民営化の意味するもの
教育研究所代表 佐 々 木  賢

 今回の衆院選挙は郵政民営化が主な争点だった。 だが民営化の意味が人々に理解されていたとは思えない。 英語のprivatiza-tion の訳だが、 private は 「私」 の意味が強いから 「私営化」 と訳す方がいい。 「民」 という字が入ると、 民衆は自分が参加できる気分になる。 だが郵政民営化は国内の公共事業に使っていた340兆円の簡保や郵貯を、 世界の金融市場に丸投げすることを意味していた。
 WTO (世界貿易機構) の最近の戦略は、 GATS (General Agreement on Trade Service 「投資に関する一般的合意」) にあるといわれている。 教育・福祉・水道・ガス・電気・道路・郵便・交通・医療・軍隊・刑務所等の公共事業を私営化することだ。 Trade は投資と訳した方がよく、 民衆にとって嬉しい話ではない。 マニラで水道が私営化されたら料金が倍に跳ね上がったからだ。 だから、 GATSのことを 「Greedy Attack on our Town Services (公共サービスへの貪欲な攻撃)」 と評する人もいる。
 新自由主義体制のもとで格差が拡大した。 商品や株や為替取引で瞬時に数百万円も稼ぐ人がいる一方で、 3 億人を越す児童労働の時給が 6 円だ。 その差は何と100万倍である。 1 億円以上の純資産をもつ人が世界に800万人いて日本に143万人いる(2005年メリルリンチ調査)。 1000人に 1 人が超金持ちで、 そのおこぼれを頂戴する若干の中間層と、 膨大な貧乏人がいる世界になった。
 貧乏人は物を買わないから、 投資先は公共事業になる。 水や道路や教育は貧乏人でも必要だから、 そこがGATSの付け目となる。 中世の農奴は領主に、 死亡税や結婚税や粉挽税やパン焼税を払い、 狩猟や漁労や移動が禁止され、 領主直営地の耕作や森林伐採や輸送の賦役があり、 農奴の子は農奴にしかなれなかった。 その上、 中世末期には人頭税 poll-tax が課せられた。 GATS体制はまるでこの時代を再現したようなものだ。
 さて、 GATSの重点対象は教育の私営化だ。 2005年の日英教育学会でのロンドン大学ボール教授の講演によると、 イギリスで教育の私営化が急速に進んでいる。 氏の演題は 「The Commodification of Education in England 」 となっている。 Commodifica
-tion とは 「商品化できないものを無理にでも商品にする」 という意味である。
 氏の講演によると、 イギリスでは 3 年以内に学校事務は全て私営化する。 その上、 巨大資本の経営する One-Stop-Shop (何でも揃う事務所) に、 学校経理と経営、 校長や教師の人事、 カリキュラムとテスト等、 全の 「教育商品」 を揃える。 教育庁や公立学校の教師は私企業に奉仕する副次的なものとなる。 「これは教育改革ではなく、 生活への消費の完全な浸透である」 とボール氏はいう。
 この社会が完成すると 「市民」 「知性」 「教養」 「研究」 といった概念が希薄になり、 「顧客」 「単位」 「資格」 「業績」 「地位」 「収入」 の概念が横行する。 知識は専門分化され横断化され 「役立つ、 売れる、 有能、 多様」 といった指標で計られる。 つまり一貫性を欠いた紋切り型になるのだ。
 学校は商品価値の高い生徒、 おとなしくてしつけやすく、 成績が上りやすい生徒を競って入れようとする。 それは学校の商品価値を高めるからだ。 「もし自分の学校の成績を上げたければ、 入学を制限しなさい」 という南ロンドンの校長のことばを紹介している。 これを 「高付加価値生徒」 という。
 教師は自分の業績を上げようと、 同僚と競争する。 それも自分を高めようとするより、 服従と沈黙を重んじる。 外部から、 収益可能性の基準で 「適格か不適格か」 の評価をされるからだ。 その結果、 社会に関わろうとしなくなり、 倫理的に内省するより、 スキルと応用と柔軟性によって、 契約と費用と利潤を冷徹に計算し外的価値に応えようとする。
 ボール氏は結論として、 「壮大な単純さが支配し、 道徳の経済への服従が進む」 と予測している。 「壮大な単純さ」 とは言い得て妙である。 なぜなら、 生徒や教師や学校と教育の営みを、 数値で評価するには、 衆目の一致する単純化が必要だから。
 イリイチは 「脱学校の社会」 の中で、 学ぶ価値が 「学校に出席して単位を得る」 という制度に置き換えられることを 「価値の制度化」 と称した。 教育の私営化はボール氏の指摘するように、 価値の制度化を一層露なものにするだろう。
 日本は先行する米英の教育改革を追いかけている。 東京都は2006年度に 「学校経営支援センター」 を作り、 その成員に各学校の職員会議に出席する権限を与える。 また、 コンピューターの普及で学校事務はサービス会社に容易に委託できる体制にある。
 教師全員を一年契約で雇う私立学校 (大成高校等) もでており、 校長を任期中途で解雇する例 (日本学園) もある。 教師は派遣や契約社員並の扱いを受け始めた。 教師300人を要する 「受験鉄人会」 では時給7500円のA教師、 6000円のB教師、 5000円のC教師を用意している。
 教師の専門分化が始まっている。 補助教員やIT専門の臨時雇用があり、 福井県では今春 「栄養教諭」 が10名配置された。 特別支援教育策をみれば将来LDやADHDや高機能自閉症を対象とする専門と職階を細分化した教師が生まれることも予測できる。
 これらの情勢をみると、 「教育の国家統制」 というより、 英米の後を追いつつ、 私営化の条件を作りつつあるという見方をした方がいい。 「壮大なる単純化」 は単純さの故に民衆の指示を得やすい。 単純化の先兵はテストである。 文部科学省が全国統一テストを急ぐのも、 私営化への道を目指しているからではないのか。

(ささき けん)