主人公は子ども・土佐の教育改革
 
 

 [3] 「地域教育指導主事」(全国初)の存在

 この「地域教育指導主事」については「土佐の教育を考える会」の論議の中で「学校・家庭・地域の連携を進める」役割が指摘され、それを受けて県教委が方針化したもので、施策3本柱の一つである。
 まず第一はすでに内容にふれた学校単位に「開かれた学校づくり推進委員会」の設置。
 第二に「家庭・地域・学校」それぞれにある子どもたちの状況、課題を「地域」を中心として話し合う場として「地域教育推進協議会」を設置。(市町村教育委員会、学校関係者、PTA関係者、子ども会の指導者など「地域ぐるみ教育推進」の核として位置づけられている)。
 第三番目に「地域ぐるみ教育の推進」、「地域教育力の向上」などの活動を支える役割として「地域教育推進員=地域教育指導主事」制度が設けられ、学校の教員(籍は学校に置かれ市町村教委勤務)を任命・市町村に派遣。
 「主事」の大きな仕事としては(1)「地域教育推進協議会」の設置および運営。事務局としての活動、(2)学校・家庭・地域それぞれの役割をはっきりさせ、協力・信頼関係を築くための調整役、(3)地域教育推進のため各種団体や学校・保護者との連絡・調整、(4)「開かれた学校づくり」の推進および子ども・保護者・地域の人の声を聞き教育課題の把握に努める。(5)「地域ぐるみの教育」を実現するために事業の企画・立案・実施など三者連携の核としてのコーディネート役を担っている。
 2000年度には全市町村(53)に配置され、試行錯誤しながら地域教育力の掘り返しに取り組み着実な成果も出てきているという。
 全国的にも時は「完全学校週5日制」、「総合的な学習の時間」の導入を目前にして、地域全体の整備が急がれている状況にある。しかし現実には他にない制度のため地域によっては「指導主事」まかせ、地元教委の理解のなさなど、「指導主事」のやる気だけが空回りしているところもあるという。個人の能力に負うところが大きい仕事である。学校現場から見ると「地域教育指導主事」の役割については積極的に評価をしているものの、専門職として位置づけてほしいとの考えもある。全体として多数の学校をかかえる市部においては、個々の学校に関わることはほとんどなく、数校の学校しかない町村において各校の取り組みに深く関わっている例を見るという。
 しかしすでに現県教育長は、予算の関係もあり、「地域教育指導主事」制度の成果が見られない市町村には再派遣しない姿勢も打ち出している。

 まとめとして

 橋本県知事2期目の公約、提唱されてつくられた「土佐の教育改革を考える会」において半年間('96.6月〜12月)33人の委員が毎回4時間以上、10回にわたる論議(議事録500頁に及ぶ)をへて「土佐の教育改革」は始められた。
 「教育改革を考える会」の第1回目から、あるPTA連合会の役員が「各学校に学校運営委員会」の設置を主張、「学校運営に父母、地域の人々が教職員と自由に意見交換する場を設けるべきだ」と一貫して発言し続けていた。この存在がややもすると流されがちな「学校・家庭・地域の連携」に対する具体策として「開かれた学校づくり推進委員会」の誕生と「地域推進協議会」の方向性になったという。
 文部省が打ち出している性急な教育改革と同時進行している「土佐の教育改革」はどういう発展があるのか。まだまだ結果など見えるわけもない。今回土佐の全国交流集会に参加して、「土佐の教育改革」にふれた。1日目の全体会の中で、「高校生の意見表明」の場があり、県立窪川高校社会問題研究部の生徒2人が「(四万十川)家地川ダム撤回の是非をめぐって」について、取り組んだ内容の報告があった。「ダム撤去推進・反対双方へ聞き取りを行なったり、橋本知事と懇談会を開いた様子をスライドを交えて報告してくれた。異なる立場の人たちにふれたむづかしさやこの取り組みをしたことから学校がおもしろいと感じるようになったことなどを話してくれた。
 話を聞きながら教育の場には生徒の可能性を引き出す、または人生を楽しむ方法がたくさんあるのだという、感想を持った。
 「土佐の教育改革を考える会」という熱い語り合いが「学校の主人公は子ども」であるという視点を持てたことは、改革の一歩目が期待が持てたのではないだろうか。日本の学校でそうなって来なかった長い長い歴史を思うとこの改革を応援したい気持ちになってくる。
 今回、子どものいじめの問題や不登校の実情など一部の子どもの問題かも知れないが、「教育改革」が進められる中でどんな取り組みと変化があったのか、その事にふれる機会がなかった。
 野村さんの報告の中に「土佐の教育改革」は教育行政が「被告席に座った」点であり、そして教職員や教組運動も同様かも知れない、と言われている。そのことは子どもの前には親も地域住民も「被告席に座る」覚悟が必要なのだと思う。しかしこれは精神論的にではない。一人ひとりの子どもの目を見て、子どもの意見を聞きながら、子どもと一緒の学習や活動を通して学校・社会を創っていく。その機軸に置くものは「子どもの権利条約」である。
 そしてそれを進めるための整備を考えていくことができるならば「教育改革」の柱はしっかりと築かれることと思う。期せずして野村さんから「高知では『子どもの権利条約』制定の準備が始まっています。条例策定に子どもの参加を求めていたところ、行きがかり上策定の委員になりました。できれば「子ども権利条約」をめぐって、全国の高校生と交流できればと考えています」との知らせをいただいた。
 「補論」に述べた「土佐の勤評闘争」 をまとめるために県教組発行の『高知の勤評闘争』(1979年)を読んだ。子ども・親を巻き込んだこの激烈な闘いが弾圧され、管理統制へと逆行していくありさまに悲しみがこみ上げてきた。そして40年の時をへての「改革」は「修復・信頼の構築」があっての改革であってほしい。
 教育の自治権や生徒・教員・父母などの自立と対等性からはほど遠いこの日本の学校社会において、民主的な関係を築いていくための「話し合う場」「静かな闘いの場」が求められている。

