教員、このやっかいな職業
−「評価」の問題を中心にして−
本 間 正 吾

 はじめに

 いま学校というしくみのなかでは、評価すること、評価されることは当たり前である。極端な言い方をすれば、子どもたちは評価をうけるために学校にいっているようなものである。じっさい評価することは私もその一員である学校の教員にとり、もっとも神経をつかう重要な仕事とされている。教育課程審議会も「学校が児童生徒の学習状況等の評価を行うことは、公の教育機関である学校の責務である」と答申している。だが「評価を行うこと」は当たり前だ、と言ってすませていいものなのだろうか。
 もちろん、教員からのはたらきかけを子どもたちがどう受け止めているか、それを確認することは必要である。また子どもたち自身が、どこまで理解できたのか、何が分からないのか、それを確認することも必要である。評価という作業のもともとの意味はここにあると言えるかもしれない。そして評価イコール評定ではない、評定をつけるという作業はまた別の作業だ、と言うこともできるかもしれない。だが、現実はこんな理屈を許してはくれない。現実の中では、評定をつけるという作業が、評価といういとなみ全体を飲み込んでしまっている。そして、この評価という作業が、教員という仕事をきわめてやっかいな職業にしてしまっているのではないか。こんな問題意識から出発する。

 1.「評価する人」

 さて小学校の話からはじめる。小学校は子どもたちが学校制度を体験する最初の場所である。子どもたちは小学校で学校制度というものに出会い、中学校、高校へ、さらに大学へとすすんでいく。年齢がすすむにつれ、こどもたちは学校というものを体験し、よい意味でも悪い意味でも学校に慣れていく。その点で、小学校は学校にまつわるさまざまな問題がよりすなおにあらわれてくると思う。とはいえ私は小学校の教員ではない。その実態を直接体験しているわけではない。これからの話は、小学校の教員向けにつくられた文書、小学校の教員が書いたもの、あるいは小学校の教員や保護者などから聞いた話などをもとにしている。
 小学校現場では、すでに前回の学習指導要領改定の段階から、評価方法についての悩みは深刻になっていた。いわゆる「観点別学習評価」の導入である。その上にさらに今回の「絶対評価」の導入が重なった。現場の教員の困惑に答えるためにも、なんらかの「基準(規準)」(1)が必要になってくる。その要望に応えるため、文科省の国立教育政策研究所は膨大な研究報告を作成している。
 次に抜粋するのは、この報告の中の小学校1・2年生の国語における、「話すこと・聞くこと」についての具体例である。

小学校国語 「話すこと・聞くこと」の評価規準の具体例

[国語への関心・意欲・態度]
・身近に経験したことから話題を選んで話そうとしている。
・話題からそれないように相手に聞き直したり、尋ねたりしようとしている。
[話す・聞く能力]
・順序を考えながら、物の作り方や作業の仕方、遊び方などの様子を話している。
・読んだ本の中から、おもしろかったところや楽しかったところを先生や友達などに紹介している。
・話題をとらえながら相手の話を最後まで聞いている。
・友達の話を聞いて分からないことを尋ねている。
・交互に話し手になったり、聞き手になったりして話し合っている。
[言語についての知識・理解・技能]
・自分の選んだ本のおもしろさについてはっきりした発音で話しをしている。
・お互いの声の大きさや速さなどのよいところを見つけながら話しを聞いている。
・主述の整った文型で文末をはっきりさせて話している。
・先生や家の人などに対して、丁寧な言葉遣いで話している。(2)

