所員レポート
虐待の却退をめざして
(続) わたちゃんの「現代社会」 ノートから  
 綿 引 光 友 
 
  はじめに

  筆者は、 『ねざす』 27号 (01年 4 月) に 「エッチの先には愛がある?」 との拙文を掲載した。 サブタイトルに 「わたちゃんの 『現代社会』 ノートから」 としたのは、 また機会があれば 「現代社会」 授業の実践報告をまとめてみたいという下心 (?) があ
ったからだ。
  今回、 「現代社会ノート」 の続編として拙文を執筆することになったが、 ここに紹介する 「児童虐待」 の授業実践報告は、 私自身がはじめて授業で取り上げるテーマでもある。
 本来ならば 「エッチの先には…」 のように、 何度か実践を重ね、 ある程度 「熟成」 されたものでなくてはならないが、 いわば 「生煮え」 状態のものを試食 (?) していただくことにした。 料理の素材そのものは新鮮ではあるが、 料理人の腕がよくないために、 味の方はイマイチかもしれない。 不十分さを百も承知の上で拙文としてまとめたのは、 より生徒の心に響く授業をめざすための反省資料にしたいとの思いからだ。 彼らが書いたレポートや感想文をできるだけ多く示しながら、 生徒たちが 「児童虐待」 をどのように受け止めたか、 いわば 「普段着の授業」 の実践記録として読んでもらえれば幸いである。 批判ならびに助言をいただければ、 これにまさる喜びはない。

  「いじめ」 から 「虐待」 へ

  東京・中野区富士見中学校で 「いじめ死」 事件 (86年 2 月 1 日) が起きて、 今年でち
ょうど16年。 事件後に生まれた子どもたち (厳密にいえば86年 4 月 2 日以降に生まれた者) が、 今年 4 月から、 高校 1 年生となる。 この事件はよく知られているように、 中学 2 年の鹿川裕史 (ひろふみ) くんが、 「葬式ごっこ」 などの 「いじめ」 を受け、 父親の郷里・盛岡駅前のデパートにある地下食堂のトイレ内で首をつり、 自ら命を断つという痛ましい事件であった。 「俺だって、 まだ死にたくない。 だけど、 このままじゃ 『生きジゴク』 になっちゃうよ」 との遺書を残して。
この事件をきっかけに中・高生の 「いじめ死」 事件が相次ぎ、 大きな社会問題・教育問題として注目を集めることになった。 あるアイドル歌手の 「自死」 事件をきっかけに、 「後追い自死」 を遂げる若者も相次いだ。 「現代社会」 の授業を始めて 5 年目のことだが、 「こうした現代社会の問題こそ授業に取り入れるべき絶好のテーマだ」 という思いから、 すぐさま 「いじめ」 を授業で取り上げることにした。 「いじめ」 事件を報じる当時の新聞記事の切り抜きをもとにプリント資料を作成し、 それらをもとに 「いじめ」 の実態に迫りながら、 「なぜ、 いじめが起きるのか」 を一人ひとりの生徒たちに考えさせた。 予想どおり、 生徒は真剣に受け止めてくれた。 おかげで、 「いじめ」 の授業は、 「愛と性と生」 の授業とともに彼らの心に強く残るものとなった。
以来十数年、 「いじめ」 は大きな教育課題となっている。 そうしたことも意識し、 「現代社会」 の授業の際には、 毎回取り上げる 「必修テーマ」 の 1 つに位置づけている。 もちろん、 できるだけ最新の 「いじめ」 事件を資料化するように心掛けている。
  ここ 2 年間は新聞記事だけでなく、 ベストセラーとなった 『だから、 あなたも生きぬいて』 (大平光代著、 講談社刊) の一部を冊子 (B 5 で14ページ分) にして配布し、 読ませている。 すると、 ふだんはにぎやかな生徒たちもこのときばかりは水を打ったような静けさの中、 食い入るように配布された冊子を読んでいた。 そして本などあまり買うことのない生徒たちが、 親にねだってこの本を書店で購入したという後日談をいくつも聞いた。
ところで 「児童虐待」 はここ 2 〜 3 年、 新聞やテレビ等でしばしば取り上げられ、 これまた 「いじめ」 と並ぶ深刻な社会問題となっている。 「これも 『現代社会』 の授業で取り上げねばならない重要テーマだ」 と私自身感じながらも、 正直なところ 「教材研究」 ができず、 避けていた。 しかし、 今年度 (2001年度) の 「授業開き」 におこなったアンケート調査で、 「関心のある社会問題」 の第1位が 「児童虐待」 であったため、 「これは逃げられない」 と覚悟した。 カッコよく言えば、 「生徒のニーズに応える授業」 にチャレンジしたことになるが、 後期の授業に向けて、 あわてて 「教材研究」 に取り組むことになった。
  といってもとりあえずは、 4 月 (01年) 以降、 新聞切り抜きファイルに 「児童虐待」 の項目を新設し、 「虐待」 事件に関する新聞記事を収集することから始めた。

