ねざす談議(27)
「片影・河合栄治郎 没後六十一年に憶う」
小 山 文 雄

 ここに 『第二学生生活』 という本がある。 昭和12年 5 月27日 ( 7 月 7 日に日中戦争勃発となる) の発行で、 手元の九版はわずか半月後というほどに、 広く世に迎えられた。 中身は主として学生を対象にする論考や随想という地味なものだが、 著者の帝大経済学部教授河合栄治郎は、 「溢れるばかりの気魄と精力を以て、 自由主義の立場から、 マルキスシズムとファシズムに対して果敢な闘い」 (土屋清) の真只中にあり、 世の注目をあびていた。
 この本の巻末には、 彼の著作のうちの10册について、 内容解説付きの広告が載っている。 以下 3 册について略記しよう。
『ファシズム批判』 (昭和 9 年刊)
 澎湃として起れる日本国家主義に対し 憂憤の情を新にして発せられた警告の 文字である。
『改訂社会政策原理』 (昭和10年刊)
 社会政策学の原典……各社会思想に対 して理想主義的社会主義の立場より、  鋭利なる批判を加へてゐる。
『時局と自由主義』 (昭和12年刊)
 美濃部事件、 二・二六事件等国民の胸 奥を震撼せしめた危機に際して、 寂と して声なき知性の陣営より発せられた 圧政と暴力に対する抗議と警告の声…
是等と 『第二学生生活』 を合わせた 4 册は、 13年 5 月内務省により発行発売禁止とされ、 著者・発行者は14年 2 月 「安寧秩序の紊乱」 を理由に起訴された。
 裁判は一審無罪、 二審有罪となり大審院に上告したが棄却され、 18年 6 月に罰金刑確定をもって結審となった。
 この間河合は発表の道を狭められ、 遂には断たれ、 病を得ながらも、 なお研究の道を突き進んだが、 結審から僅か八ヶ月後に不帰の客となった。 彼が座右の銘とした 「唯一筋の道」 はプツンとここに途切れ、 日本は敗戦への道を進んだ。
 論を戻し 『第二学生生活』 所収の 「教学刷新と学制改革」 (昭和10) を見ていこう。 この論考は、 右翼・軍部が声高に進める 「国体明徴運動」 に迎合する文部省教学刷新委員会が 「広くいへば精神主義、 狭く云へば日本主義を、 新日本の教育原理として提立せんとする」 その企みに、 危機感を抱いての発言だった。
 河合は言う   日本の教育には 「一定の指導原理」 が存在せず、 ただ特定の対象に対する知識がいかにして発生し、 それの結果はいかにあるかという、 因果関係の知識だけが学校によって切売りされてきただけで、 根底となるべきの、 即ち"What shoud I be ?" (私は何であらねばならぬか) は没却されてきた。 そのため、 原理となるには余りに無内容の 「日本主義」 の跋扈を招いてしまった。
 河合は公判廷でも屈せずに説いた。
  「わが教育に指導原理がない、 しかして日本精神は指導原理たるに足らないといったと述べてありますが、 確かにわが教育界に指導原理はないと思うのでありまして、 教育勅語は有難い徳の教えではありますが、 いわゆる教育の指導原理ではないと思うのであります。 日本精神という原理に私が反対したのは、 専門の日本精神の研究者さえも内容が分からぬといっているような日本精神を明確なるべき教育原理にするということはできないと思うのであります」
 ここに 「科学」 と 「良心」 への依拠という学者としてのshoud beを見ることは容易だろう。
 ところが権力の側は、 教学刷新と並行して内閣審議会による学制刷新も進め、 「間に合う人間、 役に立つ人間、 能率の上がる人間」 の養成を図った。 shoud beはそこではもはや無に等しい。
 こうした無定見ぶりは、 現代においてもなお無縁ではない。 「期待される人間像」 「クローバリゼーション」 「ゆとり」 等々、 思い半ばに過ぎるだろう。
 河合は牙をむくファシズムに断乎として立ち向かう。
  「ファシストの何よりも非なるは、 一部少数のものが暴力を行使して、 国民多数の意志を蹂躙するに在る。 国家に対する忠愛の熱情と国政に対する識見とに於て、 生死を賭して所信を敢行する勇気とに於て、 彼等のみが決して独占的の所有者ではない。 吾々は彼等の思想が壇上に於て討議されたことを知らない」
 現在、 「ファシズム」 への信奉を明からさまにし、 また呼号する者は居ないだろう。 しかし、 「ファッショ」 への傾きを 「人」 に内在する気質のひとつとみれば、 それは常にうごめいていると思わなければなるまい。 「立て」 「歌え」 「罰せよ」 の連呼にその影が映っているかどうか決めかねるが、 そこに"What should I be?"のかけらもないのは確かだ。
 河合はある講演の結びで、 「今日の日本の社会的状勢は、 諸君にとっても快いものではありますまい」 と言いつつ、 次のように語を継いだ。
  「此の時に吾々に思ひ起こされるのは彼のアメリカの詩人ロングフェローの愛好すべき詩の一句であります。 彼は云ふ、 Some days must be dark and dreary と。 個人も社会もある時は暗く寂しくなければならないのであります、 然しやがて明るい輝いた時が、 その次に現れるでありませう」
 楽観が私に囁きかける、 いまは老いている時ではない、 と。 そこで私も覚悟を決めた。 六十年前に生れた 「私の民主主義」 に老いも終焉も来させはしないと。
 
(こやま ふみお      教育研究所共同研究員)