ねざす談議(22)"ことば "から
小 山 文 雄

"ことば"に気をとめながら新聞を読んでいると、 時に収穫がある。"現代"のかけらがいくつも拾えて、 そのかけらがまた意外な奥行きを見せてくれたりもする。 これは"考古"ならぬ"考現"の発掘作業と私はひそかに思っている。
 1 月10日付の朝日新聞に、 昨年暮から民主党が離党者問題に揺れていて、 なお余震が止まないという記事があった。 そのなかの離党予定者の次の言葉が目についた。
 「自民党に行くと決めている。 自民党から選挙区も問題ないと言われている。 あとはタイミングと大義だ」
 なんという率直大胆 (!) な御都合主義の表明であることか。 「大義」 はいちばんあとにくっつけるものと心得ている。 無邪気か無知か無軌道か、 それとも無謀、 無分別とやたら無の字が飛びかったあとで、 いや、 これはひよっとすると、 「あとはタイミング、 それが大儀だ」 の聞き間違えではないのかと思ったりした。
 「大義」 は大いなる道義、 人としての正しい道、 大原則を意味する。 政党が一定の政治理念実現のために結ばれたものとすれば、 党を移るということは信条を変えるということで、 政治家としての立脚点にかかわる根本問題である。 大義あとまわしは彼に理念なしの証左となる。
 ここでふと子供の時によく歌っていた 「侍ニッポン」 が口をついて出た。 「昨日勤皇明日は佐幕 その日その日の出来心 俺も生きたや侍らしく 新納鶴千代苦笑い」。 あの議員もせめて苦笑いぐらいはしてほしかった、 と思って私は苦笑いした。
 ここに写るのは 「理念」 の軽視という現代社会の趨勢だ。 方向を示してすじ道を通す理念が欠如すれば、 すべて場当たり、 思いつき、 スローガン主義に墮してしまう。 憲法、 教育基本法の改正主張にちらつく前文無用といった論調もまたこの非理念にすりよるものと言えようか。
 1 月21日付の朝日新聞に 「企業出身校長」 へのインタビューの記事が載っていた。 彼は現役合格率を60%に引きあげ、 京大、 阪大、 神戸大の合格者を80人に増やすと公言して話題となり、 教職員からの反発を招いているという。
 彼は言う。 「数値目標がいけないという考えは理解できない。 目標と成果を分析してはじめて次に進むことができる。 教員には教員の、 校長には校長の数値目標があってよい」
 この姿勢では、 経営対象としての 「学校」 は見えても、 学校が果たすべき 「教育」 は見えない。 だからいとも簡単に 「目標と成果」 を口にする。 教育の具体的目標をどこにおくか、 その成果をどうやって測るかは重い課題だ。 それは生徒ひとりひとりに関わるものとしての目標・成果であるからだ。 学校として合計何人の合格を論じるのとは全く質の異なるところにそれはある。 ひとりひとりの生徒の顔を思い浮かべようとしない彼は教育者失格なのだ。 校長は教育者でなければならない。 これ、 頂門の一針。
 ここまで新聞記者の書いた記事によってきたが、 次には新聞記者の言葉を取りあげないわけにはいかなくなった。 それは 1 月16日付の朝日新聞、 地村夫妻取材の件での 「週刊朝日」 編集長のお詫びの言葉だ。 二度の抗議を受けてのその言は、 「地村さんご夫妻に対して取材の意図や記事化の時期を明確にお伝えしていないなど、 取材に瑕疵がありました」 その 「瑕疵」 にひっかかった。 瑕疵はきず、 欠点を意味する。 玉の表面に赤い斑点があるというのが原義だ。 疵に二度の抗議はどうもそぐわない。 取材自体が大きな過失で、 それを軽く見せようとの意図的表現ではないかと直感した。 果たせるかな、 その五日後の新聞は、 週刊朝日に謝罪文が掲載されたことを伝えると共に、 当の編集長の 「これらの取材が信義に反する不適切なものであった」 という言葉と、 広報担当専務の 「基本ルールを逸脱し、 信義に反するもの」 とするお詫びとが載せられていた。 地村さん側は週刊朝日の謝罪文で 「仕方なく了解するが」 と言う。 それほどに無念であったのだ。 瑕疵という語が意図的に使われたのか、 それともよく理解できぬままに使ってしまったのかは闇の中だが、 瑕疵でなかったことは明らかだろう。 そして御都合主義の横行も……。
 最後に味のある言葉をひとつ。 それは 1 月16日付朝日新聞夕刊の、 なだいなだ 「『好い加減』 のすすめ」 だ。 彼は精神科医だが、 「アルコールリズム」 を 「アルコール中毒」 と訳すなら、 マルキシズムは 「マルクス中毒」、 クリスチャニズムは 「キリスト中毒」、 パトリオティズムつまり愛国心は 「国家中毒」 と訳したらどうかと言って 「好い加減なことをいう」 と非難され、 やがて中毒に代わって 「依存」 という訳語になったので、 「マルクス依存、 キリスト依存、 国家依存と訳し直し、 またまた顰蹙を買った」 という話につづけて次のように書いた。
  「最近、 この愛国心を子どもに教え込もう、 そのために、 教育基本法を改正しようなどという人があるが、 パトリオティズムが国家中毒や国家依存と訳されていたら、 そんなことは考えないだろう。 何人もの愛国心派の政治家が、 汚職で消えていった現実も、 この訳なら当然のことと納得できる。」
 漱石の 「金は魔物だね」 をまねて言えば 「ことばは魔物だね」。 詐欺や詐術とならんで"詐語"も大手を振る時代となったか、 ああ。

          (こやま ふみお)