特集 : シンポジウム「高校生は今!」
 

 
高校生の変貌と高校教育改革

三橋 正俊 

 
 シンポジウムを終えて

 教育研究所の主催するシンポジウムも今年度で6回目を数えることになった。年々参加者が増加し、教員以外の方々の参加も増え、シンポジウムに厚味が増してきているように思われる。前回は「現場教師が語る 神奈川の高校教育改革」と題して、課題集中校を中心とした小集団学習の試み、総合学科・総合選択制などの教育課程の改革の取り組みを議論していただいた。その「シンポジウムのまとめ」として『ねざす』第19号(1997年4月刊)に私は、会場からの発言にあった「人間関係が結べない高校生」にふれて、「仲間づくり」を中心に据えた学校改革を考える必要があり、それは今後の課題であると述べた。今回のシンポジウム「高校生は今!」を振り返って、今更ながらそうした改革が今後重要性を増してくるとの思いを深くしている。
 もともと今年度のシンポジウムのテーマ設定は、当日の司会からの発言の中で指摘したように、教育研究所が1996年度3学期に行った独自調査「高校生の学校に対する意識の変化を探る−『学校不適応』と思われる生徒 100人に聞きました−」(『神奈川の高校 教育白書97』1997年9月刊)を下敷きにしている。この調査は聞き取り調査という手法で、課題集中校に集中的に現れている高校生の「学校離れ」の実態を、高校生自身の意識の内実に迫って描きだそうとしたものである。その結果浮かび上がってきたのは、進学校、中堅校、課題集中校を問わず、私たちの想像を超えて多くの高校生が学校を「人生の学びの基礎」とは思わなくなってきている現実である。私はそれを高校生の意識の「地殻変動」が始まっていると捉えた。では、どの方向へ向かっているのだろうか、その原因はどこにあるのだろうか、私たちはどうしたらよいのだろうか、そうした疑問について考えたい。これが今回のテーマ「高校生は今!」となった。「今時の若い者は」と年寄りが繰り言を述べる、そうした視点とは決別して、ともかく冷静に高校生の意識の変化を探ろうと私たちは考えたのだが、「高校生は今!」という標題から誤解される向きもあったようである。
 こうしてシンポジウムを終えて考えると、今回提起された課題の大きさに戸惑いさえ覚える。高校生に視座を据えて、あるいは高校生を主体にして、高校教育改革を考えることの難しさが浮かび上がってくる。第14期中教審が「学歴社会」と「学校間格差」を教育の最大の病理としてとらえ、1991年4月に「過度の受験競争の緩和」と「特色ある高校づくり」を答申したが、それも小手先の改革に過ぎないように思われる。また、1996年に起こった神戸の「酒鬼薔薇聖斗」を名乗る中学生による小学生への殺傷事件を期に、文部大臣が第16期中教審に対して「心の教育」に関して急きょ諮問を行い、早くもその中間答申が出されたが、果たして子どもたちの心に届くのだろうかという疑念が湧いてくる。子どもたちは「学校」そのものをすでに見限っているのではないだろうか。「学校」での教育とかけ離れたところで社会とその社会での生き方を学びとってしまっていて「大人」とはまるで別な生を生き始めたのではないか。そんな感慨が押し寄せてくるのを禁じ得ない。まずは、シンポジウムの内容を捉え直してみたい。
 