 この後に「書くこと」「読むこと」の評価基準、その具体例が延々とつづく。この研究報告は「教員にとって過大な負担」とならないように配慮して作られたとされている。それでも読み通すだけで気が遠くなるような量である。もっともこれは一研究機関が作成した研究報告にすぎない。現場の教員はかならずしもこれにとらわれる必要はないし、このまま行おうとしているわけでもないだろう。しかし間違いなく評価をおこなおうとすればすれほど悩みは深くなり、細かい基準がもとめられることになる。
 神奈川県では、小学校、中学校の現場に向けて、市単位で詳細な評価基準もつくられていると聞く。それが全国的に広がっている傾向かどうかはわからない。また具体的な内容についても調査するにいたってはいない。しかし、いま例としてあげた教育政策研究所のものとおおよそは変わらないようである。どこが作成したものにせよ、ともかく現場の教員の手元には細かい評価基準の一覧表がわたることになる。
 だが基準が分かったとしても、こんな細かい基準にそって評価することは容易なことではない。そこでさまざまな工夫も必要になる。そんなニーズにこたえて、さらに具体的な方法をしめした手引き書も市場に出回ることになる。ある手引き書は、小学校の現場教員が考え出した座席表をつかった評価方法を、有効なものとして推奨している。
 評価記録は、学習指導の課程で必要に応じ、臨機応変にできるものでなくてはならない。したがって、記録に要する負担をできるだけ軽減するとともに、気楽につけられるものを開発・工夫する必要がある。これまでの様々な研究をみると座席表を活用すると比較的気楽に次のようなことができ、指導と評価に生かすことができることが明らかにされている。
ア 個に応じた指導の手だてが用意できる。
イ 自力解決における個別指導が効果的にできる。
ウ 児童の指名や発表を、その順序や内容を配慮して効果的にでき、一層個を生かすことができる。
エ そのまま学習指導と評価の記録となり、指導計画や評価計画の作成や総括的評価の記録として活用できる。
オ 教師の自己評価の資料として活用できる。(3)

 分数の計算指導を例にあげ、詳細な説明が加えられている。その説明にしたがうと、各項目についてできたかできなかったか、どこでつまづいているか、さまざまな記号が、座席表に書き込まれていくことになる。そして子どもの反応をあらかじめ予想して記号化しておく、座席表の大きさを工夫しておく、なるべく使用する枚数は少なくするなどの注意も付け加えられている。「気楽に」できるように工夫されたものとはいえ、大変な労力を要するだろう。
 もちろん評価は教科活動について行われるだけではない。いわゆる指導要録に設けられている「行動の記録」への記入に合わせ、ふだんの生活も観察、評価の対象となる。子どもたちの登校状況(「すがすがしい気持ちで登校できている」)からはじまり、休み時間の様子(「廊下の正しい歩き方ができる」)、下校時の様子(「安全に心がけながら下校している」)にいたるまで、細かい評価基準例もおなじ手引き書のなかに紹介されている。(4)
 ところで教育課程審議会の答申には「どのような観点や基準で評価を行うのか、どのような方法で評価を行うのかといった学校としての評価の考え方や方針を、教育活動の計画などとともにあらかじめ説明することも大切である」という言葉がある。基準の公開は必要である。そこで各小学校や中学校はこれからつかう評価基準について保護者対象の説明会を開くことになる。そんな説明会に出席したある母親は、「自分の子がこんな細かい基準についていけるだろうか」と不安になったという。ほかの母親たちも同じおもいだろう。自分の子どもがこんな細かい基準にそって行動できるという自信を持つ親はそうはいないだろう。
 また、ある小学校の教員は、評価基準について説明をしたあとで、「授業をやっている場合ではありません」としめくくったという。親たちがこの言葉に反発することもなかったという。不安をかかえながらも、こんなことをしなければならない教員に同情したのだろう。また、この教員は保護者や子どもたちから信頼されている教員だとも聞く。だからこそこんなことも率直に言えたのだろう。しかしブラックユーモアとしか言いようのない話である。
 「個に応じた指導」や「教師の自己評価」は必要である。そのために子どもたちの言動に注意し、どこまで分かったのか、どこでつまづいているか、ていねいに観察し記録していくことも必要である。その手助けをするためにさまざまな手引き書が書かれ、研究報告があったとしても、それなりに理解もできるし、必要なことだとも思う。とはいえ現場の教員の苦労は異常だとも思う。教員のエネルギーの大部分を、評価という作業で消耗してしまうとすれば、それは教育現場の損失でしかない。だがより深刻な問題は、こうした評価のいとなみが、教員のエネルギーを食いつくすだけではないということである。

