キーワードで読む戦後教育史 (8)
技高問題 (1)
杉 山   宏

はじめに
 1963年 4 月 1 日から76年 3 月31日までの13年間、 神奈川県には、 県立技術高等学校 (以下、 技高と略記) と言う学校が存在した。 63年からの先発校 4 校と、 67年から分校が独立する形式で 3 校が各々開校し、 69年以降は、 7 校で入学定員総計1050名を数えるまでになった。 技高創設時の労働部長は 「人的能力に関する答申が示唆している新らしい後期中等教育の構想を現行法規の中でわれわれ流に実現してみせたものである。 人呼んでこれを 奇術高校 という。 しかし、 奇術には、 ごまかしの奇術のほかに工夫と修練による真の奇術がある。 後者は、 時空の芸術の一環として、 人間の体力と精神力が最大限に発揮されるところに成立するものである。 その意味でそう呼ばれるなら、 それはむしろ技術高校に対する無上の賛辞である」 と記している。 技高に対する批判と、 これに応じた当局者の弁の一端を示している。 技高創設に当たっての県教委、 労働部関係者の労を多とするに吝かではないが、 多数の生徒と向かい合い、 生徒と共に学校教育を推進している教師集団の意見をどれだけ聞き入れたのであろうか。 専門職たる現場教師の意見がもっと生かされていたら、 技高が高等学校の形態を取り得ず、 問題山積の中で廃校となって行くことはなかったのではなかろうか。 この学校の在校生、 卒業生で、 教育行政失敗の犠牲者と言える者はいなかったのであろうか。
 世の推移の中で、 一つ一つの現象を綿密に捉えて反省をすることは必要であろう。 選別教育の下で推移した技高が抱えていた諸問題について徹底的検討を行うことは、 明日の神奈川県の教育に生かせる筈である。

(一)
 戦後の六・三制の平等主義的学校制度に再編成を目指す動きが表に出て来たのは、 1951年 5 月 6 日に政令改正諮問委員会が発足し、 戦後体制の再検討を開始してからである。 特に、 同委員会が教育改革案を論議し、 10日12日に教育制度改正についての中間試案が発表され、 11月16日に 「教育制度の改革に関する答申」 を決定してからである。 答申の内容は、 六・三・三・四の学校体系は原則的にはこれを維持するとしながらも、 占領下の教育改革を日本の国力・国情に合わせて是正するという考えの下に、 画一的な教育制度の改正、 職業教育の尊重強化を基本方針とし、 具体的措置として、 中学校・高等学校において、 普通課程に重点をおくものと職業課程に重点をおくものとに分け、 後者には、 中学校では実用的職業教育の充実強化を図るとし、 高校では専門的職業教育を行うとしていた。 また、 高校の総合制・学区制を廃止すると共に、 中学校と高校を統合して 6 (5) 年制職業高校を、 高校と短大を統合して職業教育に力点をおく 5 (6) 年制専修大学を設置するという構想等も出された。 朝鮮戦争における国連軍の兵站基地としての役割を果たした中で必要とされた、 生産性向上や労働力形成に関連した答申であったと言えるであろう。 同月22日に国立大学協会は、 この政令諮問委の教育制度改革案に対し反対の決議をしている。 次いで、 12月22日に東京大学教育学部関係教授等15名が連名で、 「いわゆる政令改正諮問委員会の 「教育制度改革に関する答申」 に対する意見」 を発表した。 発表文は 「われわれ有志の者はこの答申を検討し黙過してはならないものがあると認め、 ここに批判的見解を表明する」 として、 「この答申には、 その表現と実質との間に大きな食い違いがある。 現行学校体系は、 原則的にはこれを維持すべきだといいながら実際はこれを大きく崩すこととなつている」 「これからの日本人がいかにあるべきかという、 教育にとって基本的な問題を無視している。 財政緊縮の要求から、 すなわち教育外の観点から、 教育を節約の対象としてのみ扱っているように見える」 と、 半世紀以上経った今日でも、 そのまま当てはまるようなことなどを含んだ 9 項目の意見を掲げていた。
