バトンリレー 研究所員による 「書評」
 玄田有史、 曲沼美恵 
『ニートフリーターでもなく失業者でもなく』 
幻 冬 舎     
本 間 正 吾

 最近ニートという言葉を耳にするようになった。 この所報でもニートの問題をあつかった論考がのっている (所員レポート 「イギリスにおける若年者発達支援政策に関するレポート」 沖塩有希子)。 が、 この言葉を聞くたびに、 「また新しい言葉が登場したか」 とうんざりもした。 「新しい言葉」 ができれば、 それで分類し、 何となくわかったような気になる。 そして新たに分類されたものの数を調査し集計し、 対策なるものをたてる。 分類された本人たちさえ、 自分が 「何者なのか」 がわかったような気になり、 その言葉をつかう。 こうしてみんなが理解し免罪されたような気分になる。 こんな方向に進むのか。
 そんなときにこの本が出た。 東大の社会科学研究所の玄田有史さんとフリーライターの曲沼美恵さんの共著である。 ニートの問題が取り上げられるようになった最初の段階でこの本が出たことは幸いだと思った。
 そもそもニートとは何か。 学校にも行かず、 仕事もせず、 職業訓練も受けていない。 これが一応の定義だろう。 「ニートNEET」 の一字目はNotのN。 否定形でしか語りようのない存在。 その数も、 引き算によって推定するしかない。 若者の数から、 就業者を引き、 在学者を引き、 浪人 (進学準備) を引く、 そして就職していなくとも就職を希望しているものを引く。 で、 その数が2003年に40万人に達したという。 ニートの本質はここにあると思う。 フリーターもそうだった。 卒業していく数から、 就職したもの、 進学したもの、 進学の準備をするものを引き、 残りがフリーター。 引き算によって把握される存在、 それがフリーターでありニートである。
 おもえばこの社会の中心は足し算により把握される人々で成り立っている。 企業であろうが公務員であろうが何かの組織に所属している人、 どこそこの学校にかよっている人、 自由業であろうが何かの仕事に就いている人、 それは加算可能な人々である。 調査資料を記入していけばかならずどこにも分類できない数が残る。 「何者である」 と肯定形で語ることのできない存在、 加算が不可能な存在、 それがフリーターでありニートである。 とはいえもしかしたらフリーターもいまは加算法で把握されるのかもしれない。 「定職には就いていないが、 まだ多少は勤労意欲のあるもの」 と肯定形で語ることのできる存在になったのかもしれない。 何よりニートという最後に残る数字を得たのだから。
 この本が出たのが幸いだといったのは、 二人の著者がニートを理解不可能な余計ものとは見ていないということである。 玄田氏は言う。 「ニートをフリーターの二の舞にするな」 と。 「・・・その国際会議に出ていたときのイライラは、 いつもと別のところからやってきた。 日本のある経営者が、 現在の社会状況を説明するなかで、 「日本ではフリーターという無業者の問題が深刻になっているのです」 と、 言い切ったからだ」。 フリーターは働いている。 毎日の生活の中でわれわれが受けるサービスのほとんどを担っているのはフリーターだといっていいかもしれない。 そうした現実を見ようともしないで、 深刻な 「無業者の問題」 ととらえる姿勢に、 玄田氏はいらだち、 こんな風に予見する。 「マスメディアでもネット上でも、 ニートはこのままでいくとフリーターがそうだったように、 働く意欲の低下した存在として片づけられることになる。 やる気がなく、 生きることに怠慢で、 働く気もなく、 気楽に親のスネをかじっているだけと、 きっと言われる。 ニートはフリーター以上に、 もっとけしからんやつらだ。 社会のお荷物だと。 かつて正社員という圧倒的な存在に対しフリーターに投げられた中傷が、 ニートに対して、 もっと辛辣で容赦なく、 浴びせかけられるだろう」。
 だから、 ニートとよばれるような存在に近づき、 かれらが何を考え、 なぜ職業生活に踏み出せないのかを読み取ろうとした本が、 ニートが取りざたされ始めた時期に書かれたことには意味がある。 とはいえいまも 「ニートと呼ばれるような存在」 という言い方をした。 ニートに接近することは難しい。 なぜなら彼らは社会の表にあらわれているような存在ではない。 そして彼らは否定形でしか語りようのない存在、 引き算でしか計りようのない存在なのだ。 だからこの本の著者たちもはたして本当にニートの存在に迫ることができたかどうか、 読んでいても心許なさがのこる。 と同時に、 著者たちは先を急ぎすぎているようにも思う。 この本の中では 「14歳の分岐点」 「14歳と働く意味」 という章をたて、 14歳 (中学 2 年生) における社会体験の重要さに注目している。 たしかに14歳ぐらいでの社会体験は重要ではあると思う。 取り上げられている職場体験の意味も理解できる。 また、 大事なことは職業の体験ではなく、 人間関係の体験だとする、 著者の考え方にも十分同意する。 だが、 なによりも14歳という特定の時点を強調しすぎることに不安がある。 あせらず、 あわてず、 長いスパンで人間関係をつくっていくことが重要なはずである。 もちろん著者もこんなことは、 とっくにわかっているだろう。 もしかしたら著者たちの問題意識が先を急がせたのかもしれない。
  「どこかに足を引っ張っているやつらがいる」。 いまこの社会にはそんな空気が蔓延しているような気がする。 現に働いている仲間に対しても 「不適格者」 という言葉がつかわれる時代である。 フリーターもそんな空気の中で議論された。 ニートもやはりそんな空気の中で議論されることになる。 だからこそ、 この本が書かれたことには意味があると思う。 そして現実を見すえ、 その裏にあるものを真摯に読み取ろうとする本や研究が続くことを願う。
   
(ほんま しょうご 研究所特別研究員)