キーワードで読む戦後教育史(6) 
法的拘束力
                    杉山 宏


はじめに
 58・60年度の小・中・高の学習指導要領 (以下、 指導要領と記す) 改訂において、 指導要領は、 文部大臣が定め、 公示する教育課程の基準へとその在り方を変えることになり、 文部省に依って 「告示」 され、 法的拘束力ありとされるようになった(1)。
 本誌31号掲載の 「社会科の転換」 において、 55・56年度の指導要領改訂によって初期社会科に終止符が打たれ、 問題解決学習・体験学習から系統学習へと転換し、 指導要領は内容が大きく変わったことを記した。
 指導要領に法的拘束力有りとするのは、 上記のように一般には58年改訂からとされているが、 55・56年度改訂の後半、 高校教育課程改訂段階で 「学習指導要領の基準性について」 という文部省見解に 「学習指導要領の基準によらない教育課程を編成し、 これによる教育を実施することは違法である」 と記されており、 この時点で既に法的拘束力のことが文部省から出されていた。
 小論は法的拘束力に関する文理解釈を記したものではなく、 社会科を例に採りながら、 地理・歴史教育の系統性の重視等の動きの下に(2)、 指導要領に法的拘束力が打ち出されてくるようになった推移を、 指導要領の内容の変遷を中心に考えてみたものである。

手引書
 51年版 『中学校・高等学校学習指導要領社会科編』 には、 「まえがき」 に 「この学習指導要領は、 中学校および高等学校第 1 学年の社会科の指導計画をたてるにあたっての基準として編集されたものであって、 このとおりに実施することを要求しているものではない。 各学校では、 これを参考にして、 生徒の実情に応じた指導計画を立案されることが望ましい」 とあり、 指導要領は 「手引き」 としている。 一方、 55年版 『中学校学習指導要領社会科編』 の 「まえがき」 は 「この中学校学習指導要領社会科編は、 『中学校・高等学校学習指導要領社会科編』 (昭和26年改訂版) のうち、 中学校に関するものを改訂したものである。 これは、 中学校の社会科の指導を計画し実施する際の基準を示すものであって、 昭和30年度から実施されるものである。 このたび改訂された社会科は、 その基本的な目標において、 従来と変りはない」 としている。 両者共に 「基準」 の語を使用しているが、 前者は、 その後に続く文より単なる指標としての基準であり、 限定された基準ではない。 しかし、 後者は、 基準としての強さを明確にする文言がない。 だが、 関係法規に変化がなく、 指導要領の性格そのものではなく社会科の基本的な目標ではあるが 「従来と変りはない」 と記されていれば、 その限りでは56年版指導要領も 「手引き」 と考えるのが至当であろう。
 55・56年版の指導要領は、 小学校は社会科編と家庭科編、 中学校は社会科編と職業・家庭科編の各 2 冊が改訂刊行されただけで、 他教科はそのままであった。 僅か 2 教科の改訂の中で、 小・中学校の教育内容を全面的に改めることはなく、 また、 他教科の改訂のない中で、 2 教科の基本的な目標の変化も有り得ない。 前述の如く、 55年版指導要領中学校社会科編の 「まえがき」 で 「その基本的な目標において、 従来と変りはない」 としているのは、 その点で当然であった。 しかし、 この改訂で、 初期社会科に終止符が打たれ、 系統学習が全面的に採用され、 社会科は基本的な点で転換していた。