 教育刷新審議会も、 この政令改正委の教育改革案に対して懸念を明らかにし、 同改革案答申前の11月 8 日に 「中央教育審議会設置に関する声明」 を発表した。 即ち 「伝えられる政令諮問委員会の教育改革案は、 わが国の教育上、 幾多の重要な問題を含んでおり、 にわかに、 賛意を表しがたい。 政府は、 今後さらに、 中央に、 教育のための恒久的な審議機関を設け、 教育刷新の基本精神を堅持して、 慎重に審議すべきものと認める」 としている。 教育刷新審議会は、 自己の後継機関になると考えられていた中央教育審議会 (以下、 中教審と略記) に、 声明の形式で、 政令改正委案批判の趣旨を伝えたが、 57年 6 月 6 日に設置される中教審は、 形式的には教育刷新審議会の後継組織というかたちを採りながら、 審議会自体の動きは、 政令改正委の方針に添うかたちを採り、 以後の文部行政に大きな影響を与えた。
 52年10月16日の日本経営者団体連盟 (以下、 日経連と略記) により 「新教育制度再検討に関する要望」 が発表され、 社会人としての普通教育を強調する余り、 職業乃至産業教育の面が等閑に付されているとし、 実業高校の充実、 新大学制度の改善を求めていた。 更に、 日経連から、 54年12月23日に 「当面の教育制度改善に関する要望」 が出された。 この要望は、 「六・三・三・四の新教育制度を一応是認する観点からしても、 小・中学における勤労尊重の気風育成、 (中略) 高校・大学における専門教育の充実徹底を図り、 わが国企業の経営の実態、 殊にその大部分を占むる中小企業の要請にも充分応え得る学校制度、 学校計画、 教育内容、 学校施設等について一段の工夫と改善を加え、 併せて教育行政の根本的刷新を断行することを要望する」 とした後、 大学における法文系偏重の不均衡を速やかに是正すること、 大学の全国的画一性を排除すること、 専門教育の充実を図ること、 中堅的監督者職業人を養成すること、 教育行政を刷新強化すること、 学歴尊重の弊風を是正すること、 を列挙している。 そして、 一部新制大学の年限を短縮し、 或いは、 短大と実業高校との一体化で、 5 年制専門大学とする。 また、 一部中学校と実業高校を一体化し、 6 年制職業教育の高校制を採用する。 として実務教育の徹底を要望していた。

(二)
 55年10月に左右社会党が統一を果たし、 11月に保守合同大会が開かれ自由民主党が成立し、 所謂 「55年体制」 が発足した。 しかし、 この時点ではまだ 「体制」 と言うほど強固なものではなく、 56年〜57年の神武景気、 58年〜61年の岩戸景気をからの高度経済成長が更に続く中、 自民党政権の基盤づくりは進められていった。 この間、 政府の教育界への対応は、 56年 6 月に地教行法が強行可決され、 やがて教育委員の任命制への転換となった。 一方、 同56年10月には文部省令による教科書調査官制度新設と中央指導型の文教行政を採り、 また、 この56年秋頃から起った教職員に対する勤評を、 57年 9 月には全国的に実施すると文部省が明言し、 更に、 58年10月には小中学校学習指導要領を官報に告示して国家基準性を強化していった。
 その間、 産業界にも産業教育の在り方を求めて、 更に、 新しい動きが出て来た。 56年11月 9 日に日経連は 「新時代の要請に対応する技術教育に関する意見」 を発表している。 同意見は、 技術者・技能者の計画的養成教育を挙げ、 工業高校の充実、 勤労青少年の技能教育の刷新などについて計画実現の必要さを述べている。 勤労青少年の技能教育の刷新を訴え、 企業内の養成施設の拡充を図るとともに 「養成工の向上心に応えるため、 必要により定時制高校・通信教育とも結び付け、 高等学校修了の資格を付与する道を開いておくことが望ましい」 とし、 更に 「企業の青少年従業員が昼間職場で労働しながら毎日夜間に普通課程の高校へ通学する定時制高校の現状は、 地域的業種的に特殊な場合を除いては、 一般的にいって職場の能率の見地からみても、 また本人の健康の見地からみても、 決して望ましいものではない。 したがって昼間の職業をもつ青少年に対する定時制教育は、 労働と教育とが内容的に一致するように、 普通課程よりも職業課程に重点をおくこととし、 また現在通信教育は普通課程のみ実施されているが、 これに職業課程を加えこの職業課程の通信教育を多分に採り入れて、 定時制・通信教育いずれでも随意に履修し得ることとし、 定時制通学の負担を軽減すべきである」 と勤労青少年の通う高校の在り方について述べている。