  スタートはビデオ鑑賞から

  新しいテーマ・単元に入るとき、 私はいつも、 どのように切り込むか、 悩むことが多い。 「寿司屋は大トロで勝負するが、 授業はイントロで勝負」 などと下らない洒落を言っている場合ではないが、 どういう切り口 (導入) から迫るか。 このことは、 生徒たちのモチベーション・アップの点からもきわめて重要なことだと考えている。
  20年くらい前の授業 (地理) で、 チョコレートを生徒に食べさせ、 「モノカルチャー (単一耕作) 経済」 について言及する授業を展開したことがあった。 私はこれを 「エヅケーション」 (エデュケーション) と名付け、 その後はハンバーガーを食べながら、 パート・アルバイト問題に迫るという導入パターンも考えた。 「食い気を起こせばやる気がでるのではないか」 などとくだらない屁理屈をつけて。
  「いじめ」 のときは毎回、 アンケート調査から入るのが定番だが、 「虐待」 ではどうすれば生徒たちを引き付けることができるか。 根気とハサミが必要な新聞の切り抜き作業をしながら、 テレビ番組欄を見ていたら、 「少年たち 2 」 という 3 回連続 ( 1 回75分) のドラマ (第 2 話のタイトルが 「児童虐待」) が放映されることを知った。 2 〜 3 年前にもこの前編にあたる 「少年たち」 ( 3 回連続) が放送され、 これを見たとき、 「なかなかおもしろい」 との印象があったので、 「『虐待』 の授業でこれが使えるかもしれない」 と直感し、 珍しくドラマを見ながら録画することにした。
 しかしながら75分ドラマなので、 2 時間分の授業を使って見せるしかない。 一方、 第 2 話だけを見せると、 きっと生徒たちは 「最後まで見た〜い!」 と言うのではないかと思った。 そのときはどうするか。 まさか 「 4 時間連続ビデオ授業」 というわけには行かない。 いろいろと心配はあったが、 一方では生徒の反応が楽しみ (?) だった。