 2.評価される人

 『現場から見た教育改革』という本を書いた永山氏は、現職の小学校の教員である。その本の中で、永山氏はさまざまな新しい試みに挑戦していた時代の自分をかえりみて、「バカ教員」と自嘲している。1992年の学習指導要領の改定により小学校の評価方法も大きく変わった。そこで永山氏も「意欲・関心」を問う「観点別評価」にむすびつく工夫をすることになった。

 手を挙げて発言するという行為は、君たちがいかにその授業に関心を持っているかの現れです。だから先生は授業で手を挙げた回数を数えます。そしてその回数を累積して成績に組み込みます。
 次に僕がやったことはノートを点数化することだった。いかにノートがキレイにきちんとまとめられているか、それを点数化したのだ。これもその行為自体、いかにばかげたものかはうすうすとは知っていた。字がきれいでグラフィックにたけた者は、瞬く間にキレイなノートを作り上げた。しかしそのノート作りが目的化してしまう、という不毛さに瞬く間に陥った。ノートを色とりどりのペンでキレイに仕上げることに何時間費やしても、結局そこでまとめられた内容はまったく頭に入っていない、ということがわかったのだ。
そのほかにもいろいろなことをやった。自主学習帳というものを作らせて、家庭学習をさせた。そしてそのページ数を点数化した。・・・あるいは読書銀行というものもやった。これは読んだ本のページ数を点数化するものだった。(5)

 おそらく全国の小学校教員のほとんどが、「意欲」や「関心」を測るために様々な努力をした。その試みはいまもつづけられているだろう。しかし結果は不毛であった。永山氏はそう判断している。こどもたちは分かろうが分かるまいが一生懸命に手を挙げた。ノートをていねいにキレイに書いた。自主学習帳のページを一生懸命に埋めた。しかし中味は考えていなかった。あるいは読みやすい絵本を読みあさり、本の冊数を増やした。
 「評価する人」(ここでは永山氏)は教員として、子どもたちにいろいろなものを伝え、育てようとした。授業に参加する楽しさ、読書の楽しさを伝え、考える習慣、自分で学ぶ習慣を育てようとした。そして「評価される人」(永山氏の教室の児童たち)は「評価する人」がもとめているものに応えようとした。少なくとも応えたつもりになっていた。先生はノートのきれいさを求めている。自主学習帳の量を求めている。本の冊数を求めている。なぜなら先生はそれを「成績に組み込みます」といっているのだから。子どもたちは教員の言うことをよく聞いた。ここでコミュニケーションはそれなりに成立している。ただしゆがんだコミュニケーションである。
 もしここで教員が、「そんな絵本ばかりじゃなくて、他の本も読みなよ」といったらどうなるか。あるいは「そんなにキレイにノートをつくらなくとも、チラシの裏に書き殴ったようなのでもいいよ」といったらどうなるか。永山氏も実はその方がいいと思っていた。だがそんなことを言ったら、「先生は成績に入れると言ったでしょう。だからがんばっているのに、いい加減なことは言わないでください」と子どもにしかられることになるだろう。あるいは「じゃあ何を成績に入れるのですか」と子どもたちは聞いてくるだろう。それに答えれば、またその基準に合わせて子どもたちは手を挙げ、ノートをつくり、本を読むだろう。
 子どもたちが教員に観察されているだけではない。教壇に立つ教員はつねに子どもたちに観察されている。教壇に立った教員は出席簿を広げ、出欠を記入する。さらに出席簿とは別の手帳、俗に「閻魔帳」と呼ばれたりしている手帳に様々な記録を書き込む。あるいは先ほどの例のように記入用の座席表を用意して、そこにいろいろなことを書き込む。子どもたちの目からすれば、教員はつねに生徒の言動に目を光らせている、「観察する人」、「評価する人」である。だからこそ子どもたちは教員が、何を求めているか、何を評価しようとしているのか、読みとろうとする。そして子どもたちの多くはそれにこたえようとする。醒めた目からすればむなしい結果に終わることが見えていても、子どもたち、「評価される人」の立場からすれば当たり前な対応の仕方である。子どもたちにとっても「授業を受けている場合ではない」のである。

