≪ネオ・リベラリズム認識の急務 ≫
P. ブルデユーに依拠しつつ

                                        武 田 利 邦

1. いま目の前にある困難

 教育現場がいま直面している困難は、 戦前や、 戦後の 「教育反動化」 の時代を別にすればかつてないほどのものではなかろうか。
 教育を押しつぶそうとする力も単純に力で押しつぶそうとするのではない。 非常にもってまわったやり方で、 教育現場を抑圧にかかっている。 「県民の声」 や 「県民感情」 というやつである。 お粗末であっても正当化の論理を伴っている。 従来の組合の戦略や戦術が、 有効ではなくなっている。 ここ数年で 「研修」 はほとんどなくなってしまったか、 風前の灯である。 言葉の本来の意味での研修は必要だと思っても、 なかなか有効に対応できない。 長期休業中に年休消化するのがいやで冷房のない学校で、 時間を無為に過ごしてしまう。 美術館や展覧会に行きたいと思ってもなにか言われるのがいやでついやめてしまう。
 職員会議はとっくに 「会議」 ではなくなっているし、 なにか言うことで変わるわけはないから言っても無駄と多くの人が思い始めている。 そうかといって、 会議を欠席すれば後から 「はんこを押して下さい」 と言われるので、 体だけは会議室に運ぶことになる。

 あまり必要と思えない書類の提出が次から次へ要求される。 勢い生徒とゆっくりしゃべっている時間や、 部活動で懸命に生徒を叱咤激励する時間は減ってくる。 これほどに追い詰められた環境の中で、 責任だけは厳しく追及される。 「情報開示に備えて、 親や生徒との対応をなるべく細かくメモしておくように」 と管理職は言う。
 われわれが今直面している感覚は一言でいえば 「無力感」 ではないか。 それこそは、 かつてファシズムを生み出した 「大衆感情」 であることをわれわれは歴史に学んだのではなかったか。
 こうした 「教育改革」 の前提にあるイデオロギーは何かを突き止めることが、 どんなに回り道のように思われても状況を打開するための有効な方法ではないか。

 2. 何がどう変わったのか

 もちろんそのためには時間のかかる作業が必要である。 しかし手がかりがないことはない。 ここではひとつの作業仮説を提示するほどのことができるかどうかわからない。 しかしことは緊急を要する。 非力を顧みず、 かなり乱暴な議論をあえてやってみようと思う理由である。
 事柄は、 前近代的な反動と近代的で自由な民主主義との二項対立ではなくなってきている。 P.ブルデユーはこう述べている (1)。 「サッチャー主義はサッチャー夫人 (ママ) から生まれたのではありません。 大新聞に論壇を持っていた知識人たちが長い時間をかけて作り出したものなのです。」 「ずっと前から始められたこの刷り込みの作業はいまも続けられています。」 「このような象徴的点滴注射は深甚な効果を発揮します。 その結果、 ネオ・リベラリズムは不可避的なものとみなされるにいたるのです。」
 つまりわれわれ自身の内部に、 すでに歴史に対する深いシニシズムとしてのネオ・リベラリズムが宿っていて、 知らぬ間にそれが 「進歩」 や 「民主主義」 の顔をして、 場合によっては 「正義」 の顔をして  ある種のエイリアン映画に出てくる人間の体に宿るエイリアンのように  われわれを抑圧の客体であるのみならず、 主体として取り込んでいると言えないだろうか。 そうだとすれば見えてくるものがあるのではないか。
 たとえば若者の組合離れである。 もはや 「民主主義」 や 「労働条件の改善」 は結集軸ではなくなっていないだろうか。
  「会社や、 役所に比べれば、 教員は好きなことを言えている。 これに不満を言うのは 『自己中』 であり 『わがまま』 というほかはない。」 「民間のようにリストラの不安から解放されているだけでもよしとするべきではないか」   言論の自由や身分の保障は優れた教育 (?) をしていくための必要条件ではないか  「いや、 教員は公務員や警察官と同じで、 身分保障を良いことに、 安逸をむさぼってきたではないか」 「これ以上の賃上げは必要ない。 むしろ余分な 『手当て』 はこの際剥奪すべきだ。」 「ちょっと位の賃下げはこの不況の折やむをえないのではないか」 「研修などと言って特権性を振りかざしてサボってきたのだから、 少し世間並みに働いてもバチはあたらないのじゃないか」 などという言説が、 組合の会合でも形を変えて表現されることがある。
 中教審や、 デマゴーグとしての知識人ではなく、 組合員自身の中に、 あるいはわれわれ自身の中にあるだろうこうした声にわれわれは有効に反論できているのだろうか。