  なぜ自分の子を虐待するの?
    ビデオの感想から
 

 「これから 『児童虐待』 について学習します」 などという予告などは一切せずに、 ビデオを見せた。 ドラマの途中でプツンとなるので、 1 時間目が終了すると、 予想どおり生徒たちは 「これからどうなるの?」 と聞いてきた。 内心、 「しめた」 とニンマリ。 こういう時は、 不思議なもので 2 時間目の生徒たちの集まり具合も早いのだ。 ビデオを見終わったところで、 感想文 (「ビデオ見聞録」 という名称をつけたB 6 サイズの用紙) を書かせた。  次にその中からいくつかを紹介しよう。
「タバコの火のあと (やけど) が痛々しかった。 でも自分のストレス (かもしれない) を子どもにおしつけることがあったら、 それは絶対に許せない。 最近は家族総ぐるみで虐待をしてることもあるけど、 そんなことしたら、 子どもは自分の居場所がなくなってしまう。 そんなことは絶対にあっちゃいけない。 せっかく産んだ大切な子どもなんだから、 大切にしなくちゃ困る。 余談だけど、 やっぱり最初から最後までドラマ見たかったなあ」
  「本来、 子を守るべき親が、 その子どもを虐待するというのは、 親殺しと同じくらいの重罪だと思う。 弱者である子どもを虐待するというのは、 すでに人の道からはずれていることだと思う」
  「今、 小さい子に対する虐待が増えているのをニュースで見ます。 このビデオを見て、 虐待というのを真剣に考えていかないといけないと思います。 それにしても、 なぜ自分の子を虐待するのか? 虐待するくらいなら 『子どもを産むな!』 と言ってやりたいくらいです」
  「 2 時間ビデオを見て、 一番最初に思ったことは、 家族の中って思っているよりもずーっと大切なものなんだと実感した。
 虐待とか、 きっと口とか態度じゃあらわせないぐらい辛いものだと思うし、 絶対にやったりしちゃいけないことだと思った。 これから先、 もし自分に子どもが出来たとき、 すごくかわいがってあげたいと思えた。 虐待なんか人がすることじゃないし、 この世から消えてほしい言葉だと思った」
  「ぼくは、 このビデオを見て、 こう思いました。 なんで親たちは実の子どもをなぐったり、 けったりすることができるのかがわかりません。 その子どもはなんの罪もないのに、 けったりする親の気持ちが理解できません。 だって赤ちゃんを産むのにつらいことがあって、 がまんして産んだのに、 なぐったりする人の気が知れません。 だからぼくは、 こういう人たちの気持ちが知りたいと思いました」
  「私はこのドラマを見て一番心に残ったのは、 最初はあまり子どもに関心がなかったけど、 だんだんに子どもを愛するようになってきたときのあの父親のあまり見せないやさしい顔が一番、 心に残っています。 やっぱりどんな親でも、 自分の子どもはかわいく感じるんだなあと思いました。 虐待はとてもみにくいと思った。 自分がおなかを痛めて産んだのに、 その自分の子どもにタバコの火を押し付けるなんて、 本当に信じられないことをするなあと思った。 同じ人としてとてもショックだった」
ビデオを見せる前の 「心配」 はみごとに的中。 「最後まで見たい」 という意見がかなり感想文に見られたので、  そのリクエストに応えることにした。 時間に余裕のあるクラス ( 3 クラス担当中 2 クラス) において、 第 3 話 (最終回) を途中 「早送り」 (時間的に余裕があれば 1 時間分に縮めて編集することもできるが、 しなかった) を入れながら、 もう 1 時間だけ使って見せた。 ドラマの方もハッピーエンドでフィナーレとなり、 生徒たちは大満足のようだった。

  グループ討論を仕組む

 さまざまな人物が登場し、 それらの人たちがドラマの舞台でもある家庭裁判所にかかわるという設定のため、 やや複雑だとの感想もあったが、 「感動した」 との声も少なくなかった。 その中で一番多かったのは、 これも予想的中だったが、 「なぜ自分の子どもを虐待するのか」 との疑問の声だった。 この当然ともいうべき疑問に対する答えの一部はドラマ中の台詞にもあったが、 そこまで気づいた者はいなかったようだ。 もともと、 「なぜ…」 との疑問を持たせ、 わずかでも期待をもって次の授業に臨んでくれれば、 それでよしとしていた。 なにせ、 次なる授業のテーマも言わずに、 突然ビデオを見せているのだから。
 「無計画」 と叱られそうだが、 感想文を読みながら、 私は次なる展開を考えていた。 年度当初から 「どこでグループ討論をさせるか」 を考えていたが、 これだけ多くの生徒たちが疑問に感じたテーマなら、 いくらかは話し合いになるのではないかと思った。 ただし、 最初からグループで話し合いをさせるよりも、 まず一人ひとりに 「ミニレポート」 (「ビデオ見聞録」 と同様のB 6 サイズの用紙) で 「なぜ虐待が起きるのか」 を書かせることにした。 そしてそのあと、 繰り返しになるが、 グループ討論をさせてみようとの作戦をたてた。
 まずグループ ( 5 〜 6 人を 1 グループ) づくりだが、 これは座席表で機械的に分け、 班長・記録係を決めさせた。 普通、 こうした話し合いのあとはグループごとに発表するスタイルをとることが多いが、 発表することが苦手な生徒がいたり、 他のグループの発表に耳を貸さない生徒もいるので、 討論結果を記録用紙にまず書かせ、 それを黒板に板書させるという方式をとった。 黒板をグループ数分 (ほぼどのクラスも 6 グループ) に仕切って、 そこにチョークを使ってグループの意見を書かせた。
  「黒板に書く字がうまい」 とか 「へただ」 とかのつぶやきや感想も含めて、 生徒たちの黒板への注目度はアップする。 すべてのグループが一通り板書したあと、 私がそれを読み上げながら、 共通する意見や異なる意見などポイントとなりそうな部分にチョークでアンダーラインを引いた。 そして、 あえて 「結論」 めいたことは言わなかった。
あるグループが黒板に書いた意見を以下に示そう。