 また、 初級技術者及び監督者養成のための工業高校の充実を訴え 「@産業界は主として中級技術者の補助者たる初級技術者および、 現場作業の指導に当る第一線監督者としては、 技能者出身の適任者を訓練する外、 工業高校の卒業者を採用しこれを職場において養成しているが、 高校においても大学と同じく普通課程と職業課程との間に均衡を失し、 工業高校卒業者の数は定時制を含めても現在年約 5 万にすぎず、 今後産業の需要を充足し得ない状況にあるので、 普通課程の高校はできる限り圧縮して工業高校の拡充を図るべきである。 A工業高校の教育内容については、 学校所在地域の産業の特色を充分に考慮し、 必要な知識と技能を授けるばかりでなく、 産業人としての人格教育・躾教育にも力点をおくべきである。 戦後の工業高校生は技能においても基礎知識においても甚しく不充分であるが、 これは主として年限が 3 年であること及び教職員の資質の低下に因るものである。 従つて、 効率的な初等技術数育を行うため、 中学校と結びつけて 6 年制とし、 一貫した教育を行い得るような道を拓く必要があり、 また教職員の資質の向上を図るため、 その再教育・人材交流等を行うとともに、 学科と実習とが相互密接に関連して一貫的な教育を授けるように配慮することが特に必要である。 B工業学校の実習施設については、 職場の設備に比して甚しく遜色があるので、 産業教育振興法を再検討して質量ともに内容の充実を図ることが肝要である。 生徒の学外実習は現状では一般に困難であるが、 教職員の国内現場留学と産業界からの講師派遣については、 産業界として協力に吝かなものではない」 と、 その後の教育界で問題になったことと共通することが幾つか挙げられている。
 翌57年 4 月27日、 灘尾文相が 「科学技術教育の振興について」 中教審に諮問し、 これに応じて、 11月11日に中教審は、 「科学技術教育の振興方策について」 を答申している。 同答申は、 4 項目から成っており、 その内 「高等学校および中・小学校における科学技術教育について」 の項では、 「高等学校および中学校の卒業者は、 上級学校へ進学する者と直ちに職業または家事に従事する者とに分かれる。 進学者については、 特に基礎学力の向上が望まれ、 就職する者については初級の技術者・技能者としての資質の向上が切望されている。 このためには、 高等学校および中・小学校を通じて、 基礎学力ないしは科学技術の基礎である数学 (算数)・理科教育等を強化するとともに、 高等学校においては産業教育、 中学校においては職業に関する基礎教育を強化する必要がある。 しかして、 数学・理科教育および産業教育の実施においては、 生徒の進路の多様性に留意して、 その志望と能力に応ずる指導がなされることが必要である」 と、 一応但書きはついているが、 中教審自身が高校・中学校で進学者と就職者を区別して授業を行えとしていた。
 この諮問と答申の間における10月22日に、 中央産業教育審議会は、 中堅産業人の養成について建議している。
 次いで、 12月25日に日経連が 「科学技術教育振興に関する意見」 発表しているが、 政府の科学技術教育の振興策を評価しながら、 「初等中等教育制度の単線型を改めて複線型とし、 中・高等学校において生徒各人の進路、 特性、 能力に応じ普通課程 (必要により、 さらに人文系と理工系) と職業課程に分けた効果的能率的な教育を実施すること」 「中・高等学校を連結した 6 年制の職業教育の早期実現を図ること」 等、 戦後の六・三制教育を否定する要望を強力に政府に突き付け、 小・中・高校の理数科および職業教育、 大学での科学技術教育に対し、 強力な予算措置を採ることを要望していた。
 58年 4 月28日、 中教審が 「勤労青少年教育の振興方策について」 を松永文相に答申している。 この答申において 「教育内容や教育方法の改善にあたっては、 青少年の職場における一定の作業を教育機関における学習の一部と見なすような方向を促進する必要があり、 またこのような教育を容易にさせるとともに、 勤労青少年教育機関の増加を図るため、 教育機関の種類によっては、 その設置者のわくを広げることも必要である」 「短期の技能教育の整備拡充を図るため、 別科を改め、 新たに高等学校の正規の課程として短期間に集約的に技能教育を施す課程 (産業科を含む) を設けること」 等、 戦後の教育の在り方を大きく見直すような提言をしてきた。