 「学校離れ」の進行と高校生の孤立化

 シンポジストのトップバッターとして福富理智さんは、課題集中校と呼ばれる高校の生徒の実態を紹介された。学校に来て暴れたり授業妨害したりする高校生は2年前から少なくなって、むしろ学校に来ない、すぐ学校を辞めていってしまう生徒が目立つようになったと言われたが、これは私の経験とも一致している。「仲間づくり」が下手な子どもたちが、数人のグループごとに教室で机を並べることでやっと登校することができる。そのため担任が自由に席を決めさせてやると、教室の中は宮台氏の表現を借りると「島宇宙化」した数個ずつの机の固まりがあちこちに散在している状態となる。
 福富さんは、こうした生徒の声に耳を傾けてやること、バラバラに話しかけてくる生徒に一人一人向き合って話を聞いてやることを大事にしたと言われたが、こうしなければ生徒とのコミュニケーションは成立しないのである。一斉に全体に向かって語りかけることでは、話は生徒には通じない。「さっき言ったのに」という言葉は、「そんなの聞いてネーヨ」で簡単に打ち消されてしまう。しかし、おもしろいことに生徒のコミュニケーションルートというものがあって、「仲間同士」であれば休んでいる生徒に連絡をとりたい時には、「仲間」の一人に耳打ちしてやればPHSや携帯電話で生徒が連絡をとってくれるのである。クラスの「友人」がそばにいても、一度も会話を交わしたことがない。もちろん、名前さえ知らないし、覚える必要も感じていない。
 彼らが時に話しかけてくれる内容は、実は家庭では両親が離婚調停中であったり、母親一人に育てられているがその母親が入院中であったり、人一倍の悩みを抱えていてこちらが驚かされる。そうした生徒の悩みを聞き取るために、こちらが絶えず意識を全開していないと見過ごしてしまう。家出を敢行したり、暴走族に恐喝されていたり、中にはシンナーや覚醒剤に手を出したりしている生徒もいたりする。彼らの心の中には孤独がデンと居座っているように思われるときがある。授業中じっと黙っている生徒、マンガを読んでいて注意してもやめない生徒、おしゃべりしながらそれでもノートをとる生徒など様々であるが、授業に集中できている者は数えるほどしかいない。授業に付き合っているとしか言えない状態である。従って、1日の授業が終わると、帰りの担任の点呼ももどかしがって、掃除もそこそこに下校していってしまう。たまに教室に残っている生徒に声をかけると、バイトまでの時間調整で残っているのだという。
 会場から「課題集中校」という表現がおかしいという指摘があったが、進学校、中堅校を「非課題集中校」として括ってしまったため、進学校、中堅校には何の課題も問題もないかのように誤解を生むということだったように思う。聞き取り調査においては、「学校不適応」を起こしていると思われる生徒には、学校・家庭・社会像に顕著な差異が見られないことが分かったが、学校全体を見れば課題集中校では課題が「集中」している状況が浮かび上がってくるはずである。しかし、進学校の進学指導、中堅校の部活動などそれぞれの学校単位で抱えている問題があることについては、否定しない。塾・予備校通いが当たり前になって、学校での授業が「空洞化」してしまっているという指摘もある。これも現象形態は異なっても「学校離れ」の徴候であると思われる。そうした状況について、残念ながら詳しい分析と報告が私たちの手元に届いていないのである。
 

 「大人社会」への「反発」と「共感」

 駒崎亮太さんは定時制高校に集う生徒の実態を報告するとともに、「高校生問題」は存在しない、むしろ「大人社会問題」であると語られた。やはりここ2年間ほど、定時制には登校拒否といじめられっ子が増えていて、さらに退学・休学の生徒が増加する傾向にあるという。さらに、学校への愛着もほとんど消え失せてしまっていて、学校が「居場所」とはなっていない。こうした現象は、「大人社会」にこそ見られる。ゴミ問題、沖縄の基地問題、放射性廃棄物問題などを例に、「大人社会」の「不始末」こそが問題であると指摘された。そうした大人の「不始末」を頬被りして「指導」しても、高校生はそれを「嘘」と見抜いてしまう。
 この指摘は、援助交際する高校生などの取材を行ってきたジャーナリストの速水由紀子さんも語られたところである。高校生は自らを高校生とはとらえていない。「ゲーマー」であったり「アニメオタク」であったり「クラバー」であったりする。そして、援助交際でセックスすることを「アウト」と思っている女子高生が、コンビニでパクリをやることを「セーフ」と感じている。しかし、パクリをする自分を「弱い人間」としてとらえるが故に、「大人社会」での犯罪を「弱い人間」のすることと許してしまう「生理感覚」を持ってしまっているという。速水さん自身が立ち会った援助交際の現場で、援助交際を迫る孤独な中高年のサラリーマンを、女子高生が「いいオジサン」ととらえる感覚を速水さん自身も共有できたという。
 このお二人の指摘は、「大人社会」を高校生がどう受け止めているかの、二つのパターンを提示しているように思う。「大人社会」の「嘘」を見抜いて大人へ「反発」する高校生と、「大人社会」での大人の「弱さ」を見抜いて大人へ「共感」する高校生の姿である。どちらも、本人自ら「大人社会」の「不始末」を繰り返したり、「悪」に自ら身を委ねながら、大人の対応の仕方によって、その行動が「反発」か「共感」に分岐しているのである。そこで、速水さんが言われた言葉がうなずけるように思われる。大人も教師も自分が「弱い」存在でしかないことをあからさまに投げ出して高校生と接すること、このことでしか高校生たちは大人を分かってくれないと速水さんは強調されたのである。自分は「大人社会」にあって健全な生活をしているから「不始末」とは無縁である、あるいは高校生を「指導」する立場であるといった居丈高の姿勢では、「反発」を招くだけであり、「共感」を得られるどころかただそっぽを向かれるだけである。
 では、高校生は「大人社会」をどう見ているのか。私たちの聞き取り調査では、「こんな大人にだけはなりたくないと思う大人はどんな人ですか」と聞いた。自分の親や教師など身近な人物をあげた生徒が9人、やくざ・痴漢など迷惑をかけたり犯罪を犯す大人をあげた生徒が18人、プータロー・飲んだくれなど仕事をしようとしない大人への評価が厳しく22人、そしてもっとも多かったのは、子どもに対する無理解な大人・自分の意見を押しつけて他人の話を聞かない大人・人を外見で判断する大人など「共感」できない大人をあげた生徒が32人であった。その他19人を含めて合計が 100人になるように私が分類してみた結果であるが、高校生の感性のあり方を示しているように思われる。
 また、「今の社会でイヤだと思うことはどんなことですか」とも聞いてみたが、複数の項目をあげた生徒もいるので、あげられた項目で多かったものから掲げてみると、次のようになる。消費税・税金が21人、学歴社会やタテマエとホンネがずれている社会が20人、殺人や犯罪が17人だった。分からないと答えた生徒も20人と多くなっているが、高校生が消費社会の中で生きていること、学歴や見掛けによって評価され判断されていると感じていることが浮かんでくる。
 

