管理教育と教育管理 −理念の不在−
小 野 行 雄

1.「管理教育」から「教育管理」へ

 「管理教育」は、80年代後半から90年代前半にかけて教育の問題の象徴としてマスコミを賑わせた言葉だ。それが意味するのは強圧的な規則や手段で生徒を管理する手法で、正確には「管理教育」とは「学校の生活秩序を維持するための管理」であった。当時「学校の常識は世間の非常識」という言葉と共に、靴下の色やヘアスタイルに関する細かな規定が盛んに揶揄されたものだ。それに由来する事件報道も相次ぎ、「管理教育」批判がそのまま学校批判・教師バッシングとして機能した。そうして現在では、教育問題としての「管理教育」は終焉したといってもよい。
 だが、それに代わって今、「教育管理」が進行している。それはかつての「管理教育」のようにもっぱら教師と生徒の間に生まれるものではない。教師も生徒も巻き込んだ大きなものだ。それは教育すべてを管理しようとする。さらには、人間存在そのものを、管理しようとする。
 さらに問題なのは、その管理を行おうとするパワーの実態が曖昧なことだ。国家主義的な政治家や世論、資本家やブルジョワ階級にその責を負わせることができるなら、ことは簡単だ。そうした動きがあることは否定しない。しかし、そんな分かりやすいパワーのむしろ外側に、「教育管理」の源泉はある、と感じられる。それは、相互監視を主体とした、世の中全体を覆う雪崩のような無力感、理念のなさそのものだ。誰も考えず、誰も注意を払わないうちに進んでいく「教育管理」。分かりやすかった「管理教育」よりも問題はむしろ、大きく深くなっている。

2.公立学校教師のジレンマ

 元来公立学校の教師は、教育職公務員という立場そのものに由来する、大きなジレンマを抱えている。そのジレンマは、教育職という職種と公務員という雇用形態の間の、容易には越えられない深い谷間に由来する。それは一言で言えば、公務員としての労働管理と、教育の自由の原則との相克だ。そして今、この谷間の両側に2つの違ったパワーが働いて、ジレンマはより大きくなっているというのが現場の実感だ。
 社会サービスの一環としての公立学校業務従事者である教師には公務員としてのモラルと規律が求められる。その一方で、「国」や地方行政が関与すべきものではないとする「教育の自由」の理念も存在する。教育を管理するのはだれか、教育理念は誰が持つべきものなのか、というこの問題はもちろん私立学校の教師にも関わるものではあるが、教育政策の実施者である権力がそのまま雇用者である公立学校の教職員に対してより強くあらわれる。そしてその相克は、実は日本の敗戦直後に制定された教育基本法そのものに内包されている。
 一般の法律とは違い、準憲法的性格を持つとされるこの教育基本法は、教育に対する本質的な問いかけを含め、深い理想主義的な性格を持っており、それだけに個々の教師に大きな責任を負わせている。 
 第6条第2項「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない(以下略)」
 第10条第1項「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」。
 第6条にある「全体」は、「国家のため」「天皇のため」の奉仕だった戦前の教育と対比され、国民全体を指していると解釈されているi。では、国民全体というのはどこにいるのか。
 第10条の条文は教育基本法成立の理念に関わる重要な部分だが、制定にあたって文部省より出された「解説」は、この「不当な支配」を「政党のほかに、官僚、財閥、組合等の、国民全体でない、一部の勢力」によるものとしているii。では、それに対抗するべきなのは誰か。     
 教員はこの教育基本法の前で大いに迷う。教育職公務員は、全体の奉仕者であり、国民全体に直接に責任を負っている。しかしその国民全体はどこにいるのか。下される命令が国民全体のものであって不当な支配ではない、ということを、われわれはどこで判断すればよいのか。これは日々現場でつきあたる問題そのものでもある。
 行政の命令系統でいえば、現場には上司たる校長・教頭がいて、その上に教育委員会があり、形式的な任命権者としての県知事をはさんで文部科学省が控えている。しかし、校長教頭はもちろんのこと、教育委員会の担当者も、文科省の課長クラスでさえ、頻繁に入れ替わっていく。実態は、どれも理念を持たない組織体でしかない。では、現場の教師をしばる権力は、どこから来ているのか。
 「公権力がまさに『公け』の権力であるのは、それが、『共同体』という全体社会の意志を代表していると共同体の成員に了解されているからである。(中略)『国家』という言葉が、『国家権力(=国家統治機関)』を指し示すと同時に、その国家権力によって統治されている『一つの社会全体』をもまた指し示すという奇妙な事態が生じてくる秘密がここにある。」iii。この奇妙な事態がまさに、この教育基本法によって個々の教師に直接突きつけられる。
 現在「自由化」「自己責任」が社会の論調になっている。では、教育の自由化、教師(と生徒)の自己責任とはどこにあるのか。それと「教育管理」との関係はどうなっているのだろうか。