 同日、 国公立の高校教員に支給していた産業教育手当の範囲を、 従来の農業・水産に係る者から工業・商船に係る者に、 また実習助手に広げた。
 59年 3 月17日に専科大学法案は、 衆議院で可決した。 (参議院で審議未了で廃案)
 10月 7 日に中央産業教育審議会が 「高等学校における産業教育の改善」 について、 松田文相に建議している。 同建議は、 農業・工業・商業・水産・家庭に関する教育で、 中堅産業人の計画養成を図る必要を提議しているが、 「これとあわせ、 定時制教育、 短期産業教育を含めたさらに広い勤労青少年職業技術教育の制度の改善を、 早急に具体化すべきである」 と後期中等教育の多様化を求めていた。

(三)
 60年 5 月19日、 自民党は衆議院本会議場に警官500人を導入して、 新安保条約批准案を単独で強行採決し、 激動の 1 ヵ月に突入した。 次いで、 6 月19日午前 0 時、 33万人のデモ隊が国会を包囲する中で、 参議院の議決のないまま条約は自然承認された。 そして、 7 月15日に岸内閣は総辞職し、 19日に池田勇人内閣が成立している。
 同年 7 月10日付の朝日新聞は 「財界ではかねて経営や技術の近代化をはかるため産業界と学界が協力する 「産学協同」 運動を推進してきたが、 経済同友会では最近の国会デモなどに示された学生運動を重視、 学生を資本主義陣営に引きつけるため 「産学協同」 運動を足場にして財界が学生に対して強力な働きかけをすべきであるとの意見が高まってきた。 このためこれまでの 「産学協同」 を政治的社会的な意味を含めた、 より広い視野から再検討することになり、 近くその具体案を立てることになった」 「健全な民主主義を育てるためには、 良識ある中間層が安定した一つの社会勢力として育てねばならない。 とくに学生層はそのような中間層の中核体として育っていくことが期待される」 と経済同友会の 「産学協同」 運動について記している。 経済同友会は、 46年 4 月に戦後の日本経済の民主的な復興・再建を目標として設立された財界人の団体で、 比較的進歩的乃至修正資本主義的傾向と言われていた。 日経連に続き経済同友会も日経連とは異なった立場から行動してきた。
 10月25日に経済審議会教育訓練小委員会は、 経済成長と人間能力の開発活用とに関して 「所得倍増計画にともなう長期教育計画」 を発表した。 「人間能力開発政策の中心となるものは教育訓練である」 「将来、 職業訓練、 各種学校などの各種の教育訓練についても中等教育完成の一環とすることに資するような政策が必要である」 等とした後、 「経済分野から見た人間資源の浪費」 「政府のとりあげた人力政策」 「将来の社会経済の発展に対応する人間能力開発政策の主要問題」 「教育訓練政策」 「産学協同体制の確立」 の諸問題を取り上げ述べているが、 最後の、 産学協同体制の確立では、 「教育と訓練はそれぞれの目的を異にしており、 方法的に差異があるばかりでなく、 これらに適する環境の上でも異なるものがある。 しかし、 青少年の将来の社会生活を営むためには両者はともに必要なものであって、 互いに緊密に協力し得るような道を開くことが必要である」 とし、 このような観点から定時制高校と職業訓練制度との連繋の形を打ち出している。 「中等教育の一環として青少年にたいし、 高校教育と職業訓練の二重の負担を軽減するための能率的な運営を行ない高等学校教育と技能訓練との協同をはかること、 さらに才能ある技能者に技術者への道を開くべきである。 また、 組織的技能訓練を受けたものにたいする進学資格などにかんして検討を行ない、 このため関係諸官庁間の協力を緊密化する必要がある。 今後、 労働時間は短縮に向かうものと考えられる。 勤労青少年が昼間固定的に通学できるためには時間短縮や特別休暇制度を利用させることも可能である。 このことは青少年の厚生保健上からも好ましいと考える」 とし、 若年労働者の昼間定時制高校への通学案を打ち出している。 技高に通ずるものもあったと言える。