 高校生の第4空間への拡散

 今回のシンポジウムでは宮台真司さんが他の3人の意見のまとめ役をして下さっただけではなく、私たちの日頃感じている高校生の「学校離れ」の現象を、歴史的・社会学的分析を通して解明して下さった。その上、かねてから私が30年近くに及ぶ教員生活の中で、社会問題になった教育問題に抱き続けてきた疑問に解答を提示してくれたように思った。世界的な学生反乱が高校の学園紛争に波及していた1970年代前後、それが沈静化した後のシラケ世代、その後1970年代後半に家庭内暴力が問題化する。当時「母原病」と騒がれ、あたかも家族の人間関係の問題であるかのように議論されていた。1980年代を迎えると今度は校内暴力が蔓延する。1980年代半ばを迎えると管理教育の拡大で、中学・高校生のターゲットは仲間へと向かい、それがいじめとという形になって現れるようになった。教育問題がどうしてこのような経緯をたどってきているのかという疑問に、宮台さんは歴史的・社会学的な分析のメスを加え、おおいに納得できる解釈を示してくれた。
 日本の「大人社会」が買春天国であること、また伝統として売春をタブーとしない社会であることを適応的に学習した女子高生が、援助交際にのめり込んでいったという。この歴史的・社会的背景には、過渡的な近代に特有の「幻想」が成熟社会を迎え崩壊していった過程がある。高度経済成長の最中の1960年代には団地化が進む中で「家族幻想」が芽生えるが、高度経済成長の終焉した1970年代後半には崩壊し始め、それが家庭内暴力という形で現れたという。その崩壊と並行して今度は、団地のニュータウン化が進む中で、環境浄化運動と伴に「学校幻想」がかき立てられていく。どこへ行っても学校の物差しで「できる子」「できない子」という具合に測られる、子どもにとって大変窮屈な「学校化」社会が進行する。1980年代前半の校内暴力、1980年代後半の相次ぐいじめ事件やコンビニに集うヤンキーの登場は、「学校化」社会への子どもたちの反乱であり試行錯誤であった。こうして1980年代を通じて、家庭にも学校にも地域にも「居場所」を失っていった子どもたちが、第四空間に「居場所」を求めるようになる。ストリート系、オタク系、その中間の電話風俗(テレクラ系とでもいうべきか)を含め、脱「学校化」(「学校離れ」)即ち「学校幻想」の崩壊が進行する。この新たな「居場所」の発見があって初めて彼らは自らを肯定できるコミュニケーションの場を獲得する。
 果たしてこうして第四空間に拡散していった高校生を、学校は再び「居場所」となって呼び戻すことができるのだろうか?授業を何とか成立させようとして、様々な規則を積み重ね管理体制を強化している学校の姿が浮かんでくる。あるいは学校のPRのために、地域からの苦情にきめ細かく対応し、地元の中学へ学校の説明会を頻繁に行っている。部活動・学校行事を活性化させようと教員が力を入れるが、笛吹けど踊らずという現実もある。県教委が主導して始められた「特色ある高校」づくりが、そうした学校の努力を後押ししている。しかし、これらの努力は従来の学校イメージの延長上の「改革」でしかない。家庭・学校・地域に「居場所」を持たなくなった子どもたちが、歴史的・社会的条件が変わらないところで、家庭・地域に戻らないと同じように学校に回帰するとは思えない。宮台さんは世代的実存の差から、大人が昔の家族の団らん・地域の祭りの楽しさ、学校の部活動や修学旅行の楽しかった思い出をもって子どもたちを何とかしようと思ってもどうにもならないと言う。学校を卒業することが子どもの将来にとって大切なことだと言っても、子どもたちはとっくに「学校幻想」から離脱してしまっている。学校に関していえば、従来の学校は死んで生まれ変わらないといけないとさえ思える。
 

