バトンリレー
研究所員による 「書評」
「消された校舎」
旭丘高校校舎の再生を考える会 編 

中 山 律 子

 この本は、 1938年竣工した愛知県・旭丘高校の校舎を取り壊したときの騒動を 「旧校舎保存派」 から回顧したものである。 旧校舎は 『日本近代建築総覧』 追補リストに掲載されたほど価値の高い建物である。 写真を見ると、 ルネサンス様式を取り入れた風格のある造りで、 高い天井に太い柱の続く廊下や丸窓はヨーロッパの教会を思わせる。 外壁には黄土色のスクラッチタイルを張ってあったとか。
 行政は築60年を経て危険性が高いからと耐震診断もせずに一方的に33億円をかけて建て替えを決めた。 しかし 「旭丘高校校舎の再生を考える会」 のメンバー達が建築家や文化庁に東奔西走して調べた結果、 なんと旧校舎は非常に堅牢な戦前のコンクリート造りで、 若干の耐震補強をし再生リニューアルすれば20億で文化財の最先鋭校舎になるという。  
 しかし行政側の言い分を一方的に信じる鯱光会 (同窓会) や一旦決定したことを今更覆すことはできないとする県議会の壁に阻まれ、 2000年12月取り壊しのブルトーザーが入った。 会のメンバー達が座り込みをしていたにもかかわらず。
  「校舎再生を考える会」 のメンバー・建築家・校舎を愛する地元住民・騒動の時の在校生……様々なメンバーの手記からなる本書を読んだ雑感をここに記してみたい。

@ 校舎の力 
 私の母校の小学校には 「貴賓室」 なるものが存在した。 創立何十年の古い学校で、 その部屋も何とかの宮様が来校された時に用意されたものとか。
  「何十年」 とか 「何とかの宮」 とか、 まことに漠たる記憶で申し訳ないが、 その貴賓室のたたずまいだけは鮮明に覚えている。 上下式に開閉される窓にはワイン色のビロードのカーテン、 寄木張りの床には葡萄唐草のペルシャ絨毯。 飴色のマホガニーの応接セットの上には、 重そうなシャンデリアがぶら下がっていた。
 部屋につながる階段も特別だった。 大人四人が優に横に並んでいけるほど広い横幅。 下りていく正面には大きな鏡が掛けられて、 優雅なカーブを描いて階段は左右に分かれ一階へと降りていく。
 大掃除などでこの部屋の掃除当番があたるとどきどきした。 小学生にもこの部屋の特別な雰囲気はわかっていた。 真鍮だろうか、 ノッカー (敲き台) の付いた重いドアを開けると、 かすかにかび臭い匂いと共に日常とは違う空気が充ち満ちている。
今思い起こせば、 それはみそ汁とご飯という身近な生活とは異なる 「典雅」 や 「瀟洒」 といった 「西洋文化」 の香りだったのだろう。 私がバーネットの 「小公女」 やオルコットの 「若草物語」 といった泰西少女小説 (なんとノスタルジックな響き!) を読みふけったのはこれに起因しているかもしれぬ。
 校舎は断じて単なる生徒の 「入れ物―箱」 ではない。 家・建物・建築はそこに住む人の知性や感性、 人格形成に多大な影響力を持つ。 さればこそ利休は茶室のしつらえにも心血を注いだのだ。
 教育とはある意味、 真理や美や文学への憧れをを育てるものではないかと私は思う。 年若い今の自分には持ち得ない、 しかしそれに届きたいと思う憧憬が人をして学業へ、 或いは心身の鍛練へと向かわせるのではないか。
 であれば校舎にはただ 「新しい」 だけではない歴史や伝統の重みといった 「風格」 が何としても欲しいのだ。  
 この本の中でも 「旭丘高校を愛する地元住民」 がこう書いている。 「素朴だが、 シンメトリーな外観は造形的に安定感があり、 凛とした風格のたたずまい旧一中はだれもが憧れる、 そしてあの学校に入学したい……と地元の人は皆思っていました」 と。 新しい校舎はエレベーターや生徒サロンもあり、 外観も以前を模しているというが、 学校という場所の 「建物」 が便利であればいいというものでないことは先にも記したし、 なによりマチスやゴッホのレプリカが本物と同じ価値を持つと信じている脳天気な人もいないであろう。