3.文科省による「自由な教育」の流れ

 教育問題は、経済状態が不調の時に浮上する。社会の不調の原因を教育に求めるのだ。そうした教育の問題(病理)として、現在@いじめ A不登校 B高校中退増加 C校内暴力 D学力低下 が広く語られているiv。
 このうち高校中退と不登校は、70年代半ばのオイルショック前後から問題として取り上げられてきたものだが、これらが問題とされるときにいつもやり玉にあがったのが、「大学受験」「画一教育」「詰め込み教育」だった。これに対する解決策として持ち出されたのが教育の「自由化」「個性化」だ。その流れの中で80年代にはゆとり論議が盛んになり、一つの結実として、92年の学習指導要領では「新学力観」がうたわれるようになった。
 その基本的な流れを作ったのは、1980年代半ばに活発な議論を展開した臨時教育審議会(臨教審)だ。この時期、世界的にもレーガノミクスに象徴される経済自由化の流れがあり、時の中曽根首相は、社会・経済に自由化を持ち込んだ。国鉄・電電公社の私営化もこの時代のことだ。教育も例外ではなかった。自由化=市場原理の導入、「平等主義」の否定、能力主義の導入、といった一連の流れは、この時に始まる。経済界もまた、画一化された思考でなく、柔軟な思考の持ち主こそが必要だ、という新タイプの人間を待望するようになっていた。
 この一連の流れに乗って、次の新学習指導要領では「生きる力」が語られ、「総合的学習の時間」が導入された。小・中、そして高校でも来年から本格実施されるこの科目は、「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」「学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探求活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにする」ことに目標が置かれている。この意図に異論はない。問題はこれが、教育への深い哲学から出てきたものではない、という点にある。
 教育学者の梅根悟はその源泉たる「能力主義」について次のように書いている。
 「ひとりひとりの子どもの人間としての潜在的な能力を、そろって全面的にそして個性的に開花させるというのとは反対に、こどもたちを、幼いうちから、既成の社会の、また企業の要求する『能力』観にしたがって評価決定し、格差と差別の上下関係にとじこめようとするものといっていい。」v98年の中教審答申は、「できる限り各学校の判断によって自主的・自立的に特色ある学校教育活動を展開できるようにする」「校長が、自らの教育理念や教育方針に基づき、各学校において地域の状況等に応じて、特色ある教育課程を編成するなど自主的・自律的な学校運営を行うことが必要である」として、中間管理職である校長の立場を、学校のリーダーへと組み替える答申をしている。これは「自由化」の流れを象徴する答申だ。
 確かに多数意見の合意で進める職員会議で新しいことをやるのは難しい。改革にリーダーシップが必要、との論にはうなづけないこともない。しかし、実態なき「管理」下においては、最も保守化するのは常に中間組織だ。失敗をおそれる保守化の圧力がここで倍加される。こんな「管理教育」体制下で校長になった者に、教育的リーダーシップ、文化的リーダーシップ(「さまざまな機会を活用して、自らの価値観、理念・信念、ヴィジョン、あるいは学校の伝統などを、日常的に表明したり体現したりすること」vi)など期待するべくもない。中教審答申最大の問題は、管理しながら自主的な学校運営をさせようとする、「枠組み内自由」の矛盾に無自覚であることだ。
 こうして企業の論理からスタートした「自由な教育」論の脆弱さは、現在世情を賑わせている学力低下論をみれば分かる。これもまた、本来の教育論争ではないところに根を発し、社会情勢をそのまま映し出しているにすぎない。ゆとりを追求している間に泥沼の経済状況になってしまった、そうした経済界の観測を教育問題に置き換えて問題視しているだけだ。ここには教育に対する理念はない。