 教師、学校はどう生まれ変わらなければならないか

 私は高校教育改革として「学校間格差」の是正のための学区の縮小と「学校選択よりも人生選択を」可能にする「総合制」高校を将来のあるべき高校像として展望してきた。しかし、私の課題集中校での経験や今回のシンポジウムの議論が描きだしたように、それらだけでは現在と未来の高校生を学校に呼び戻すことはできないと考えるようになった。何よりも高校生が歴史的・社会的条件の変化とともに大きく変貌して来ているのである。私たちは、高校生の変貌を視座に据えた高校教育改革を改めて検討する必要があるように思う。
 そのために私は、シンポジウムの議論の中で宮台さんが指摘された学校変革あるいは再生のための課題(プログラム)を参考にしたい。私なりの整理では、その課題は3点あげられたと思う。まずそれらを箇条書き的にまとめてみよう。

(1) 子どもたちは、失敗を極度に恐れ、世界に対する基礎的信頼を失っている。従って、教育は彼らを無条件で肯定し、試行錯誤を認めるシステムに切り替えられなければならない。
(2) 先進国の中で日本だけが、教育を人材の配分とそのための知識の伝達を重視する装置としている。そうではなく、学校はコミュニケーションの快楽のためにあり、コミュニケーションの熟達のためにあるという方向に転換しなければならない。
(3) 成熟社会は大人にとっても子どもにとっても不透明な社会である。一斉に同じことをさせるなど従来の方式では、子どもたちの自己決定能力は育たない。従来学校に期待されていた機能とそのための優先順位(プライオリティー)を組み替えなければならない。

 このどれをとっても、現在の学校制度に大きく変更を迫るものであり、私自身の高校像も修正を迫られている。だが現在のシステムを変更するためには、現場の教師の意識が変わらなければならない。この意識変革は、あたかも袋の表と裏をひっくり返すように、今まで常識とされていた考えを捨てて、新しい考えを詰め替えるような困難が伴う。だからこそ宮台さんはシンポジウムの最後の発言で、「教師であることの個人的実存に結びついた濁りある思考」を徹底的に排除すべきであると強調されたのだと思う。例えば、「授業が大切である」と教師は考える。しかし、その授業は「知識の伝達」を第一義とする発想に根ざしていないだろうか。また、生活指導の場面でよく口に出される「生徒と教師は違う」という言説も、大人あるいは教師の優位性に依拠していないだろうか。何よりも問題となるのは、現在の学校のシステムになじめない生徒に対して、「排除の論理」が発動しがちな「学校」適格者主義の判断基準が、多くの教員に共有されていることだろう。
 次に、具体的な制度改革についてはどうであろうか。「試行錯誤を認めるシステム」として考えてみると、神奈川の「再入学制度」の再検討が望まれる。当初は中退した生徒が、2年以内であれば学力試験を課さずに面接によって、中退した高校に再び戻れるというものであったが、1997年度からは公立高校であればどの高校にも戻れるという制度に拡大された。この制度を全日制・定時制・通信制等の課程や普通科・専門学科の学科を問わず転・編入あるいは再入学できる制度として整備し直すことはできないだろうか。神奈川県のどの公立高校でも一旦入学が許可されれば、各学校間の転学・退学・再入学がもっとやりやすくなる。そのためには、全県で通用する単位制度の統一的な弾力的運用が必要となる。また、「知識の伝達」ではなく「コミュニケーションの快楽」のための高校教育制度の改革となると、教育課程全体の見直しが必要であるだけではなく、授業形態を40人が1教室で一斉に授業を受ける現在の形を改めることになる。学校施設なども生徒が気ままに集うことのできるサロンや食堂を設置しなければならない。校内にコンビニがあるともっとよいかも知れない。
 試みに今思いつくものを掲げてみたが、教師の意識変革にしても高校の制度改革にしても、そう簡単でないことが分かる。そして改革の課題は、単に学校に止まるものではなく、家庭、地域さらには日本社会全体を見渡したプログラムを必要とするものである。今回のシンポジウムは、残念ながら、高校生の変貌をどう捉えるかという議論に終わってしまった。しかし、重要な問題提起が行われたということは、理解していただけたのではないだろうか。今後の現場の教員・父母・県民の英知を結集した取り組みを期待したい。

(みつはし まさとし 教育研究所員・県立中沢高校教諭)

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