 3.利用する人

 「評価する人」は膨大なエネルギーをそのしごとのために費やす。「評価される人」もそれにこたえようと努力する。なぜこんな評価をつけるのか。何のための評価なのか。教育課程審議会の答申の中には、「評価する人、評価される人、それを利用する人が、互いにおおむね妥当であると判断できることが信頼性の根拠となる」という言葉がある。「評価する人」も「評価される人」もだれかはわかる。では評価を「利用する人」とは、いったいだれなのか。
 もちろん前に書いたように「児童生徒の学習の到達度を確認する」ことは必要である。どの子が何を分かっていて、何が分からないのかを確認する必要はある。教員は自分が何を伝えているか、何を伝え損なっているか、つねに反省する必要がある。その意味で評価することは必要である。評価のいとなみがはじまる最初の時点でつけられた記録はそういう意味を持っていた。ある分数の計算ができたか、できなかったか、ある漢字が書けたか、書けなかったか、これらの情報が座席表に記入される時点では、その記録が持つ意味はそれなりに理解できた。この記録にもとづいて教員が自己点検し、子どもの指導を考えていく。これは必要な作業である。だがこの段階の記録は、教員と子どもたちのあいだだけで完結する記録、教室から持ち出される必要のない記録である。こうした記録は子どもと教員以外が知る必要も、わざわざ知らせる必要もない。またこうした記録がつけられているだけならば、子どもたちは分からなければ手を挙げなくてもよい。読みたい本を読めばよい。書きたいようにノートを書けばよい。そこに問題があれば教員がアドバイスする。そしてそのアドバイスのためにつくられた記録、たとえばさまざまな記号が書き込まれた座席表は、ひとつの単元が終われば残す必要はない。
 ところが、つけられた記録は消去されずに蓄積されていく。そこに書き込まれたさまざまな記号は保存され総合されていく。その作業の中で一つひとつの記号がもともと持っていた具体的な事実との関係は失われていく。最後に残るのは、たんに「算数のできない子」と「算数のできる子」、「国語のできない子」と「国語のできる子」という抽象的な記録だけになる。こうしてつけられた抽象的な記録は、座席表に自分の観察結果を記入していた個々の具体的教員の人格からも離れている。数値で表されようが、文章で書かれようが、「公の教育機関としての学校」が責任を負う評価とは、こんな抽象的なものである。たまたまこの教員がつけた評価だ、ということではすまない。こうして客観的で公平な、だれもが納得のいく評価ができあがっていく。だがこんな評価をだれが利用するのか。
 たしかに通知表というかたちで、子どもたちの成績は保護者に伝えられる。通知表が書かれ、親がそれを見るということは、子どもたちには大きなプレッシャーになるだろう。親たちは通知表を見て一喜一憂するだろう。そして誉めるかもしれないし、小言をいうかもしれない。しかし、つけられた評価を利用しているわけではない。「利用する人」は保護者などではない。
 あるいは、ひとりの教員だけがある子どもにかかわるわけではない。ひとりの子どもにいろいろな教員がかかわる。そんなとき、評価が利用されるということもあるかもしれない。しかし、教室で起こっていた具体的事実から切り離された評価など、どんな意味があるのだろう。この生徒は国語ができないんだ。この生徒は算数が苦手なんだ。せいぜいそんな情報である。必要なものは、同僚や後任者への具体的アドバイスである。必要なものは、つけられた評定などではなく、それをつける上でもとになった原資料のレベルでの情報である。親や同僚など、子どもに関する情報を必要とするひとにとって、ほしいものは具体的な生の情報であり、加工された抽象的情報ではない。