 3. ネオ・リベラリズム

 ネオ・リベラリズムをP.ブルデユーはこう規定する。 「最大限の成長、 したがって生産性と競争力が人間の活動の唯一最高の目標である、 ということになります。 経済的な力には抵抗できない、 ということになります。」 「さらにもうひとつ、 重要な前提があります。 それは私たちに襲いかかってくる言語表現です。 新聞を開きラジオを付けるたびに, 私たちが否応なしに読まされ聞かされる婉曲語法です。」 「フランスではいま 『経営者』 とは言いません。 『国の生きた力』 といいます。 『解雇』 ではなく、 スポーツを連想させる隠喩を使って 『減量 (低脂肪化)』 といいます。」
 日本でもかつて 「減量経営」 といわれたが、 今 で は 言 う ま で も な く 「リストラ」 である。 蛇 足だが、 「リストラ」 は本来 「restructuring」   経営体質を含む全体の再構造化  だった。
 さらにブルデユーは 「含意に富み、 好都合な連想をさせる 「弾力性」 la flexibiliteとか 「規制解除」 だとかいった用語を使って、 ネオ・リベラリズムのメッセージは自由化・解放の普遍主義的なメッセージであると信じ込ませようとするのです。」
 まさに日本ではフレキシブル (スクール)、 であり 「規制緩和」 という名の地方への丸投げ、 あるいは財政負担の押し付けによるスモール・ガバメント志向が国家規模で進行している。
 さらにアメリカでさえ "War manual" といっていたものを、 日本では 「ガイドライン法」 と言って通してしまった。 「復興支援のための派兵」 も同じである。 「有事法制」 の有事とはなにか。 自衛隊には 「戦車」 がないというのをご存知だろうか。 自衛隊は戦わないので 「戦車」 ではなく 「特車」 というのである。 そういえば、 「世界 2 位から 4 位くらいの力を持つ軍隊」 は 「自衛隊」 であり 「軍隊ではない」 のである。 こうしたごまかしにわれわれは慣れさせられてしまったのである。
  「アメリカでは、 国家が二つに分裂する事態が進行しています。 みずから保険に入り保証を得ることのできる特権階級のためには、 種々の社会的保証を与える国家、 その他の民衆のためには、 抑圧的な警察国家、 というわけです。」 「カリフォルニア州はアメリカで最も豊かな州です。 またもっとも保守的な州のひとつです。 このカリフォルニアにはおそらく世界で最も高い評価を受けている大学もあるのですが、 この州の刑務所の総予算は、 1994年以来州内のすべての大学の総予算を超えています。 シカゴのゲットーの黒人 (ママ) たちは国家といえば警察官、 裁判官、 看守、 パロル・オフィサー (仮釈放中の監督担当官) しか知りません。」 「次第に警察機能だけに縮小された国家という支配階層の夢が実現している。」
 日本でもバブル以降確実に所得格差が拡大し、 かつての 「一億層中流」 という幻想は崩壊し 「不平等社会」 (佐藤俊樹、 中公新書) になりつつあることが実証され、 のみならずそれが結果の不平等ではなく 「機会不平等」 (斉藤貴男、 文藝春秋社) であることが指摘され始め、 斉藤はこの背景に 「社会ダーウィニズム」 の存在を指摘している。 「監視社会」 の成立もささやかれている。
  「ネオ・リベラリズムとは、 もっとも古臭い経営者のもっとも古臭い考え方がシックでモダンなメッセージという衣装をまとって復活したものです」 「旧制復古(レストラシオン)を革命 (レヴォリュシオン) に見せかけること、 これこそは (1930年代ドイツからサッチャー、 レーガンにいたるまでの保守革命 (レヴォリュシオン・コンセルヴァトリス) の特徴です。
 ちなみに、 レストラシオンはフランス革命後の 「王政復古」 から始まって、 「明治維新」 の 「維新」 をあらわす言葉である。 われわれはこの人名リストにブッシュと小泉を付け加えることができるだろう。 戦後政治の 「ねじれ」 があるとは言え、 いつから 「改革」 が自民党の看板になり憲法を 「守る」 ことに 「革新」 がやっきになるという逆転が起こったのだろう。
 ブルデューは言う。 「かつてのように、 太古の農業神話の古臭いテーマである大地と血を歌い上げて, 理想化された過去を模範として担ぎ回るようなことはしません。 そうではなくて、 新しいタイプの保守革命は進歩、 理性、 科学 (つまりは経済学) を根拠に復古を正当化し、 進歩的な思想と行動を時代遅れなものと思い込ませようとするのです。 それ固有の論理、 いわゆる市場法則、 つまり強者の論理に支配された経済世界の現実的基準をあらゆる人間活動の規範、 つまり理想的ルールとしようとしているのです。」
 ここは、 フランスと日本の近代の差異を痛感せざるを得ないのだが、 日本の保守革命は、 「太古の農業神話」 つまりは天皇制とその近代の 「成果」 (?) としての 「アジアの解放」 神話の復権を試みているように見える。 「日の丸・君が代」   にしか依拠できない  はどう考えても 「科学」 や 「理性」 ではない。 古いものを引きずったままの 「近代化」 の弱点がここにあるというべきではないか。
 科学は日本では 「技術」 であり 「和魂洋才」 であり、 したがって技術と経済的効率、 これを支える 「日の・君」 (愛国心) という古臭い 「神話」 が再登場する。
 われわれは理性が 「道具化」 しているというホルクハイマーの批判を日本の現実にそのまま当てはめることができるだろうか。 しかしホルクハイマー・アドルノの議論の中で、 日本によく符合するものがある。 E.
フロムの 「自由からの逃走」 でも知られている 「権威主義的性格構造」 である。 ファ
シズムの基盤でもあるこのパーソナリティをわれわれは今いたるところで見つけやすくなっていないだろうか。  