  親が子どもに期待しすぎる反面、 ストレスで抵抗できない子どもにあたってしまう。 そして子どもへの愛情が強すぎて、 からまわりしてしまう。

「授業参観」 でこのグループ討論の模様を見ていたある保護者は、 次のような感想をもらしていた。
  「今日の授業は社会で、 テーマは 『虐待』 についてのグループ討論だった。 考え方が大人みたいで驚いた。 家庭的な雰囲気で授業をしていて、 とても良かったなと感じた」
  「授業は現代社会でグループごとに座っていて、 気軽に参観することができました。 あの輪の中に入って、 一緒にアドバイスしながら、 話し合いにも参加したかったです (まず無理かな) (略)」
「活発な話し合いができた」 とはお世辞にも言えないが、 はじめての試みとしてはまずまずではなかったろうか。 多少の失敗には目をつぶり、 こうした 「生徒が参加する授業」 のチャンスをもっともっと増やしていくことが必要だと感じた。

  「読みたくなくなるような資料」  を読ませる

グループ討論のあと、 あらためて児童虐待の具体例に資料で迫ることにした。 今まではどちらかというと、 大ざっぱにしか虐待の実態を見てこなかったのだが、 ここで 1 つの事件報道をじっくりと読ませ、 追体験させようとのねらいからだ。 資料 (「殺さないで  児童虐待という犯罪 (第 7 部) B」 毎日新聞00年12月12日) を配り、 それを生徒たちが読み始めると、 教室中はうそのように静まり返った。 目はプリント資料に集中している。 しばらくすると、 ひたすら鉛筆を走らせる音が室内に響きわたる。  今回、 感想文を書く用紙はB 5 サイズで 「ミニレポート」 の倍だが、 いつもよりたくさん書いてあった。 というよりも、 この事件のあまりの悲惨さに、 何人もの生徒が 「ひどすぎる」 「サイテー」 「ムカついた」 「最悪だ」 「シンジラレナイ」 「もう読みたくない」 という率直な怒りを感想文用紙にぶつけていた。 「読みたくないものを読ませる」 のは、 これはもしかしたら 「虐待」 になるかもしれないと後で思った。
 生徒たちが書いた感想の中から、 その声をいくつか以下に拾ってみる。
  「『ヒドイッ!』 この言葉しか言えない。 3 歳なのに、 何で体重が4.5sで身長が60pしかないんだ。 優ちゃんがご飯を食べようとしなかったら、 病院に連れて行ってあげれば良かったのに…。 死ぬことがわかっていたなら、 病院に連れて行ってよ…。 本当に心が痛くなる。 段ボールって、 親は一体何を考えてるのか分からない。 こんな人は最初から、 子どもなんて産まなきゃ良かったんだ、 優ちゃんのためにも…。 辛かったんだろうな、 寂しかったんだろうな… (悲)」
  「あまりにもひどいと思う。 ボール紙しか見ていない一生なんて。 どうしてそんなことが出来るのだろう。 普通の人間はそんなこと出来ない。 優ちゃんはこの世に生を受けてから、 たった 3 年と 6 カ月しか生きていなかった。 体重も4.5sしかない。 身長もたった60p。 部屋にいるぬいぐるみと大して変わらない。 こんな、 食事も与えず、 外にも出さず、 世話もまったくしないでいるくらいだったら、 まだ産まない方がこの子の為じゃないのかな?て思うくらいだ。 いつも授業でけっこうひどい記事を見てるけど、 まだまだ序の口だったんだと思わせるヒドサだ。 最後に書いてあった初公判のセリフを見て、 すごくムカついた」
「想像するだけで恐ろしい。 段ボールの中に子どもがいるなんて、 まるで子どもがペットになっている。 親たちはペット感覚で育てていたんじゃないかと思う。 人間を育てるということは犬や猫のように、 エサをあげてりゃいいってもんじゃない。 しかしそのエサもあげなかったわけで、 これじゃ 『子どもが子どもを育てる』 と思われてもしかたがないし、 僕もそう思ってしまう。 最初から子どもを育てることに自信がなかったら、 最初から子どもなんて作るんじゃない。 子どもを作るのは簡単だけど、 子どもを育てるということはその何倍も何十倍も比べものにならないくらい難しいと思う。 その方が子どものためだ。 生まれてきてこんな目にあうくらいなら、 最初から生まれてこない方がいい」
  「『怒り』 を通り越して、 あきれました。 どうしようもないくらい、 やるせない気持ちで一杯です。 3 年と 6 カ月、 短すぎる命。 肉はそげおち、 骨と皮しかなかったと書いてあるが、 今現在も虐待を受け続けている子どもたちもいます。 だからといって、 今すぐ世界中の虐待がなくなるわけではない。 どうしたらいいのか。 自分で考えてみても、 はっきり言って解決法なんて何もない気がします。 そう思うと、 悲しみと、 どうしたらいいか分からないし、 自分がいやになります。
 自分は両親に何不自由なく育てられ、 今現在まで生きてきました。 『子どもが子どもを育てる』 その親の子どもを育てるという意識の無さ、 自分らがやったことの後始末、 つまり子育てということもしっかりできない人たちすべてに疑問を持ちました。 自分が親に虐待を受けたから、 自分も子どもに虐待をするというケースが最近では流行っているらしいが、 そういう人たちがなぜ自己中心的にしか考えられないのか、 自分がそういう立場じゃないので気持ちまでは分からないが、 納得はできません」
「最低の親だと思った。 子どもを育てる気がないのなら産むな!と思った。 親の自覚まったくなし。 最後の方に書いてあった 『子どもが子どもを育てているようなもの』 という言葉がとてもぴったりだと思った。 私はもしかしたら優ちゃんはあの二人にとってどうでもいい存在だったのかなって、 望まれない子どもだったのかなって思った。 だから虐待とか平気でできるんだと思った。 先のことを何も考えず妊娠する人が増えたから、 虐待が増えたんじゃないかと思った」