注1 「土佐の教育改革を考える会」、委員33名の構成。父母・PTA9名、教職員組合5名、経済界3名、県議会議員4名、公・私立学校長3名、村長1名、市教育長1名、教育審議会2名、大学教員2名、医師1名、マスコミ2名。
注2 「5年間で300人の教員増」、1997年県教育長が発表。目的は、「教員の長期社会体験研修(採用2年目の教員を6ヶ月間民間企業・社会福祉施設に派遣)導入、(仮称)地域教育推進員(指導主事)53人など、「教育改革」を進めるため、5カ年計画で300人増員をめざす。2000年現在採用増221名の内訳、(1)長期社会体験研修代替61名、(2)臨時教員の正常化56名(内産休代替20名)(3)地域教育指導主事23名(4)中高連携教育22名(5)小学校1年等複式改善等16名(6)小学校学級指導改善など24名(7)障害児教育の充実19名
 

 【補論】高知の勤評闘争

 1957年7月、文部省は国会において「全国勤務評定実施」を発表。日教組は全国的な「勤評反対闘争に立ち上がった。中でも高知県の闘争は群を抜いて激しい闘いとなった。
 それ以前の1950年代初め、高知県下の労働・平和運動・婦人・青年・部落解放各団体、大学学生会、高校生徒会、革新政党などが、「15年戦争」の反省と勃発した朝鮮戦争・日米安全保障条約問題などを背景に平和と民主主義をめざすために連帯し、呼応し、団結した闘いを続けていた。特にその中心的な役割を担っていたのが高知県教組(組合員7130人)であった。文部省の「反動文教政策」(学習指導要領、道徳教育導入、教科書検定、第1次教育2法「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」、「教育公務員特例法」)に対する反対と「高校無試験入学」をめざし、幅広く県民と連携していた。(`53年当時教育委員は「公選制」、`56年「任命制」に変わった。)
 全国に先がけて、`57年「勤務評定」を実施したのは愛媛県であった(教育委員任命制直後)。それを見て文部省は全国実施の方針を固めた。1957年、全国的な「勤評闘争」のうねりの中で、高知県教組は「中学3年生の学力検査実施」、「高校選抜入学試験実施」に対して試験中止を申し入れ、3月17日県教委前での座り込みなどの運動を中心に行っていた。(中学生1800人が知事、県教育長と選抜入試撤回交渉、父母代表も追手門広場のテント村に徹夜座り込み実施、18日には5000人になった)。1958年1月四国4県教育長協議会が「勤評実施」の申し合わせを行ったため、県教組は臨時大会を開催し、「勤評を条件闘争ではなく、最高の実力行使で粉砕の方針」を確立した。5月14日に県教委は「勤務評定(案)」を発表した。公立高校長会に説明会を企画したが、2回にわたって流会した。21日県教組など11団体による「勤評粉砕県民委員会」が結成され、3000人の市中行進、34人の団体交渉、知事室前に座り込んだ。22日には丸の内高校校庭において、「勤評粉砕高知県父母大会」が開催され、県下の父母、教員、労組代表2500人が参集した。他方講堂においては、県教組校長部総会(当時の校長全620人)に600人の校長が参加し「勤評絶対反対」の態度の再確認と、「暴力的決定撤回要求」を満場一致で決議した。校長たちは、校庭の父母大会に合流し、5000人に増えた人々で、徒歩3000人とバス40台で市中を大デモ行進した。24日に、県警本部が地公法37条に違反と表明し、「勤評取締本部」を設置した。