A 再編校校歌
  「価値ある校舎は再生リニューアルを」 と書けば100校計画で数を優先させた神奈川に残すべき価値のある校舎はないと反論する向きもあるかもしれない。
 なるほど、 しかし私には気がかりなことがある。 それは 「校歌」 だ。
 前期再編対象校33、 後期再編対象校26 (全日制課程のみ)。 聞くところによると、 再編校の校歌は新しくプロに頼んだ、 公募して内部で手直しをした、 とほとんど新しく作成しているが、 この再編統合の嵐の中で、 刮目すべき 「校歌」 が幾つも消えていったのではないかと憂うるのである。
 私の在職する平塚工科は平塚工業高校と平塚西工業技術高校との統合である。 四年前統合前の平塚工業に転勤した私は、 四月の昼休み、 校門の立番で驚愕した。 何気なく見た 「校歌」 の石碑に 「作詞・土岐全麿、 作曲・信時潔」 の文字を見たからである。
 土岐全麿―日本近代歌壇の重鎮にして国語審議会の会長。 今やエキデンとして英語になった 「駅伝」 は彼が読売新聞社社会部長の時企画・実施したもの。  
 信時潔―現在の芸大卒業後ドイツに留学しシューマンに師事。 歌曲 「海行かば」 の作曲者。
 このそうそうたるペアの校歌がなぜ一地方工業高校にと怪しんだ。 (卒業生の皆さん、 ごめんなさい)
 調べると平塚高校当時の国語教諭が恩師・金田一京助のつてを頼って依頼したとか、 テノール歌手の奥田良三を招き平塚農業会館で披露したとか、 校長室に掲げてある額は土岐自筆のものであるとか、 「へぇー」 とトリビアの泉さながらのことが色々わかってきた。
 再編対象校にはそれぞれその学校の歴史を背負った校歌がある。 プロに頼んでいればその当時でもかなりの額が動いているはずだ。 言ってみれば県民の知的財産であるそれら校歌を再編の下で一刀両断に切り捨ててよいものか、 私には疑問が残る。
 勿論二校が一緒になるのだから、 どちらの校歌を残すかという論議は熾烈になる。 さすればこの本の同窓会常任理事のように面倒な議論はたくさんとばかり、 「新しい酒は新しい革袋に入れよ!」 と叫んでさっさと新校歌を作るという顛末になるのだろう。
 たまたま、 平塚工業の統合相手・平塚西工業技術は統合の三年前から生徒募集を停止し、 同窓会も解散したのでこの校歌を残すことは比較的抵抗がなかった。 校歌を残せと気楽に言うのは統合の紛糾をさほどに経験していないからだといわれればそれまでであるが。
 しかし最低限、 元の校歌の検証はすべきなのではないか。 校歌制定の経緯や真価を調べずに、 はなから 「新校歌」 というのは耐震診断もせずに取り壊しを決めた旭丘高校取り壊しの暴挙に通ずるものがあると思うのだが。  

B 取り壊しの背景
 この本が 「旧校舎保存派」 の立場から書かれたことを念頭においても、 当時の校長・愛知県教育委員会・県議会の行動はあまりにも不可解である。
 耐力度調査はしたから耐震調査はしなくてもよい (この二者はまったく違う)、 予算もないしとする行政、 「旧校舎保存派」 の訴えに対して 「私たちは県政与党だから基本的に知事に協力する」 と全然行政のチェック機能を持たない県議会、 在籍生徒らに会のメンバーとの接触を禁じる学校側……。
 耐震調査の予算がないならと募金で集めた300万を愛知県教育委員会に持ち込めば、 「解体が決まっている建物の耐震調査はできない」 と課長などが追いかけてきて投げかえす始末。 いやはや。 この頑なな態度はどこから来るのか。
 新築30億、 再生リニューアル20億、 この数字が問題なのかも。 オリンピックをやれば建設業界が潤うのと同様な論理が働いているのかもしれない。 事実、 建設業界の関係を暗示する文も本の中に散見する。 確かにこわしてはまた新しくする、 この 「スラップ・アンド・ビルド」 で戦後の日本は発展してきたのかもしれないが。
 堅牢な建物でありながら無惨にも取り壊された旭丘高校に対し、 熊本県では1937年に建てられたゴシック風建築の県立玉名高校を再生リニューアルすることを決めた。 熊本県の住宅課長は言う、 「老人のように、 建物も年齢を重ねれば大事にされ、 尊敬されるべきだ」 と。
 結局、 一番の元凶は 「一旦決めたことを覆すことは面子にかかわる」 という行政側の頑なな姿勢なのだろう。 昨年だったか、 とあるダムの建設を白紙にしたというニュースの中でアナウンサーは 「行政では初めてのケース」 と報じていたが。 まして愛知という県はとても保守的だと聞く……。

 しかし技術が進んだはずの戦後の建物が 「砂の器」 で、 戦前に建設されたものが 「良質の砂とセメントを使い、 相当の大地震に耐えられ、 補強工事の必要なし」 (玉名高校耐震調査結果) とは。
 コストパフォーマンスを喧伝する今の日本の社会が陥っている陥穽がここにある。
(なかやま りつこ 教育研究所員)  
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