  揺さぶりをかける

 資料プリントを配布し、 それをじっくり読ませながら感想や意見をレポートとして書かせることを筆者は 「字行」 (授業) と呼ぶが、 ここでは 2 時間連続 「字行」 となった。 今まで紹介した生徒の感想からも明らかなように、 虐待をする親に対する批判や怒りから、 「虐待をするくらいなら子どもを産まなければいいのだ」 との意見が圧倒的に多かった。
 確かに虐待という行為は許されないが、 子育てをする親の立場・悩みみたいなものも考えさせなくてはいけない。 そこで揺さぶりをかける意味で、 『漂流家族』 (信濃毎日新聞社編、 河出書房新社刊) から抜粋した資料プリントを読ませ、 「親になるのはほんとうに難しいか?」 とのテーマで再び、 レポートを書かせた。 今までは子どもの立場で虐待を考えていたのだが、 今度は親の側から虐待を見ていくとどうかというわけである。
「親になるのは難しくない。 むしろ簡単だと思う。 セックスをすれば子どもが生まれ、 親になれる。 これはいい親になれるか?ということなのか? ちょっと考えれば、 虐待をしない親なんて珍しいのではないか。 親だって人間なんだから、 子どもが言うことを聞かなかったら、 ストレスを感じるだろうし、 手も挙げてしまうだろう。 親が最初から子どもの理想像を作ってしまい、 子どもがそれと違うことをすると怒る。
 親はなんで理想像を作ってしまうのだろう。 子どもが何でも思い通りに理想とぴったりのことをするとでも思っているのだろうか。 やっぱり子どもを産むのだったら、 こういうことを心掛けていないとだめなのではないか。 子どもがかわいくないとかいう親も意味わかんない。 理想と違うからかわいくないと思えるだけで、 理想がなければかわいいと思えるだろう」
「どうして完璧な子育てを求めてしまうんだろうか、 疑問に思ってしまう。 完璧な子育てなんて日本中いや世界中探したって、 やっている人もいないし、 絶対できっこない。 こんなことばかり考えていたら、 頭がおかしくなったりして、 ストレスもたまって子どもに当たってしまい、 どんどん悪い方向に行ってしまいかねないと思う。 要は完璧な子育てなんて不可能であるし、 子育てというものは大変難しい。
 だから、 子育てをする親自身が真剣にやることはもちろんのこと、 今までの人生の中で経験しなかったことや勉強したこととかいろいろあるが、 そういったものは子育てをしていて困ったときとかに必要になる時がくるかもしれない。 だから大人になるまでに、 いろんなことを勉強したりしなければならないと思う。 大人として未熟だと、 子育てはたぶん失敗すると思う。 親になることはやっぱり難しい」
「僕は、 このプリントを読んで、 世間に対して腹の底から 『ムカツク』 と思った。 その理由は、 あまりにも身勝手すぎるからだ。 そう思うのは、 プリントに書いてある 『親なんだからしっかりしなさい』 という第三者的な言葉だ。 僕はこの言葉に対して、 それを言った本人にこう言ってやりたい。 『ではあなたたちはどうなのか。 育児のときに自分は全くミスがなく、 完璧に出来るという自信はあるのか』 僕はいつもこういう人達の話を聞くと、 こういうふうに思う。
 なぜなら僕たちは 『人間』 だからだ。 ちゃんと自分で考えて動ける物体だからだ。 僕たちは 『機械』 ではない。 だから、 どれだけ同じことをやっていたとしても、 大なり小なり、 必ずミスは生じるのである。 それなのに、 『親だから』 という納得のいかないような理由で、 子どもを持つ若い世代の人々を非難するのはおかしい。 また、 こういう言葉が生まれる原因が 『高度学歴社会』 である」
「子どもを産むのはすぐに出来て難しくないけど、 気持ちとかの部分は難しいと思う。 『子育ては妻が』 というのがまだ日本にはあると思うし、 夫も自分が産んだわけではないから、 実感がわかないから、 子どもには無関心なんだと思う。 妻が子どもの面倒をちゃんと見ているから、 自分は気が向いたときに少しだけ子育てをすればいいやと思っているのだと思う。 だから妻にかかるストレスはすごいと思うから、 虐待は妻だけの責任ではないと思う。 親になるのは、 相手の気持ち (特に妻) などを理解して助け合わなくてはいけないので、 すごく難しいと思う」
 まだ子どもである生徒にしてみれば、 「親になることは難しいか」 などという質問をぶつけられても、 正直なところ困ったに違いない。 自分自身の経験から言っても、 「親にならなければわからないこと」 が多いが、 生徒たちなりに悩み、 考えた末に、 「難しい」 という 「とりあえずの結論」 に到達したようだ。 そして同時に、 「虐待」 を少なくとも親と子の両面から見ていくことが肝要であることを学んだ。