法的拘束力
 前述の如く、 文部省から指導要領に法的拘束力有りとされたのは、 58年度改訂からではなく、 55・56年度改訂の段階からであった。
 53年 8 月22日付発表の 「社会科の改善に関する方策」 に基く、 「小学校社会科の目標および学習の領域について」 「中学校社会科の目標および内容について」 は、 共に 5 回目の中間発表が、 前者は55年 2 月12日、 後者は55年 2 月22日に行われ、 改訂指導要領刊行に繋がっていった。 この一連の中間発表の動きの中で、 文部省は改訂指導要領の法的拘束力について触れることはなかった。 しかし、 高等学校の教育課程の改訂の段階で行われた55年10月の全国都道府県指導部課長会議の中で、 文部省は指導要領の基準性を打ち出し、 法的拘束力という語が動き出した。 そして、 「学習指導要領の基準性等に関する文部省見解」 と題して、 文部省は、 55年11月 3 日付 『文部広報』 に見解を公表した。 即ち、 指導要領の基準性については 「学校教育法第43条および第106条により、 高等学校の教科に関する事項を定める権限は、 文部大臣にある。 文部大臣は、 この権限に基き、 高等学校の教育課程は、 学習指導要領の基準によると定めている (同法施行規則第65条および第25条)。 従って、 学習指導要領の基準によらない教育課程を編成し、 これによる教育を実施することは違法である」 と、 その法的根拠を示した。 また、 文部省は同見解の中で、 当然問題視されると考えられた学校教育法第43条と教育委員会法第49条第 3 号(3)の関係については、 「教育委員会法第49条の規定は、 教育委員会の行う事務の範囲を定めたものである。 教育委員会がこれらの事務を行うにあたり、 他の法令に規定がある場合には、 その規定によらなければならないことは当然である。 したがって、 教育委員会が、 同法同条第 3 号の教科内容及びその取扱に関する事務を行うにあたっては、 学校教育法第43条に基き文部大臣の定める学習指導要領の基準によらなければならない。 このことは、 教育委員会が、 教育委員会法第49条第 5 号の人事に関する事務を行う場合において、 地方公務員法、 教育公務員特例法等関係法令の規定するところに従わなければならないことと同様である」 としていた。
 この文部省見解に対し、 日本教育学会教育立法小委員会が、 「高等学校教育課程に関する法的見解(4)」 と題する批判の声を55年11月25日に挙げた。 同批判は、 先ず 「現行学習指導要領は、 学校や教師を援助するために提供された指導書であつて、 学校を拘束する意味や意図をもつて、 作られたものではない」 としている。 このことは、 この時点で使用されていた指導要領が51年版であるから当然であった。 次いで、 「今回高等学校教育課程の改訂に当り、 文部省は、 『学習指導要領の基準性』 について 『法的根拠』 を明示し、 それに従わないことは 『違法である』 と警告している。 学習指導要領及び、 それに関係ある法規をそのままにし、 ただ、 行政当局の解釈を変えるだけで、 学習指導要領をまったく異質なものとし、 教育行政の性格を一変するような、 重大な変革を行うことが許されるであろうか」 としている。 また、 文部省見解は 「教育委員会法第49条第 3 号との関係について、 問題を生ずる」 として、 文部省の考えに同意出来ないと述べている。

55・56年版指導要領の特殊性
 51年版は、 指導要領一般編と、 小学校の指導要領としては、 国語科編・社会科編・算数科編・理科編 (52年)・音楽科編・図画工作科編・体育科編の 7 分冊。 中学校・高等学校の指導要領としては、 国語科編・社会科編T中等社会科とその指導法・社会科編U一般社会科 (中学校日本史を含む)・社会科編V(a) 日本史、 (b) 世界史・社会科編V(c) 人文地理・数学科編・理科編・音楽科編・図画工作編・図画工作編鑑賞資料・保健体育科体育編・外国語科英語編T・外国語科英語編U・外国語科英語編Vの14分冊と中学校指導要領職業/家庭科編、 高等学校指導要領として芸能科書道編・農業科編 (52年)・水産科編 (53年)・工業科編・商業科編が発行されている。
 58・60年版は教科別を廃し、 小・中・高の各学校の種類別の合本の刊行となった。 51年版と58・60年版のいずれも各教科に渡り、 教科領域では全面改訂と言える。
 これに対し、 55・56年度版は、 高等学校の指導要領は、 一般編・国語科編・社会科編・数学科編・理科編・芸術科編・保健体育科編・家庭科編・農業科編・水産科編・工業科編・商業科編・外国語科編の13分冊の指導要領が発行され、 教科領域では全面改訂といえるが、 小・中学校の指導要領は、 前述のように社会科と家庭科 (職業・家庭科) の 2 教科だけの改訂であった。 しかし、 小・中・高を通して、 この改訂で新しく発行された指導要領からは試案の文字が消えた。 文部省は指導要領の内容が整ったので、 試案の文字を消したという。 確かに、 47年版の指導要領には内容が整備されていないということを表現している部分もあったが、 手引書であることが明記され、 参考にして指導計画を立てることが望ましいと明記しており、 その意味での試案の表記が行われたことも明確である。 試案の文字の削除は、 指導要領の基準性確立への一石であったことは誤りない。

