年史編纂で思うこと

教育研究所代表 杉山 宏 

 神高教50年史の編纂業務が行われている。30年史の編纂委員であったということもあってか、50年史の編纂業務に参加することとなり、30年史を読み直す機会が多くなった。30年史の末尾に「新高校教育会館の建設」という項がある。会館建設委員会により作られた会館建設計画草案が、神高教第39回定期大会に提出され決定をみたとし、会館模型の写真を掲載して年史の本文は終っている。現在では、その会館も建てられてから15年が経過し、会館内に作られた県民図書室も蔵書約一万冊となり、また、他所にはない貴重な資料類も閲覧可能なように整備されてきた。それらの資料により30年史の誤りの部分、記載漏れの部分も相当程度判明してきた。
 30年史の「分裂攻撃から組織再建へ」の項中に「61年秋には神高教組織は1500名を割った。しかし神高教組織分裂・脱退の傾向は62年秋には一応おさまり、63年春から組織拡大に向かっていった」とある。この「1500名を割った」という箇所であるが、当時の編纂委員は分裂後の神高教組合員数を1400名程度と捉えていて、この表現になったと記憶している。
 会館の所蔵資料充実業務として、高校教育関係者からの「聞き取り調査」を行っているが、62・63 年当時の執行部関係者の話を聞いた折に、分裂後の組合員数の話になった。その話の中で、組合費の徴収出来た人数でいうと、1000名を割った月があったという言葉が出て驚いたことがあった。極端に人数の減った分会等で、自分は神教の組合員だという人がいても、人数に依っては実際に組合費を毎月本部に納入することが困難になった場合等もあったことであろう。また、組合員数の数え方は必ずしも一通りではないが、「1500名を割った」という割り方は、私が考えていた数をかなり上回っていた。組織再建に当たって実数を知ることは必要なことの一つといえるが、62・63年当時にこの事実が県下の全県立高校教員に判った時、出方によっては、第二組合側は勢いづき、第一組合側からはより脱落者が増加したかも知れなかっと考えられる。集団が物事を決めてゆく場合、本来多くの人が実態を知っていて、話し合って決めるのが当然であるが、時によって必ずしもそうばかりいっていられないことがあるのかも知れない。 
 30年史編纂時には手許になかった資料で、その後入手した資料を50年史にどう取り入れるかという問題がある。その種の資料の一つに、59年 1月の『日教組第47回中央委員会記録』がある。前年12月に共闘会議と県教委との間で一応の結論に達した神奈川方式を巡っての質疑応答がこの時の中央委の中心議題であった。その中に、日教組中執の神奈川方式に関する連絡が地方組織に伝えられず、地方組織は一般商業紙によって知るだけであった。しかも神奈川方式に関連することは、他府県教組の交渉においても十分知っている必要のあることであり、何故伝達が不十分であったのか、この辺の経緯を聞きたい、という香川の委員の質問があった。これに対し槙枝書記次長の答弁は、従来、中執は結論を原案として地方組織に流しており、中間報告的なことは行っていなかった、としているが、その時の答弁では、従来行っていなかったが、審議途中のことを地方組織に知らせるのも一方法であったかも知れないとしている。そしてその折、地方への伝え方について「執行部の審議過程というものを明確に出して、日教組の中に宮之原派と平垣派があるとすれば、その両派の考え方というものをこうなんだ、元の原案はこうなんだ」という表現を用いて、下部へ流す討議資料について述べていた。これに対し、京都の委員から「書記次長の答弁の中で、宮之原派と平垣派があるとすれば、二つの考え方について紹介するという方法もありますがというような、ああいう答弁は私は絶対に慎んで貰いたい」との発言があった。 58年 6月に開催された日教組第17回定期大会、所謂、上ノ山大会において、勤評に関して激論が闘わされたのは当然であったが、役員選挙においても激しい対立を生み出した。委員長候補を除く全三役に対立候補が出されたが、選挙直前に副委員長候補の一人が立候補を辞退し、書記長と書記次長の選挙が中心になった。総評内部に岩井章を中心とする、職場内に社会党の党員協議会を作る動きがあり、やがて「総評主流派」が形成された。一方、これに対して高野実を中心とする共産党との統一行動を主張する「反主流派」も形成され、対立していた。この総評内の対立が日教組にも持ち込まれ、熾烈な役選となったのである。特に平垣美代司と宮之原貞光の両名が立った定員 1名の書記長選挙は注目された。役選は、投票が終了した後、選挙のやり方に疑義が出され混乱し、岩手提案の収拾策が可決され、大会は休会となった。翌 7月に再開された大会で再選挙となったが、再開大会で委員長より派閥解消に努力するとの答弁があった。しかし、派閥の対立はこれ以後も益々激しさを加えていった。神奈川方式を巡る意見の対立もこの対立と重なるものであり、宮之原派、平垣派という名称の使用の妥当性は別として、意見の異なる集団が夫々の意見を持ってぶつかり合っているという実態を具体的に説明することによって、多くの組合員に神奈川方式の内容をよりはっきり判らせることは出来たと思う。但し、多数の組合員が勤評問題を巡る実態を知ることにより解決の方向に向かったのか、逆に考えの違いが明白となりより混乱が大きくなる方向に向かうことになったのかは判らない。しかし、原則はやはり関係者全員が事態を正確に知り、解決方法を全員で考えていくということであろう。事態を正確に知ることにより教職員組合の中の対立がより先鋭化しても、組織を分裂させないためには、中学生が社会科で学ぶ「多数決が正しく運用されるためには、反対意見や少数意見が十分に尊重されることが必要である」ということを教師自身が理解し実践することであろう。

(すぎやま ひろし 立正大学講師 元県立横浜日野高校校長)  

 

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