4.教育管理

 こうした一連の教育「自由化」と平行して、もう一つの山である「教育管理」もまた進められている。その最たるものが「日の丸・君が代」の強制だ。毎年繰り返される卒業式での強制は、教職員や組合のさまざまな抵抗に合いながらも着実に進んできた。反対する側は、内心の自由、良心の自由への挑戦とみて抵抗するのだが、この強制はむしろ、教育管理に抵抗する者をあぶりだすという効果が大きい。この攻撃を加えている者は誰か。保守系議員か、国家主義的な思想家か。それもまちがいではないが、それ以上に、それを支えている社会の気分が大きい、と私は思う。
 さらにまた、一連の公務員攻撃がある。教員による不祥事があるのは確かではあるが、それに乗じて教職員すべてに網をかけようという現在の動きもまた、教育の理念とは無縁だ。
 2002年夏には、東京都では夏期長期休業中の研修は半日まで、という制度が導入された。神奈川県でもまた、研修に厳しい統制がかかっている。職員会議の弱体化と校長権限の強化もこの流れに乗っている。公立校の教職員は今、ひたすら出る杭にならないことを求められていると言ってもよい。
 こうした「教育管理」は一見、「自由化」と逆の方向を向いているように思えるのだが、その2つを組み合わせてみると、必ずしもそうではないことが分かってくる。中途半端な保守主義と企業の論理の中から浮かび上がるのは、安心できる範囲内での「個性」と「自由」をのみ許す、社会の無気力を反映したものでしかない。より端的に言えば、「問題をおこさずおとなしくしている限り、勝手にしていればよい」という、誰の意思でもない「気分」の表れ、と言ってもよい。そこには、教育の本来の目的であるはずの人間の育成、「真理と正義を愛し、個人の価値をたっと」ぶ(教育基本法)人間の育成というような視点はない。あるのはただ、問題の発生を面倒がる社会の気分だけだ。
 これは実は、かつて教員が生徒に行おうとしていた「管理教育」とまったく同じものである。ひたすら問題をおこさず、不満も言わず、素直に言うことを聞く、そうした人間を育てていくこと。形式のみのことなかれ主義が、今まさに教師を襲っている。理念なきままに、誰も管理しない、そして誰もが管理される「管理教育」が進行している。

5.理念の主体―変わるのは私たち―

 理念なき「教育管理」。これに対抗するには、なんのための自由化か、なにを目的とする管理なのかを確認する作業が必要だ。それはつまり、教育の理念を形成するということでもある。それは文科省や教育委員会の仕事ではない。それこそは現場で行われるべき作業だ。それこそがまさに、現在攻撃を受けている教育基本法に描き出されているものでもある。
 どういう未来が望ましいのか、どういう世界に希望を持つのか。そうした理念を人々が持つこと。社会の在り方に対し、批判的に検証し、共同体の一員としての自分を確立していくこと。そうした自立した「市民」の存在こそが求められている。そして、教師一人一人が、「市民」として、それを掘り起こし、教育の理念としていくこと。それには、教師自身が常に自分に問いかけ、自分が変わっていく覚悟を持つ必要がある。
 「教育管理」をはねのけ、「自由化」を本来の自由なものへと運ぶもの。それは、人間に本来的に求められている、一人一人が常に自分に問いかけながら理念の主体となっていくことなのだ。
 最後に、国際協力分野で「参加型開発」の大家と見なされているロバート・チェンバースの著書から数文を引用する。変わるのは私たち、と副題がつけられたこの本は、行き詰まっている日本の教育の現状に対する大きな示唆を与えてくれるものだ。
 「私たちは誰でも、自分自身のことを考え、個人としての最良の判断を下し、そして他の人たちにも同様のことができるように手を差し伸べることができる。私たちは誰でも、自分自身のために、それぞれの方法で、責任ある豊かさを定義することができる。」
 「私たちのほとんどは、規模の違いはあってもそれぞれの方法で、行き過ぎた集権化、慣例、画一性に挑むことができる。」
 「個人的な判断と行動が、良い変化を生み出す。待つ必要はない。先駆者たちの一団に加わり、新たな高台を切り開いていこう。」vii


i『教育基本法を考える』浪本勝年・中谷彪編著 北樹出版
ii『教育基本法の解説』文部省内教育法令研究会 国立書院 
iii『近代公教育』田中節雄 社会評論社
iv『教育改革の言説と子どもの未来』黒沢惟昭 明石書店
v『日本の教育はどうあるべきか』梅根悟編 勁草書房
vi『学校組織・教職員勤務の実態と改革課題』堀内孜編著 多賀出版
vii『参加型開発と国際協力―変わるのはわたしたち―』ロバート・チェンバース 野田直人、白鳥清志監訳 明石書店


    
(おの ゆきお 教育研究所員)
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