分野別学習の変化
 51年版の中学校高等学校指導要領社会科編の 「まえがき」 には 「中学校の一般社会科は、 第 1 学年は地理的分野、 第 2 学年は地理および歴史的分野、 第 3 学年は歴史および政治・経済・社会的分野の問題を中心として単元が構成されている。 しかしまだ全体としてすっきりしない点もあるので、 将来はさらに改善の機会を得たいと考えている」 という項がある。 前述の如く、 この版が手引書の性格を明示していたとはいえ、 分野制も採っていた。
 55年版の中学校指導要領社会科編の 「まえがき」 に改正の要点を列挙した中に 「従来のような学年別の単元組織を示すことなく、 地理的分野、 歴史的分野、 政治・経済・社会的分野に分けて示し、 各学校において、 いろいろの指導計画が立てられるように幅をもたせた」 という項があり、 51年版同様に分野制の語を用いている。 また、 この版は 「基本的な目標において、 従来と変わりはない」 としていたが単元学習ではなく、 この両者の言う分野制は同意ではなかった。
 51年版の分野制は、 47年版指導要領社会科編 (U) の学年別の単元学習を継続する分野制であった(5)。 51年版の中学校一般社会科は、 第 1 学年の主題を 「われわれの生活圏」 とし、 単元は 「学校や家庭の生活を明るくするためには、 どうすればよいか」。 「わが国土はわれわれに、 どんな生活の舞台を与えているか」。 「世界の人々の衣食住の様式は、 それぞれの土地の自然とどのように結びついているか」。 「世界の諸地域は、 どのように結びついてきたか」 の 4 単元で構成されていた。 第 2 学年の主題は 「近代産業時代の生活」 で、 単元は 「都市や村の生活は、 どのように変ってきたか」。 「近代工業はどのように発達し、 われわれの日常生活に、 どんな変化を与えたか」。 「天然資源を、 いっそう有効に利用するには、 どんなことに心がけたらよいか」。 「職業はわれわれの生活に、 どんな意味をもっているか」 の 4 単元で構成されていた。 第 3 学年の主題は 「民主的生活の発展」 で、 単元は 「われわれは民主主義を、 どのように発展させてきたか」。 「われわれの政治は、 どのように行われているか」。 「経済生活を改善するには、 どのように協力したらよいか」。 「われわれは、 文化遺産を、 どのように受けついでいるか」。 「われわれは、 どのようにして世界の平和を守るか」 の 5 単元構成であった。
 中学校日本史について、 指導要領は 「一般社会科とは別個に指導計画をたててもよい」 とし、 扱い方の基本から現場の自由宰領に任せていた。 当然 「指導計画も例を示す」 という形を取り、 「参考単元題目例」 として 3 案を挙げていた。
 A案は、 「石器や貝塚をのこした人々はどのように生活を切り開いていったか」。 「小山のような古墳がつくられた社会はどのようにして成立したか」。 「奈良や京都のような都はどのような社会が生みだしたか」。 「各地に城が建てられたころの社会はどのようにして成立し、 発展したか」。 「大工場をつくりだす社会はどのようにして生れたか」。 「なぜ新憲法が発布され、 農地改革は行われたか」 の 6 単元制であった。
 B案は、 「大昔のわたくしたちの祖先は、 どのようにして生活をたかめていったろうか」。 「武士が世の中を治めていたころの人々の生活はどのようなものであったろうか」。 「世界とのつながりはどのようにして強まり、 人々の生活は、 どのように進歩したろうか」。 「わが国は、 現在世界の国々とどのようなつながりをもっているだろうか」 の 4 単元制を採っていた。
 C案は、 「石器や貝塚をのこした人々は、 どのようにして、 生活を切り開いたか」。 「奈良や京都のような都は、 どのような世の中で作られたか」。 「各地に城が建てられたころの世の中は、 どのようであったか」 「新聞やラジオのつくられた世の中は、 どのようなものであったか」 「どこの町や村でも中学校が建てられるような世の中になったのはなぜだろうか」 の 5 単元構成であった。 そして、 単元案の展開例はC案のみを掲載している。 この参考単元題目例の列挙は、 指導要領の在りようが、 拘束力を持った基準などではなかったことを明示するものであった。
 このように。 51年版は単元学習であり、 初期社会科の路線を踏襲しており、 その範囲内での分野別学習であり、 系統学習のためのそれではなかった。 また、 注意事項には 「この学習指導要領は、 中学校および高等学校第 1 学年の社会科の指導計画をたてるにあたっての基準として編集されたものであって、 このとおりに実施することを要求しているものではない。 各学校では、 これを参考にして、 生徒の実情に応じた指導計画を立案されることが望ましい」 「各学年の各単元ごとに、 学習活動の例がたくさんあげられているが、 これらが全部実施されることを考えているわけではない。 また、 たとえこれらの学習活動を、 その順序にしたがって全部実施したところで、 各単元の内容に関する系統だった知識や理解が得られるわけではない。 それは教科書をよく読んだり、 教師に説明してもらう活動は、 あまりにも当り前のことであるので、 この種のものの大部分は略されているからである。 したがって各学校では、 この中から適当と思うものを取り上げ、 さらに学校としての独自の活動をもってこれを補って、 断片的知識の獲得に終らないように注意しなければならない」 とあり、 指導要領の基準性が法的拘束力を持つということとは懸け離れた記載になっている。
 しかし他方、 55年版の中学校指導要領の第1章中の 「中学校社会科の位置」 の項に、 「中学校では、 生徒の発達段階を考え、 地理・歴史・政治・経済・社会など分野に関する知識・態度などについて、 全体としての人間活動の姿との関連やその表現された種々の面に関連させながらも、 小学校のときよりも、 ある程度系統だって身につけさせていく必要がある」 とあり、 明確な表現は避けながらも、 単元学習、 経験学習を進めるための分野別学習でなく、 系統学習のためのそれであることを示していた。 更に、 55年版は 「社会科の具体目標と内容」 の章において、 三分野制が前面に出て、 地理的分野、 歴史的分野、 政治・経済・社会的分野の 3 項目が列挙され、 各項目毎に具体目標と内容が示され、 詳細な説明が施されている。 各分野の内容に掲げられた表題を列挙すれば、

