退任の挨拶

教育研究所を辞するにあたって
      杉山  宏(前教育研究所代表・立正大学講師)

 88年4月に県民図書室の一員となり、久し振りに会館に出ることになった。といっても、前に出ていたのは木造の旧会館で、新会館には一・二度顔を出した程度で、初めてと言った方が適当であった。変わったのは建物だけでなく、会館で執務する人達が常時ネクタイを締めているのに驚いた。当時、教育研究所には特別研究員制度はなく、何人かの所員の人達が所務を処理していた。図書室長は教育研究所の所員会議にも出席出来るというので、所員会議に顔を出すようになった。編集委員会などの名称で一部の所員が『ねざす』の編集業務を担当したが、所員の人達が会館へ出る日は限られており、定期的に会館に出ていた私が印刷所との交渉を行うようなこともあった。また、89年度は事務局長の役を兼ねたりしたこともあったが、92年度からは小山さんの後を受けて代表となった。尤もこの年度は図書室長も兼ねていた。特別研究員の制度は、91年度から始まっていたが、歴代、適任者に恵まれ、過重な負担を担い、研究所の事務的なことの中心的役割を果たすようになった。これにより研究所活動の幅が大きく広がり、この年には会館のホ−ルを会場にシンポジウムも行われた。シンポジウムはその後1年あいだをおいて、93年度から会場を外に移し、毎年の行事となり、98年度は神奈川県教育文化研究所と共催で行った。
 『ねざす』は当初、年3回発行予定であったが、第1号を出した88年度、翌89年度と年2回発行が続き、90年度から年2回発行に改め、別に『神奈川の高校・教育白書』を年1回発行することとし現在に至っている。『白書』の表紙は、当初からの4年間は改築に関連した校舎を平沼・旧商工・神工・大津と学校関係者に描いて頂いた。94年度には独自調査を行い、それを基に調査報告書を作り問題提起の記事を載せた『白書』とした。この独自調査はこれ以降、毎年問題を取り上げ、それに対応する所員によるプロジェクトチ−ムを立ち上げ、所員活動の幅を広げている。
 小山代表の時も含めて、研究所に関係した14年の研究所活動は、右肩上がりで来ることが出来た。一人ひとりの所員は、当然異なったものの考え方を持っていた。有能な人達が集まってくれただけに、所員集団のものの考え方の幅は、人数の割には幅が広く、ことによっては、先端を行く者と後方から行く者との間隔にも隔たりがあった、長さがあった。しかし、こと所員活動となると、その幅のあることが、長さのあることが議論の内容を深めるのに役立った。研究所の活動には、議論する、検討するということと共に、考え方を世に問う、自らの意見を開陳するということも行わなければならない。当研究所構成員の考え方に広がりがありながら、研究所として行動する時、世に訴える時、全所員が一致して動けた。旧所員も一緒に行動してくれた。所員が研究所活動に割くことが可能な時間の総合計が、研究所活動にそのまま生かせた。これは日頃の所員会議が、時間の許す限り、3時間でも4時間でも話し合いを続けたからであろう。長時間の話し合いは、無駄な話の積み上げではなかった。
 『ねざす』『研究所ニユ−ス』の編集、資料の収集などにパソコンを利用するようになり、事務の合理化も進んだが、合理化によって生じたゆとりの時間より、活動範囲の広がりにより必要となった時間の方が多い状況で、年々、研究所活動が充実して来たという好傾向と共に、所員活動量の総量増加という問題がなかなか解消出来なかった。その結果、所員の人達には過重な負担をお掛けすることになってしまった。
 退任に当ってお世話になった方々に改めてお礼を申し上げます。有り難う御座いました。

楽しく学べた12年 
  −研究所退所にあたってー 
           綿引 光友(県立長後高校教諭)


 研究所の存在は知っていたものの、まさか自分のような者が研究所員になるとは予想外であった。たしか90年3月、春休みに入ってしばらくたったある晩、研究所事務局担当のNさんから電話があった。Nさんからは以前にも、「高総検のメンバーにならないか」と電話をもらったことがあったが、その時はあっさりと断ってしまった。
 Nさんは、研究所が組合とは違う財団法人の組織であることなど、懇切丁寧に説明してくれた。すぐに返事をしなければいけないと思ったが、「しばらく考えさせてほしい」と答えた(Nさんはきっと不愉快に思っただろう)。何人かの同僚に相談した後、Nさんに引き受ける旨電話をした。
 ぼくが研究所に入った時期は、『神奈川の高校教育白書』(90年7月創刊)や「ニュースレターNEZASU」(91年11月創刊。「研究所ニュース・ねざす」と改称)が相次いで出され、さらには特別研究員が配置される(91年)など、エポックとなる年であった。その特別研究員という大役が後々(94〜5年)、ぼくに回ってくるとは思いもよらなかった。しかも、哲人・三橋正俊さん、職人・小川眞平さん、誠人・永田裕之さん(勝手なことを書いてゴメン)のあとだっただけに、荷が重すぎた。そのせいか、95年の春休みには死にそうになり、10日間丸々寝込んでしまった。この時、マジで遺書を書こうと思ったが、「喉元過ぎれば…」で未だ書けていない。2年間、なんとか務まったのも、職場の管理職・同僚の理解と支えがあったからだと感謝している。
 小川さんのようにはいかなかったが、所報『ねざす』の誌面改革には努力したつもりだ。『教育白書94』から、はじめて研究所の独自調査を盛り込むことになった。翌95年発行の『白書95』の独自調査(学校間格差と教員の意識)が新聞等で報じられ、波紋を呼んだ。組合幹部から白い目で見られたが、今となっては、懐かしい思い出。
 『ねざす』編集では、特製の割り付け用紙をわざさわざ作って、マス目を数えたり、行数計算をしたりした上で印刷所に入稿していた。ところが中野和巳さん担当の97〜8年以降は、特別研究員がPCソフトを駆使し、画面上で編集作業をするまでとなった。だから今にして思えば、ぼくの時代はまさに「所内制手工業」の段階だった。
 因縁めくが、ぼくを研究所に誘ってくれた、Nさんこと中野渡強志さんをくどき落とし、96年、研究所員に迎え入れ、後任の樋浦敬子さんになんとかバトンタッチした。
 新しい血(これを英知<ええ血>という)を入れなければ、研究所の活性化は実現しない。余生は「職場に専念」したいところだが、残りは千年(専念)もあるはずなく、わずか5年(5年でゴネン)。実践あるのみだが、体がついていけるか不安。
 最後に一言。研究所は、ぼくみたいないろん(異論)な人間をも包み込みながら、職場・地域に元気とやる気を吹き込む存在であってほしい。そして、『ねざす』の拡販(読者拡大)に努めてほしい。マーカーを使いながら、隅々まで読んでいる校長さんや県の役人さんもいるとのこと。それを見習い(?)、現場の教員もしっかり読んで「研修」してほしい。いや、読まずにはいられなくなるような『ねざす』を、せめて年3冊は発行してもらいたい。『ねざす』が、絶望を希望に変える高校改革のオピニオン誌となるよう、期待してやまない。


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