シンポジウム概観
コーディネーター 佐 藤   治  

 はじめに
 今回、 学校が休みの土曜日に初めて開催される研究所シンポジウムだった。 参加者数も気になるところであったが、 実際の参加者数は92人。 この数字を少ないとみることもできようが、 参加者の様子を見ていても、 来年度スタートする 「総合的な学習の時間」 をどう作ったらいいのかという渇望ともいえる気持ちで参加していた人が多かったことがうかがえた。 そのことは回収されたアンケートの中からも見て取れた。

 シンポジストの発言から
 各シンポジストの発言については別掲の再録をぜひお読みいただきたいが、 ここではシンポジウムを振り返りつつ、 進行をしながら感じたことを数点述べてみたい。
 国立教育政策研究所の大杉昭英さんは、 経験知と学問知の相関を指摘する中で、 「課題を見つける」 ことが一番難しいことであり、 課題を見つけるための時間こそが 「ゆとり」 であると話した。 また、 レギュラシオン経済分析とバレーボールの練習になぞらえて、 学問体系が細分化してきた中で、 高校のカリキュラムにそれらを統合するものが今までにはなかったと指摘しながら、 最近行われている地域の特色を生かしたとりくみをいくつか紹介した。
 岡津高校の久世公孝さんは岡津高校での検討の経緯を説明し、 その中から見えてきた課題を報告した。 久世さんは学校の 「総合的な学習の時間」 への方針として、 「授業改革を呼びかける」 「プロジェクトチームを作る」 「校内研修と情報収集を行う」 「大きなテーマを設定する」 などをきめて、 検討していることを紹介した。 また現在考えていることとして学力低下の問題と単位認定の問題を提起してくれた。
 大阪教育大の長尾彰夫さんは全国の様々な実例をちりばめながら、 一口に高校といっても高校の実態が千差万別であり、 一つにはくくれないものであり、 生徒の実態から 「総合的な学習の時間」 を作る以外にないと話した。 しかし、 「来ている生徒に合わせる」 という発想自体が今までの高校にはなかったことであり、 試行錯誤を経ながらすすめていくほかないとも話した。

 シンポから感じたこと
  3 人の発言とその後の質疑を通じて感じたことをいくつかあげてみたい。
 まず 1 つ目は小中高を通じた 「総合的な学習の時間」 の有り様をどう考えたらいいかということである。 久世さんは岡津高校の検討の中で階梯性を考える必要があることを述べていた。 小中学校では 「総合的な学習の時間」 がすでに多く実践されている。 こうしたものと同じものを高校で繰り返しても意味があるとは思えない。 従って高校側が、 地域の小中学校の総合的学習で何が行われているかをよりよく知ったうえで、 高校での総合的学習に取り組むことが求められるだろう。 また、 高校において意識されるべき 「地域にねざす」 ということは何を目指すものになるのか。 再度とらえ直しが必要になるだろう。 そういういう意味でも岡津高校での検討は参考になるところ大である。
  2 点目は学力低下問題との関係である。 今から10年近く前になる私の経験であるが、 三年生の選択の政治経済を担当した。 十数人の授業となったために、 講義ではなくゼミ形式の生徒の持ち回り発表の授業にしたところ、 生徒たちは与えられた発表にとどまらず、 時事的な課題を持ち込むなど非常に活気ある授業になり、 彼らの学習意欲はメラメラと燃えていった。 当時の私の記録には 「実は教えられているのは私の方ではないかと感じた」 とある。 たまたまうまくいったケースではあるが、 生徒が自ら調べ学んでいく学びの形が、 学力を伸ばしたいという方向に向いていく可能性として私の中に刻みつけられた体験であった。 ただし、 このときの生徒の多くは政治経済での大学受験を予定しているものであったために、 生徒の中に学んでいくインセンティブ (in-centive=物事を成し遂げようとする意欲や能力) があった点が今後の 「総合的学習の時間」 との相違である。 であれば逆に、 「総合的な学習の時間」 の成否を左右するのは、 生徒にいかにインセンティブを与えられるかということにならないだろうか。 そうした意味で久世さんが岡津高校で重視した 「来ている生徒の実態からスタートする」 ということの重要性が再度浮かび上がってくる。 当たり前のようではあるが、 このことが高校の 「総合的な学習の時間」 の要諦をなしていることは間違いないだろう。
  3 点目は 「とにかくやってみなけりゃしょうがない」 ということである。 無責任な言い方に聞こえるかもしれないが、 多くの問題や不安が指摘されているが、 まもなくスタートすることは間違いない事実である。 長尾さんが述べているように、 高校教職員の中で 「総合的な学習の時間」 を習ったり体験しているものはほとんどいない。 共同作業がもっとも苦手な高校の教職員ではあるが、 一緒に考えながらやっていくしかない。 「2003年に完成品を求めてはいけない」 という長尾さんの声に背中の荷を軽くした思いの参加者も多かったのではないでしょうか。 シンポジウムの最後で述べたが、 かつての現代社会のように自主編成の可能性の最も大きいカリキュラムとしての道を見いだしていきたいものだ。

 さいごに
 シンポジウムを終えて 「総合的な学習の時間」 をめぐる重要な点がどこにあるのかということは見えてきた。 しかし、 各学校で現実的な課題として大きいのは具体的にどう展開し、 何を盛り込むかであろう。 岡津の検討の中で久世さんは、 「教員の得意なものを並べて選択させるのはあまり意味はない」 として 「自己認識を見つめる中でテーマを見つけていく」 方向性を選択したという。 宿泊先の食事になぞらえると、 今までの定食をやめたが、 バイキングにしたら好きなものを安易に選ぶからドミトリーにして何を作るかを考えることから 「生きる力」 をはぐくむ、 といったところだろうか。
 この中で教員は 「教える人=teacher」 から 「学びへといざなう人=facilitater」 への変換を迫られる。 ある意味で知らない体験を生徒と共にしていくことを楽しんでいくぐらいの気楽さを持ってもいいのではないだろうか。 とはいっても今後も総合的な学習をめぐるさまざまな情報はどの学校でもますます必要なものとなるだろう。 そうした情報の収集と発信を研究所が果たせるよう、 今後も力を尽くしたいと考える。

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(さとう おさむ)