側面から人々の社会的排除に関与しているように見える。第一は、子どもたちの生活は親の経済状態などによって翻弄され、離婚や夜逃げにも付き合わせられる。場合によって児童虐待がこの中に潜んでいることも少なくない。こうした、子どもたちにとって、学校が逃避できる居場所になりえず、むしろ学校への足が遠のき、社会的排除のスパイラルの起点が強固に形成されてしまう、というパターンである。もう一つは、学校それ自体が、学力やいじめなどの点で、学校へ来られない子どもたちを積極的に生み出してしまう、という側面である。
     第一の側面については、学校は親の生活にまで介入できないという反論がありそうである。が、親に翻弄される子どもたちを学校に繋ぎ止めるのは、やはり学校の役割ではないだろうか。二つ目の側面に関しては、学校は学力や就職力を育むだけではなく、友人や先生との多様な人間関係を育む場〔居場所〕を提供するところでもある、という点をどの程度理解するかに関わってくる。高校等のレベルでは、中退もまた選択肢の一つという見方も出来ようが、それはきれい事に過ぎない。ひとりで生きていく力を、社会参入という側面から捉えるとするならば、居場所としての学校を取り戻すことが肝要ではなかろうか。

執筆者プロフィール
 岩田 正美(いわた まさみ)日本女子大学人間社会学部教授
  • 1947年生まれ
  • 日本女子大学卒業、中央大学大学院経済学研究科修士課程修了
  • 博士(社会福祉学)
  • 研究テーマは、貧困・社会的排除と福祉政策
  • 近著「社会的排除-参加の欠如と不確かな帰属」(有斐閣)「現代の貧困?ワーキングプア/ホームレス/生活保護」(ちくま新書)のほか、「戦後社会福祉の展開と大都市最底辺」(ミネルヴァ書房)、「ホームレス/現代社会/福祉国家」(明石書店)、「貧困と社会的排除?福祉社会を蝕むもの」(共著、ミネルヴァ書房)など著書多数

【後記】
 岩田さんは、著書の前書きに次のように書かれている。「私は一介の貧困研究者にすぎず、とくに貧困と社会福祉政策との関連で、あれこれの実態調査を行ったり、歴史調査をあさったりしてきた、いわば『地べた派』である。」(社会的排除 有斐閣)その岩田さんが、多くの事例を調査する中で「影の薄い学校の位置」ということを感じておられる。(前掲書)
 そのことをどう考えればいいのか、と思ったことがこの論文をお願いすることになったきっかけである。岩田さんはお願いした主旨を良く理解していただき、率直に学校が考えるべきことを書いて下さった。「貧困」などについて、学校現場で論議する際の参考にしていただければありがたいと思う。「貧困」を論議する熱気が社会から消えないうちに。(永田記)