 「虐待」 の授業はどううけとめられたか

1 年間の授業を振り返り、 生徒たちに 「印象に残った授業」 「よかった授業」 をあげさせたところ、 「児童虐待」 がダントツでトップだった。 ビデオ視聴も含め 9 時間をかけたことになるが、 締めくくりには、 ある私立高校での 「体罰事件」 に迫ったドキュメンタリー番組の録画を見せた上で、 「体罰」 の是非についてグループ討論をさせた。 グループ討論の結論は前回同様、 黒板に書かせたが、 「体罰は必要」 とするグループもかなりあった。 生徒同士が話し合い、 ともに考えることがねらいなので、 結論めいたことは一切示さなかった。
ここで生徒たちが 「虐待」 の授業をどううけとめたか、 生の声を紹介する。
「児童虐待について今まで授業で勉強してきたけれど、 これから自分たちが社会に出て、 いつか結婚して家族になる時に、 虐待だけは避けたいので、 現代社会で勉強できてよかった。
 この授業で、 虐待の怖さ、 命の大切さを学びました。 けど、 子育てというのは簡単じゃないと思います。 男は仕事に行って、 女は子育てというのもあまり好きじゃないし、 虐待をなくすためには、 やっぱ、 まずは家族関係が大事だと思います。 母親が自分の中に閉じこもっていたら、 ストレスがたまる一方で、 虐待につながる近道になってしまいます。 だから、 家族という輪を組み立てることから始めないといけないと思います。 (略)」
「思ったより短い期間で終わってしまった 『児童虐待』 の授業。 この 『児童虐待』 の授業は、 自分が今まで受けてきた授業の中で、 一番ストレスがたまる内容だったかもしれない。 なぜかというと、 虐待をしている無責任な親たちに腹が立つからだ。 (略) 社会のプレッシャーなどはただの逃げ道にしかなってないと思うし、 虐待を受けたからって自分の子どもにも虐待をするのも、 責任がとれなかったのは同じだと思う。 自分はまだ結婚をしていないからこんなことが言えるのかもしれないが、 自分がもし結婚をして子どもを作った場合には、 絶対に虐待とは縁のかけらもない家庭を作りたいと思う。
 本当に短い期間だったけれど、 自分の将来のことを考えさせられたり、 自分といずれ関わってくる社会のことにも目をやれた大切な時間だったと思いました」
「今まで 『虐待』 の一言を聞くと、 『なんてヒドい! 虐待なんてする程子どもが憎らしいと思うのなら、 最初から産まなければイイのにさ』 と思っていました。 でも今回の授業を通じて、 その考えは少しだけ変わりました。 もちろん、 虐待は悪いことだと思います。 でも授業で渡されたプリントに書いてあった、 虐待をしていた母親の話を読んでいると、 旦那さんは育児に協力的でなかったみたいだし、 虐待しちゃったのも、 母親だけの責任ではないような気がしました。 (略)
 友人もなく、 頼れる人がいなかったらどんどんエスカレートしていって、 そのうち子どもを殺してしまう事件にまでなってしまうのではないかと思いました。 私は、 やっぱり子どもは両親で育てるものだと思います。 (略)」
「児童虐待についてはとっても身近で、 とても重要、 そしてとても難しいものだと思っている。 育児が難しいことぐらいはテレビやいろいろな本などを見て、 それなりにはわかっているつもりだが、 なんでそれを自分一人の問題に母親がしてしまうかなどが重要なところだと思う。 (略)
 そして多分これからも、 児童虐待というものはなくなるとは思わない。 それどころか、 僕は減るとも思わない。 だって、 もう歯止めのきかないところまで来ていると思う。 だからなくならないと思う。 ただ可能性があるとすれば、 学校の授業だと思う。 今の若い世代に、 授業で虐待のことを洗いざらい教える。 そうすれば 『自分はしない』 と思う気持ちが生まれるはず。 少なくとも僕はそう思った」