 県教組は「10割一斉休暇闘争」、市中デモ行進や25カ所〜50カ所集会などを次々に実施した。一方で、一部の父母が「一斉休暇」に反発し、特に山村23校区で「生徒の登校拒否事件」も発生した。また日教組に反対する「高知県教育協議会」が「日教組批判県民大会」を開催し、父兄同志会、教育振興会などの4000人が藤並神社に参集後、市中デモ行進を実施した(右翼の台頭)。
 県立安芸高校生徒会が県教委に対して「学園民主化27項目要求書」を提出したのをはじめとして、高校生徒会が次々と行動を起こしていく。県教委は学校長、教職員の配置転換・処分を開始した。「勤評と民主化」闘争は生徒を巻き込み、ますます激化していった。そして「森事件」が起こった。この事件は`58年12月15日、仁淀高校において県教組と仁淀村森小学校の教員らが「10月28日の10割休暇闘争時の児童90%盟休に関して父母が全教員を森小学校から閉め出し、占拠した」ことについて協議しているさなか、森小学校父母200人が詰めかけ、傍聴を申し入れたが受け入れられなかったため、父母の80人が電源を切断し、消火器などを噴射し、乱暴を働いたり、「委員長を殺せ」の声もあがった。このとき県教組委員長などの重傷者を含め30数名が負傷した。この事件の後、県警本部は県教組本部など15カ所の一斉手入れ、副委員長をはじめ11人を逮捕した。逮捕者は、`59年1月7日までに50人になった。
 2月21日、県知事、県議会議長は教育正常化を要請し、「斡旋案」を出したが、「勤評提出は校長の自由意志によって処理」とあり、不調に終わった。`58年度は「勤評実施不可」で終わった。しかし不提出の校長には、懲戒免職・停職などの処分が次々とでた。高校生徒会は「不当処分撤回高校生集会」(4500人)などを開催した。
 県議会は9月議会において「公立学校の給与に関する条例(勤評書類が出されない場合は昇級の対象にならない)」、「公立学校職員の勤務時間、休日および休暇に関する条例(休日承認権が校長から教育委員会へ)」を強行可決した。県教委は提出期限の9月30日をずらし、様々な手を使って提出を促した結果、11月22日、327校(全620)の提出を発表した。
 1960年1月、高知市長(革新)が「教育の混乱を避けるために校長は評定書を出すべき」とする「斡旋案」を県下市町村に働きかけ、校長会はこれを受け入れたが、県教組は拒否した。その後、県教組の分会役員が分限免職されたり、、山田高校生徒会による新任校長登校阻止行動に対して、警官隊が出動して、7人の生徒が重軽傷を負ったり、「勤評書」不提出の校長や校長代理への分限処分などが次々と続いた。1962年7月の日教組第24回定期大会(富山)において「高知の勤評不提出、文部省教研不参加・拒否は受け入れられない」という日教組方針に接して、県教組は9月「日教組大会方針に従う」ことを決定した。こうして1958年以来、4年8ヶ月にわたる闘いは終わった。すべての「勤評裁判」の和解成立は1974年3月であった。
参考資料:外崎光弘(元県教組闘争委員)、岡村峰夫(当時県教組副委員長)『高知の勤評闘争』高知県教職員組合教文部発行

(おやま ひろみ 茅ヶ崎市社会教育委員会議議長 教育研究所所員)

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