 また、 11月 1 日、 経済審議会は池田首相に 「人的能力の向上と科学技術の振興」 を答申している。 同答申は 「教育訓練について、 さらに今後重要となることは産学協同であって、 教員、 指導員の充足のために民間技術者、 熟練技能者との協力体制ならびに学校教育と職業訓練との連繋の促進を図ることが必要である。 他方、 青少年の就職に当たっては、 自己に適した職業を選択し、 自己の能力を十分発揮できるよう職業指導を普及強化することが、 人間能力の活用にとって重要な手段であることを忘れてはならない」 「この際、 中等教育の完成は高校教育によってのみ達成されるべきものではない。 将来は職業訓練、 各種学校等の青少年に対する各種の教育訓練を中等教育の一環とすることに資する政策を確立することが必要である」 と学校教育と職業訓練との連携を唱えており、 各種の教育訓練を中等教育の一環とするという考えも採り入れられていた。 池田内閣が同年12月27日に閣議決定した 「国民所得倍増計画」 に、 上述の経済審議会の答申も影響を与えたと思われる。
 同年11月14日、 関西経済連合会が 「大学制度改善について」 と題する意見書を文部省・中教審へ提出したが、 大学教育制度が産業界の要求に不適合であるとし、 ここでも 「高校 3 年に短大 2 年を直結する 5 年制の一貫した。 しかも旧高等専門学校のごとき性格の技術専科大学を設置することは急務である」 と述べている。
 更に、 12月 8 日に日経連技術教育委員会は 「専科大学制度創設に対する要望意見」 を出しているが、 この相次ぐ経済界の自己中心の要望を、 以下、 この 「要望意見」 の全文で見てみる。 「経済界における企業の人的構成は通例ピラミッド型をなしており、 戦前においては技術者は初級技術者については工業学校卒、 中級技術者については工業専門学校卒、 上級技術者については大学卒をもって、 それぞれ充てられていた。 しかるに戦後は、 工業専門学校がすべて大学に昇格したため、 工業高校卒は将釆の初級技術者として、 大学卒は将来の上級技術者として採用され、 中級技術者となるべき者が空白の状態となっている。 われわれはこの産業界における人員構成上の空白を埋めるためには、 現在の短期大学のうち、 専門職業教育機関の実を備えるものについては、 高校の課程を合せて修業年限を5 年とする専門大学に改める必要のあることを、 さきに要望した。 政府においては、 三たび専科大学法案を国会に提出したが、 国会においていずれも審議未了におわり、 いまだ成立をみていないことは、 まことに遺憾である。 われわれは、 現在の短期大学全部を専科大学に改めることを要請するものではなく、 産業界で必要とする将来の中級技術者となるべき者の教育機関であるものについてだけ、 新しい制度に転喚することを期待しているのである。 産業界における技術者の払底がますます痛切に感ぜられるおりから、 その供給をすべて 4 年制大学に期待することは財政上に難点があり、 かつ時日を要するので、 そのうち相当の部分を専科大学に求めることはきわめて妥当であり、 かつ実際的である。 よって、 われわれは政府ならびに国会が速かに専科大学制度創設を実現されんことを、 要望してやまない」 とある。
 翌61年 4 月27日に文部省は、 初等中等教育局長と調査局長の連名で 「昭和36年度全国中学校一せい学力調査実施について」 (文調調第25号) を各都道府県教委教育長宛通知した。 この一斉学力調査は中学校 2・3 学年の生徒を対象にした悉皆調査であり、 前述の 「人的能力の向上」 に関連した 「人材開発テスト」 であって、 経済成長政策の一環に教育政策が組み込まれていったものであった。 この学力調査 (学テ) は同年10月26日に行われたが、 以後、 年々教育現場の生産効率測定コンク−ルの様相を呈し、 「学テ日本一」 を目指す県が現れ、 県教委が学力調査の結果を基に学力向上対策を打出し、 それを基礎に学校運営が行われることもあった。 学テの成績向上のため、 生徒への締め付けが強く行われた県は、 勤評闘争で教組が打撃を受けた県に多かった。 勤評 学テという教育界の路線と、 将来の熟練労働者確保のため若年労働者に一応就学の機会を与えるという産学共同路線とは同方向を目指すものであった。 結果的には選別教育に繋がり、 技高開校への中央の体制は造られつつあった。
(すぎやま ひろし 教育研究所共同研究員)
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