地理的分野
1、 日本の諸地域 2、 全体としての日本 3、 世界の諸地域 4、 全体としての世界 5、 郷土。

歴史的分野 
1、 人類文化の始原時代 2、 日本国家の成立時代 3、 武士が社会に現れた時代 4、 ヨ−ロッパ人が東洋に進出し始めたころの日本の封建社会の完成時代 5、 世界の諸国との国交に基く近代日本の成立時代 6、 第二次世界大戦後の世界と日本。

政治・経済・社会的分野
1、 近代民主主義の発展と人間生活 2、 近代における政治・経済・社会の構造と機能 3、 現代社会の諸問題 4、 世界と日本 5、 文化と人間生活 6、 生活態度と人生。

となる。 これら内容の列挙で、 単元学習、 問題解決学習とは、 全く異なった学習形態であることが理解出来る。

58年の改訂
 58年10月 1 日に文部省は、 小・中学校の指導要領を告示したが、 告示前に説明会が行われ、 内藤初中教育局長は 「今回の教育課程は、 これは国の最低基準でございまいて、 この基準を明確にいたしまして、 さらに学校の実情あるいは地域の実情に応じまして、 弾力性のある教育課程が編成できるように配慮したつもりでございます」 とし、 法的拘束力による締め付けの強くないことを極力弁明している。 また、 この会場で 「いままでの指導要領より簡潔にして、 創意くふうができるようにした。 そういうご方針のようにうけたまわりましたが、 法的拘束力というものはどういうように変るか、 そういう点おうかがいしたいとおもいます」 という質問に対し、 同局長は

 従来は 「学習指導要領は、 学校教育法施行規則によりまして、 学習指導要領の基準による」 こういうように規定されておりました。 この指導要領は、 目標あるいは内容、 その取扱、 こういうような部門と、 指導方法、 教師の手引書等に相当するような部分につきまして、 相当詳細な説明が加えられておるわけであります。 今回わたくしどもが規定いたしましたものは、 各教科の目標、 内容、 その取扱、 あるいは指導計画についての基本的な事項だけにとどめまして、 教師の指導手引あるいは学習指導法につきましては、 これを別の指導書にゆずりました。 これを国の基準として告示で公布するつもりでおります。 その面におきましては従来どおり法的拘束力をもってくるわけであります。 そうして別に教師の手引書あるいは指導書を教師の参考書として刊行するつもりでございます。 この点は法的拘束力はございません。 ですから従来の学習指導要領を法的拘束力をもつ分と、 しからざる部門とにいたしたのが、 今回の改正の第一点でございます。