 次のような場合は、評価の利用といえるかもしれない。いまの学校システムの中にいるかぎり、上へすすもうとするとき、下位の学校でどういう評価を得ていたかが問われることになる。中学校の段階ではこの説明は有効である。なぜならほとんどの子どもたちが高校に進学しようとしているからである。高校入試において資料としてつかわれる、この説明には一応の説得力がある。
 だが、こうした学校の接続における評価の利用も、欠くことのできない必然的な利用といえるほどのものではない。いま「絶対評価」が広がろうとしている。それとともに、選抜資料における内申書の比重は、かなりの数の県で引き下げられようとしている伝えられている。(6)また東京都の私学のように、内申書にかわる独自の統一試験を導入しようという動きもあらわれている。こうした動きがどこまで広がるかは分からない。とはいえ、この動きから分かるように、入学者の選抜における評価の利用とは、たんに選抜資料として重宝だったから使っていた、使いにくければつかわないというていどのものにすぎなかったのである。前の学校で評価がつけられていなくとも、選抜は十分に可能なのである。 あるいは高校の段階になれば、評価することは進級・卒業にむすびつくともいえるかもしれない。進級・卒業の可否が問題になるから評価している。そんな言い方もできるもしれない。しかし、ここで意味があるのは可否のみである。それなのに、五段階の4がつけられ、5がつけられ、と評定がつけられつづけている。進級・卒業にかかわって、この数字に何の意味があるのか。この説明にも説得力はないだろう。
 結局のところつけられた評価を「利用する人」を見つけることはほとんどできない。しかもまれに利用される場合であっても、その利用が不可欠なものとはおもえない。おそらく「評価する人」である教員も、自分が何のために評価しているのか説明ができないままでいるとおもう。じっさい自分がつけた評価であれ、他の人がつけた評価であれ、不可欠と思うほどの利用をした経験を持っている教員はいないとおもう。むしろせっかく書き込んだ評価の記録がそのまま死蔵されていることを知っている教員の方が多いのではないだろうか。倉庫の中に眠っていた何年も前の記録、たとえば昔の卒業生の指導要録が引っぱり出されても、そこに記載されていることに何の意味があるのだろう。国語がこんな成績だった、行動の記録で「基本的生活習慣がよく守られている」と書かれていた。何年も前にこうだったという記録に、何か意味があるのだろうか。
 どこかに「利用する人」がいるから評価することが必要になった。だから評価することが「公的教育機関としての学校の責務」になったなどと考えること自体、もともと間違っているのかもしれない。もしかしたら「利用する人」などというものは、最初からフィクション、あるいは思いこみにすぎなかったのかもしれない。評価し、記録を残すことの意味は具体的な目的からは説明できない。しかし、具体的な目的が見えないからこそ、あるいは具体的な「利用する人」が見えないからこそ、評価という作業は余計に神秘的なもの、権威あるものにさえ、見えてくるのではないだろうか。
 評価することの意味をさぐる作業はここまでにする。あとは哲学者の言葉にまかせることにしたい。