  【註】
(1) P.ブルデユー  『市場独裁主義批判』 藤原書店2000年
 以下引用は 「『グローバリゼーション』 神話とヨーロッパ福祉国家」 (57ページ以後) より
 
   
(たけだ としくに  元県立商工高等学校教員)
P.ブルデユーについて

 この論文の執筆者が 「依拠」 したP.ブルデユーについて、 若干の紹介を付け加えさせていただきます。
 ブルデユーは、 1930年に南フランスの片田舎に生まれ、 全国からエリートが集まる高等師範学校を卒業、 各地の大学で教鞭をとり、 30代前半の若さで社会科学高等研究院教授・研究主任に就任します。 その後はコレージュ・ド・フランスの教授となっています。 こうした経歴を見る限り、 ブルデユーはフランスの代表的エリートのように思えます。 でも、 ブルデユーの父親は郵便配達夫でした。 祖父は農民でした。 フランスの大学人としては異例の出自です。 ブルデユーの研究者はこう書いています。 「ブルデユーは自分が社会的に上昇しつつ通過する環境には非常な違和感をもっていた人です。 ですから、 教育がむしろ格差を助長するということに敏感になれたんだろうと思います」 (「ブルデユーとは誰か」 加藤晴久 『現代思想』 青土社2001.2所収)。
 もちろん出自で思想が決定されるわけではありません。 しかし出自はその人が背負う文化を規定しています。 ブルデユーは、 その膨大な仕事をとおして、 歴史、 文化、 社会の中に存在する格差構造を分析し続けました。 とくにブルデユーはその構造を再生産する教育の機能に注目しました。 さらにまた、 現実の移民や失業者・ホームレスの問題にも、 深い関心を寄せていました。 ブルデユーは自らの出自に生涯忠実だったとも言えます。
 こうしたブルデユーにとって、 もっとも重いテーマとなったのが、 「グローバリズム」 であり 「ネオ・リベラリズム」 です。 世界を覆い尽くそうとする巨大な力と格闘する思想家。 もし、 ブルデユーについての印象をかんたんに語るなら、 こうなるでしょう。 そのブルデユーの死が報じられたのは、 2002年の 1 月でした。
  『市場独裁主義批判』 『遺産相続者たち』 『ディスタンクション』 などのブルデユーの著書が、 藤原書店から多数翻訳出版されています。                 (本間)