としている(6)。 55・56年改訂の高校教育課程の改訂段階で出て来た法的拘束力について、 「従来どおり法的拘束力をもってくる」 と述べ、 既成事実として論議対象外としていた。
 また、 この時の中学校指導要領社会科の 「内容」 に 「『国際情勢と日本の地位の向上』 については、 朝鮮との関係、 日清戦争、 日露戦争、 条約改正などの学習を通して、 複雑な国際関係の中で、 国内の政治、 経済、 文化などの発展をもとにして、 わが国の地位がどのように向上していったかを理解させる。 指導にあたっては、 国際関係と国内の政治や経済などの事情とが、 密接な関連をもっていたことに着目させるとともに、 条約改正にあたっては、 国民の多大の苦心があった点を理解させる。 国際社会に登場した日本と外国との関係については、 わが国の立場を公正に判断する態度を養うことが必要である。 また、 国際情勢については、 分割され植民地化されたアジアやアフリカの動きに触れながら、 中華民国の成立前後の事情を日本との関係において理解させることが望ましい」 とあり、 日本の国際的地位の向上を理解する素材に日清戦争・日露戦争も使うというのであった。 日清・日露の両戦争の勝利が日本の国際的地位の向上に繋がったことは事実である。 しかし、 日露戦争が朝鮮半島や中国東北部の支配権確立を目指す帝国主義戦争の性格を有したことも事実であり、 日韓併合以後の大陸進出路線の起点であったのも事実である。 日清戦争も日露戦争も多くの影響を多方面に与えており、 それ等負の部分と戦争が日本の向上に寄与したという一面をどう取り扱っていくのか。 また、 植民地化されたアジアやアフリカ地域の動きとの関連など、 問題の多いものが内容に盛り込まれていた。
 日本の国際的地位の変遷に、 日清・日露戦争の学習をとしているのはこの時が初めてではなく、 55年度改訂中学校学習指導要領歴史的分野の 「内容」 に 「富国強兵、 日清戦争、 日露戦争、 条約改正、 第一次世界大戦とその前後の世界 (中国辛亥革命、 ロシア革命、 国際連盟と平和への努力など) などの学習を通して、 日本の国際的地位の移り変りについて理解させる」 とあり、 日清・日露の両戦争などの学習によって日本の国際的地位の移り変わりについて理解させるとなっている。 しかし、 表現にやや違いがあり、 55年度が 「移り変わりについて理解」 としているのに対し、 58年度では 「向上していったかを理解」 となっており、 二つの指導要領の間には戦争行為に対する表現にやや変化が見られる。
 51年版の戦争関係や国際関係の学習内容を、 日本史の学習活動の例に見ると、 「不平等条約の内容を先生から聞いたり、 本で調べて発表しよう」 「老人に次のことを聞いてみよう。 (1) 日清・日露戦争のころの様子。 (2)日本が外国と対等につきあえるようになった時の様子」 があるが、 戦争を肯定的に評価することを指示していることはない。
 中学校社会科の日本史の分野の戦争観を見ても、 51年版と55・56年版との間には断層があり、 55・56年版の延長線上で狙いを明確に表面化したのが58年版であったといえる。

おわりに
 学校を取り巻く情勢が変れば指導要領の在り方も変化するのは当然で、 それに応じての 改訂も必要であることは言をまたない。 しかし、 55・56年版以後の改訂に当っての文部省の動きには疑問が多い、 基本的な目標は、 従来と変化ないとしながら、 教科の在り方を根本から変えていく、 指導要領の改訂の途中で出した語を十分な討議なしに、 以後の改訂作業の中で既成事実としていく、 指導要領の改訂毎に戦争の評価を少しずつずらしていくように、 諸事を済し崩し的に進めていく、 この手法が文部省の指導要領改訂時のある部分での慣例的手法になっている。 法的拘束力の問題を済し崩し的に定着させていった。

