学区撤廃と入試制度を考える
共生社会における自由と社会的公正のかかわり

                         黒沢 惟昭

 公立高校の学区を撤廃し、都県内ならどの高校も受験できる入試が今春から東京都と和歌山県で始まった。その結果、東京では有力大学への進学実績での公立校「復権」の兆しが見えはじめ、私学優位の傾向に一定の歯止めがかかったこと、一方山間地や海岸線が多い和歌山では交通事情もあって受験生の伝統校への集中は起こらなかった経緯が報じられた。
 来年度は、福井、三重、群馬でも学区拡大・廃止の方針のようであり、神奈川でも2005年度から学区撤廃を県教委が表明している。規制緩和の全国的流れからいえば、学区の拡大、撤廃は今後一層広がることが予想される。
 学区による通学制限は、学校間の格差を是正し、入試の激化を防ぐとともに、通学の負担を減らし、同時に子どもたちの生活する近隣の学校を活性化する有効な手段として戦後久しく実施されてきた。それが規制緩和を背景に学区の法的規定が、2001年の通常国会で削除されたことが、見直しに拍車をかけたのである。
 同様の目的をもつ方途として総合選抜制も併せて考えるべきである。これは複数の高校が連携し、まず各校定員の総数を合格とさせて、成績順に生徒を各校に振り分ける方法である。自分の志望校へ行けない場合も生ずるが、各校の「学力」は平均化されるから、そのための格差はないのが特徴である。
 この総合選抜制も、近年の規制緩和、学校の特色づくりの推進によって次第に廃止され、いまでは近畿地方の若干の都市や山梨、福井、京都など7府県が実施地域になってしまった。しかも来年以降はさらに減少の傾向である。
 だが、自由化の名の下に一切の規制を取り払うだけでよいのだろうか。学区にしても総合選抜にしても、前述のようにそこには共生社会のための一定の意義がこめられているのである。裁判で争われた事例を振りかえってみよう。
 大分県では、1985年に総合選抜(大分では合同選抜とよばれる)のために志望外の高校に振り分けられた生徒と父母がそれを不服として、県教育委員会、高校長を相手に訴訟を起こした。要点を記してみよう。「この選抜方法は能力以外の理由で本人の教育を受ける機会を奪うもので憲法26条、教育基本法3条に違反する」というのが原告側の言い分であった。
 これに対して県教委側は、「憲法が保障する権利も公共の福祉のため、必要最低限の制約は許される。高校が準義務化した現在、選抜の自由の制限が実質的な教育の機会を保障する」と反論。結局、87年の判決は原告側の全面敗訴であった。要するに、「合選」による格差是正がより多くの人々の「教育を受ける権利」を実現するという主旨であった。その後原告側は訴訟を取り下げ一応の決着をみるに至った。
 ところが95年以降、大分県はこの制度を廃止して単独選抜に踏み切ったのである。県民の半分近い反対にもかかわらずである。だが、訴訟当時の県教委の主張と裁判所が示した規制と機会均等についての判断は今も示唆に富んでいるように思われる。
 学区および総合(合同)選抜なんぞ「自由」に反するもので規制緩和の時代にふさわしくないと批判され、全国的に廃止の方向にあることはすでに述べたところである。本当にそうだろうか。
 この場合の「自由」とは志望・受験の自由であって入学の自由ではない。学区が拡大・撤廃され単独選抜になれば、いわゆる「よい学校」には一層多くの志願者が集中する。定員がある以上は選抜は不可欠だ。公正を期すためには「学力」、とりわけ客観的に評価可能な学力試験が重視されるのは当然であろう。そうであれば、学区を超えて入学を享受できるのは、どうしても「学力」の高い一部の生徒に限られ、それ以外の者は不本意な学校を選択せざるを得ない。
 拡大された学区で単独選抜を行っているところではほぼ学校の数だけの序列・格差が現存している。たてまえはともかく、受験情報誌はこの実態をリアルに教えてくれる。序列の底辺部に位置する「指導困難校」の"惨状"を私は自分の目で幾度か確かめたことがある。中退者、学級崩壊など多くの問題もここに集中していることも周知の事実だ。神奈川県も決して例外ではない。
 自由は最大限尊重されるべきであり、規制は少ない方がいい。しかし、その自由が一部の人々によってしか享受されない社会は健全とはいえないのではないか。社会的に弱い立場の人々との共生のためには一定の規制も必要であることを忘れるべきではない。とくに公立校の場合は社会的公正が強く求められることは当然である。様々な人々の共生・共育の立場から学区や入試制度が再検討されることを切望したい。
 想いかえせば、当時大分の単独選抜への転換は、「特色づくり」のためであると説明された。この七月に大分を訪れ高校の教員たちに会い、その後の状況をうかがったが、学力の高い生徒を集めるという点では、予想通り、ほぼ伝統校の「一人勝ち」といってよいことを資料によって示された。あえていえば、普通校の特色とは「進学実績」が最大の内容といっても過言ではないだろう。
 私は学校の「特色づくり」よりも、子どもたちの個性に応え、その育みの支援をする方が肝要と考えている。そのためには、各校が個別化、孤立して少子化社会の「子ども」を奪い合うことは止めて、むしろ近隣の各校が連携して緩やかなネットワークをつくり、相互のりいれをして、豊かな選択を保障することが求められているのではないか。
 紙幅が尽きたのでこの構想については、改めて論じたいと思う。