  おわりに

年度末に、 授業評価と要望などを生徒に自由に書かせている。 それらをいつもドキドキしながら読むことになるが、 幸いなことに割合と評判がよく、 内心安堵している。  生徒による 1 年間の授業評価には、 中学校の社会科授業との比較も書いてもらうことにしているが、 社会科に対して苦手意識をもっている者も少なくない。 ある生徒は、 「自分は小学校 3 年生から中学 3 年生まで、 社会科という教科はもっとも嫌いで、 一番苦手な教科だった。 なぜなら、 覚えることがいっぱいあって、 勉強の仕方が全くさっぱりだったから」 と書いている。 黒板に書かれたことをノートに書き写すことに精一杯で、 さらに試験の直前には、 それらをひたすら暗記しなければならない。 中学では、 「受験」 という重しがあるので難しいのかもしれないが、 「社会科=暗記科目」 といった誤解や偏見をなくすように心がければ、 「社会科嫌い」 の生徒はもっと少なくなるのではなかろうか。
準備不足を承知の上で 「児童虐待」 の授業にはじめてチャレンジしたが、 生徒たちにもっとも大きなインパクトを与えた授業となった。 「なぜ、 自分の子どもを殺さなくてはならないのか?」   彼らは自分自身の問題として真摯に受け止め、 考え、 中には 「自分の親とも一緒に考えた」 という生徒もいた。 「児童虐待」 は、 「いじめ」 と同様、 現代社会の病理とも言える暗いテーマ・問題であったにもかかわらず、 なぜか生徒は、 「『現代社会』 の授業はとても楽しく、 わかりやすかった」 と書いている。
 さらには、 「今、 私たちが取り組まなければならない内容を、 リアルタイムで 『勉強』 として考えさせてくれるからよいと思います」 「社会に出るためのいろいろな問題をみんなで考え、 学んだりして、 すごく自分のためにもなった」 「これまで小学校や中学校で習ってきたものと違って、 私たちの生活に密接して、 将来に役立つものばかりだった。 (略) どれも勉強して損はない、 と言い切れた」 「自分に本当に役に立つことを学べた」 といった意見もあった。 高校生の目線に合う今日的なテーマや内容を積極的に取り上げ、 ある程度時間をかけ、 「ともに考える授業」 を展開することが必要だと痛感させられた。
  「学び (勉強) からの逃走」 が指摘されて久しいが、 「逃走」 しようとする子どもたちの前に立ちはだかり、 「逃走」 できなくするような 「わかって楽しい授業」 をとことん追求しなければならない。 授業改革 (「授業」 という言い方ではなく、 「学習 (学び)」 と呼ぶべきかもしれない) が進まなければ、 ほんとうの意味での学校改革・教育改革が実現したことにはならないのだから。
(わたひき みつとも 教育研究所員
          県立長後高校教諭)
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