【註】
(1) 文部省側見解の一つとして 「学習指導要領は告示として出されているから法的拘束力がある。 というように理解している人がいるようだが、 厳密にいえばそうではない。 学習指導要領に法的拘束力があるというのは、 学習指導要領 (告示) が学校教育法の委任にもとづく法規命令として制定されているからだということになる」 がある (菱村幸彦著 『続・やさしい教育法規の読み方』 教育開発研究所1993年)
(2) この 「地理・歴史教育の系統性の重視等の動きの下に」 という文中の 「等」 は、 本誌31号 「社会科の転換」、 同32号 「任命制教育委員会」、 同33号 「教科書検定」 で述べた教育界を巡る一連の動きを指している。
(3) この教育委員会法は、 昭和31年 9 月30日失効の旧法である。
(4) 日本教育学会教育立法小委員会の 「学習指導要領の基準性等に関する文部省見解」 に対する意見 「高等学校教育課程に関する法的見解」 の中で 「先の文部省の見解は、 学習指導要領に法的性格を与える意図が存しているといえよう。 しかし学習指導要領は、 その本質上、 法規化さるべきものではない。 学習指導要領は、 その名の示すように 『学習の指導について述べるのが目的であり』 (昭和22年度、 学習指導要領一般篇 2 頁)、 従つて、 その内容も指導目標・指導内容・指導方法の全体に及ぶことになる。 かかる学習指導要領に法的性格を与え、 その拘束性を主張することは、 教育の内容・方法の細部まで法で定めることと、 ほとんど変らない。 それは戦時中の教育をはるかに上廻る、 教育の中央統制である」 とあり、 同小委の基本的な考えが伺える。 (『戦後日本教育史料集成』 第 5 巻 三一書房 1983年)
(5) 47年版指導要領社会科編 (U) は、 第 7 学年から第10学年までの一般社会科を扱っている。 第 1 章序論において、 「一般社会科の意義」 を述べているが、 「生徒が自分の力で社会の問題を解決しうるためには、 従来の幾つかの教科の教材が総合され、 融合されて来なくてはならないのであるが、 この意味で一般社会科は総合社会科と呼ばれても良いであろう」 「学習の単元が、 ばらばらな形式的な知識を集めたものではなく、 人間の経験を組織立てたものであるということである。 単元の学習を進めて行く間にはいろいろの形の活動が行われるが、 問題の解決に不必要な単なる事実の記憶はどの活動にも含まれていない。 この際、 教科書の役割は、 問題の解決に役だち、 かつ十分に意味のある記憶を中心に、 生徒の活動を組織立てるための手引きとなることにあって、 徒らに記憶をしいる内容を盛りこんだものとして用いられてはならないのである」 とし、 単元学習に繋がる論を述べている。 そして 「問題単元及び単元と経験領域との関係」 については、 「この 『学習指導要領』 に大要を示してあるように、 4 学年にわたる一般社会科の各学年の課程は、 六つの問題単元からできている。 六つの単元は, それぞれ一定の経験領域を中心として組織したものである。 第 7 学年の諸単元は、 『日本におけるわれわれの生活』 というような経験領域を中心としている。 第 8 学年の経験領域は、 『社会生活に対する産業の影響』 ともいうべきものである。 第 9 学年の六つの単元は 『共同生活の社会的條件』 という主題を中心にし, 第10学年は 『民主主義における人間関係』 ともいうべき領域を中心としている」 とし、 第 7 学年から第10学年まで、 全て年間 6 単元制であるとしている。 更に、 「単元の提出」 の項で、 教科書が各単元ごとに 1 冊ずつ分冊になるとしている。 即ち 「社会科の教科書は、 各単元ごとにパンフレットの形で出版するように計画をすゝめている」 としている。 「教科書の役割は、 問題解決に役だち」 とあった。 1 単元に 1 冊の教科書制は、 生徒の問題解決学習に取り組む意欲の助けとなるためのものでもあった。
  社会科の授業は47年 9 月から開始され、 他教科より 1 年遅れて50年 4 月から社会科の検定教科書が使用されるようになるが、 この間、 国定教科書が使用された。 50年以後も発行されたり、 未発行の物もあったが、 この間に発行され使用された、 第 7 学年から第10学年までの 4 学年間の社会科教科書は次の通りである。
(6) (『戦後日本教育史料集成』 第 6 巻 三一書房 1983年)

  
(すぎやま ひろし 教育研究所共同研究員)