 規律・訓練的な制度の中では、個人化は<下降方向>である。つまり権力がいっそう匿名的でいっそう機能的になるにつれて、権力が行使される当の相手のほうは、いっそう明確に個人化される傾向をおびる。(7)
 
 これはフーコーの言葉である。近代以前の社会においては、一部の特権的人間だけが注目され、観察され、物語られ、記録されていた。ところがいま、その関係は逆転している。だれもが注目され、観察され、物語られ、記録され、個人として評価され、印をつけられる。最初からあれこれの具体的な目的があって評価がおこなわれるわけではない。しかし、評価されれば、あとは結果が一人歩きする。ある場合は基準から外れた者を排除するために、ある場合はその逆に。

 4.教員、やっかいな職業

 すでに書いてきたとおり「評価する人」は大変である。しかし大変だというだけならば、これも仕事の中だといってあきらめればすむのかもしれない。しかし、それではすまない深刻な問題がある。この評価するという作業が、教員という職業をやっかいなものにしてしまっているということである。
 以前わたしは内申書の問題を取り上げたことがある。そこで中学生の投書を紹介しながら、内申書が教員と子どもたちのあいだに溝を広げているという指摘をした。(8)
自分はそんなことはしない、内申書で子どもたちを脅したりはしないと思っていても、「評価される人」から見れば教員は権力者なのである。これは教員の姿勢や授業の形態の問題などではない。教壇をなくそうが、生徒の間に入ろうが、あるいは教室の外に出ようが、教員は「評価する人」、こどもたちは「評価される人」として位置づけられることにかわりはない。中学生の場合、入試でつかわれる「内申書」という形で、評価されることの重みはあきらかに感じ取ることになる。もちろん、つけられた評定や記録が個人個人を他から区別する印であるかぎり、その圧力は小学校だろうが、高校だろうがおなじだろう。あるいは、いましがた書いたように目的が直接見えないだけに、その重圧感はより増すことになるかもしれない。
 教員という職業のやっかいな点はここにある。教員はこどもたちにはたらきかける。これをやってみよう。こんどはこんな工夫をしてみよう。さまざまな試みに挑戦することは、教員として責務であろう。しかし、教員には「評価する人」という役割が負わされている。この役割があるかぎり、さまざまな実践もこのたったひとつの役割に飲み込まれてしまうことになる。
 「評価する人」がはたらきかけるかぎり、こどもたちは「評価される人」として、そのはたらきかけにこたえようとする。「評価する人」と「評価される人」のあいだには一種の約束事が成立する。その約束事をいわば成文化したものが、評価の基準である。より正確に、公平に評定をつけようとすればするほど、基準は細かくなり、精緻になる。「評価する人」が、より細かな基準を用意すればするほど、「評価される人」は一つひとつ正確にこたえようとする。すなおにそれができることが、すなわち学校に慣れると言うことにもなる。
 教員と子どもたちのあいだのコミュニケーションは教育活動の基礎だろう。評価といういとなみも出発点においてはコミュニケーションだったといえる。たとえば子どもたちの「口形」を観察し、「もっとはっきり口を開けた方がいいよ」と忠告する教員がいたとする。あるいは「もっとキレイにノートを書くと楽しくなるかもしれないよ」とすすめる教員がいたとする。こうした忠告やすすめは必要なこと、まさに教員の仕事である。そしてこれだけで終わるならば、これは教員と子どものあいだの単純なコミュニケーションである。コミュニケーションであるかぎり、子どもたちは受け入れることも、受け入れないこともあるし、自分の意見を言うこともある。しかし、それが記録され、蓄積されていくものだ、ということを子どもたちが知るとき、教員の言葉は忠告でもすすめでもない別のものになってしまう。

 おわりに

 ここまで書いてきたように、評価という作業は、教員と子どもたちのエネルギーを消耗させていく。そればかりか教員と子どものあいだのコミュニケーションまでゆがめ、破壊していく。そんな犠牲を払ってたどり着いた結果に何の意味があるのかも不明である。しかもいま、この作業にこれまで以上の精緻さが求められようとしている。そのあげく、教員も子どもも、ますます授業よりも評価という作業に追われるようになっている。「授業をやっている場合ではない」「授業を受けている場合ではない」。これは喜劇的あるいはSF的としか形容のしようがない事態である。
 ここで方向は変えるべきである。方向を変えることができるなら、すなおなコミュニケーション、目の前にいる子どもと教員のあいだで完結する単純なコミュニケーションが可能になるだろう。そしてそんなコミュニケーションを基礎にすえた教育活動を組み立てることができるだろう。もちろん、こんなことがかんたんにできるとはおもわない。しかし、いますすんでいる道よりもこの道をすすむ方が、はるかに実りは多いはずである。



【註】
(1) 「規準」はいわゆる「学習指導要領」を具体化した評価項目であり、「規準」にそって具体的に評価をつけるときの目安が「基準」と言われているようである。厳密にはこの二つの言葉、「基準」と「規準」は分けるべきだろう。しかし、ここでの議論に関してはこの区別はさほど必要でもないと思うので、引用で使われている以外は、一般的な「基準」という言葉の方をつかっていく。

(2)「評価基準,評価方法の研究開発」国立教育研究所 小学校 第2編 第1章「国語」

(3)『小学校学習評価実践ハンドブック 総論評価と基準』指導監修 熱海則夫・高岡浩二・清水静海  太陽書林 P.73 

(4)前掲書 P.100

(5)『現場から見た教育改革』 永山彦三郎 筑摩書房 P.44〜45

(6)2002年7月時点で、11の都県でその傾向が見られるという。 2002年7月31日付 Mainichi Daily MailEducation 

(7)『監獄の誕生』M.フーコー 田村訳 新潮社P.195

(8)「推薦入試を考える〜内申書の問題を中心にして〜」財団法人神奈川県高校教育会館教育研究所編集・発行「ねざす」26号所収

  
 (ほんま しょうご 教育研究所員)
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