教育討論会を振り返って
 
本間 正吾

 今年度のシンポジウムを開くにあたり、 研究所ではその形式を少し変えてみた。 これまでは外部から講師を招きその話を中心にシンポジウムをすすめてきた。 今回は研究所員だけで問題提起をおこない、 フロアーからの発言をできるだけ多く引き出して討議を進める討論会形式を試みてみた。 じっさい記録を見て分かるとおりフロアーからは数多くの発言があり、 しかもそのひとつを取り上げてみても、 長時間の討議を要するほど内容の濃いものであった。 フロアーから発言を引き出すという点では成功したと言えるだろう。 しかし、 時間の制約とコーディネートする側の準備不足もあり、 十分に討論を尽くすまでにはいたらなかったことが反省点として残る。 おそらく参加した方々には不完全燃焼という感想をもたせてしまったのではないか。 この点は工夫していかなければならないだろう。
 フロアーからの活発な発言の背景には、 教育現場がおかれている困難な状況がある。 いままであった学校が次々に 「統合」 の名のもとに消え、 度重なる改変によって入試制度も大きく変わってきた。 教育現場に対する管理強化の動きは業務内容の細部におよび、 さらに日々の教育実践にまで立ち入ってきている。 しかも教育行政に一定の枠をはめてきた教育基本法も、 このシンポジウムと時期が重なるようにして変えられることになった。 こうした一連の変化が、 「教育改革」 というおおざっぱな言葉によってひとくくりにされている。 その行き着く先が明確に説明されることはない。 ただ教育の危機が連呼され、 「改革」 と名づけられる様々な事実が積み重ねられていくだけである。 そして現場は日々多忙になり、 授業の準備や生徒との対応に費やす時間もなくなっていく。 こうして現場のいらだちと閉塞感が生まれる。
 そもそもいま進められている 「教育改革」 の本質は何か。 最初の問題提起者の佐々木は 「教育心性操作」 という言葉をつかって本質を解き明かそうとする。 「(教育基本法) 改正案の中にいくつか心を変えようとするような操作があるのではないか、 あるいは民心を安心させようとする要素があるのではないか」。 何か事件があれば教育に原因を求める。 不愉快な出来事があれば、 教育力の低下を嘆く。 教員の資質が低下している。 家庭の教育力が低下している。 怠惰な生徒を放置している。 だから教育を 「改革」 しなければならない。 教育が 「改革」 されればすべてが解決するはずだ。 こんな幻想がばらまかれている。 ここには現状の冷静な分析も、 現場の実態に根ざした提言もない。
 では 「教育心性操作」 によって何が覆い隠されているのか。 二番目の問題提起者の本間は全国的な経済格差の拡大を指摘した。 地域間の格差、 地域の内部での格差、 この二つの格差が重なりながら拡大している。 そんな中で希望を失う若者が増え続けている。 これは一部の地域に限られた現象ではない、 大都市圏も含め全国的に広がっている現象である。 フロアーからは、 経済・社会構造の変動についてグローバリズムの視点から論ずる声があった。 「新自由主義で自由なのは多国籍企業だけだ」。 教育現場の視点からは、 格差社会の最底辺に位置づけられた定時制高校生の深刻な状況の報告、 あるいは課題集中校における切実な状況を訴える発言が続いた。 社会全体を格差の拡大がおおい、 教育の場に深刻な影を落としている。
 さらに 「教育改革」 は教育の 「民営化」 へと突き進もうとしている。 三番目の問題提起者の金沢はこの問題について報告した。 学校の公設民営化の動き、 株式会社による学校開設、 あるいは政府の設置した教育再生会議からも聞こえてくる教育バウチャー制導入の動き等々、 市場化、 民営化の動きは急である。 教育の場に 「民営化」 を導入することにどんな意味があるのか、 それが何を結果するのか。 その議論もないまま事実だけが先行し、 教育の世界におけるビジネスチャンスだけがつくられていく。 金沢は海外の先行事例を紹介しながらその危険性を指摘する。 教育の場における 「民営化」 が教育の格差をもたらし、 さらには 「採算に合わない生徒」 を切り捨てる結果にもなっていることは、 数々の先行事例がすでに教えていることなのである。
  「教育改革」 はとどまることなくむしろ加速して進んでいく。 そして 「教育改革」 の進行とともに事態はさらに深刻になっていく。 フロアーからは教育を支えてきた学校文化が破壊されているのではないかという発言もあった。 授業崩壊の現象が中堅校においても広がりはじめているのではないかという指摘もあった。 この背景には消費者としての保護者・生徒の要求の高まりが考えられる。 教育の場への市場原理の導入は、 生徒・保護者と教員を教育サービスの消費者と供給者として単純化する。 この単純化が教員のおかれている状況を困難なものにしている。 ただし、 教員だけが追いつめられていると考えてはならない。 働きにくさ、 生きにくさは、 いま社会全体に広がり深刻さを増している。 じっさいエリートと呼ばれるような人々の間にさえ、 精神疾患は増えている。 そんな声もあがった。
 ここから抜け出す道はあるのか。 世の中の悪しき現象の原因を教育の劣化に求め、 教育の枠の中に押し込んで社会問題を解決しようとする道、 これは集会の最初に 「教育心性操作」 と名づけた手法である。 この道からは決別しなければならない。 教育現場がいま抱え込んでいる問題は、 経済・社会の構造の全体的転換の中でしか解決できない。 討論の中であったワークシェアリングの提起もその視点にたつものだったといえる。 だがワークシェアリングひとつをとってみても、 その実現は容易ではない。 あるいは退職者の活動に期待する声もあった。 たしかに退職者の活動は社会を変えるひとつの力になるだろう。 だが、 それがどれだけの力になるかは分からない。 問題の大きさ解決の困難さの認識こそ、 この集会において共有された認識だともいえる。 困難さを認識した上で道を探さなければならない。 フロアーからはこんな声もあった。 「「何のために学ぶのか」 という原点に帰った形で訴える力を私たちが持たないと希望なんてどこにも出てきません。 待っていたって出てくるものではありません」。 少なからざる数の人々が問題の所在に気づき、 小さくとも実践を重ねていくところに希望は残る。 今回の討論集会で聞くことができた声、 現場にねざした率直で切実な声をこれからも絶やさないことが、 迂遠ではあるが希望へと通ずる道を開く手がかりになるのだろう。

(ほんま しょうご 教育研究所員)
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