バトンリレー 研究所員による 「書評」
「自律と協働、はたらきがいをもとめて」大阪市現業労働者の60年
鎌田 慧 著 七つ森書館
武 田 麻佐子

■ 高賃金を得ること=幸福? 賃金は高いに越したことはないと思うのが人の常であろうが、 高賃金=幸福かと聞かれれば、 その答えは 「否」 であろう。 自分の労働がどのように社会に関わっているのか? 人間らしい生活が成り立っているのか? そのようなことを考えずして 「幸福」 はありえない。 「幸福」 とは、 楽で苦労のない労働・遊ぶ金と時間のある 「ゆとりある生活」 だけを意味するものではあるまい。 もちろん私も、 遊ぶこともお金も好きだ。 しかし、 自らの労働の質を考えることなく、 また、 他の労働者と繋がることなく、 低労働時間・高賃金を得たいとは考えない。
 こうしている間にも拙速に進んでいる教育・労働政策、 そして憲法改悪の気配。 そんな今、 1 年ほど前に出版された本書をもう一度読んでみた。 テーマは、 大都市の現業労働者の 「コミュニティ労働」。 自らの仕事が市民の生活といかに結びつくかを考えた、 現場から築き上げた労働だ。 官と民は敵対する関係なのか、 公共サービスは経費削減のため民間委託されてしかるべきなのかという問題について考えさせてくれる。

■ 現場を知るからこそできる工夫 大阪市従業員労働組合は、市民のサービスを自分たちが担っているというプライドを持って行動を行ってきた。
 組合役員経験者は本書のインタビューで語る。 「頭から命令されて、 あてがわれた仕事だけをね、 フンフンフンフンいうて甘んじて受けて。 出勤さえしてりゃハンさえ押してたらエエと。 それでもう家帰って、 一杯飲んで。 こんな、 生活はナンボ現業といえどもね、 こらアカンと。」 「仕事そのものにたいして現業員そのものがもっとやる気をだす、 っちゅうんかな。 熱意をもついうんかな。 工夫するいうんかな」 そんな気構えで組合の青年部活動に関わったという。
 別の経験者も言う。 「現場の仕事っていうのは、 現場の目でみつめて、 政策的にそれがエエかどうかっていうことを、 住民のために活かしていける。」 「市役所にはいってから退職するまでおなじことばっかりでね。 モノかんがえんでもエエという。 要するに知る権利さえあたえられていないんですね。 それでは人間的失格の問題にもなるわけですから。 やっぱり生きがい、 人間として生きがいをもつことのほうがいい仕事ができる。 その一方で職業差別の解消にもつながっていく、 とぼくはそう思てきたんでね。」
 この労組ではそれぞれの分野で、 労働の質を考えた取り組みをすすめたという。
 たとえば清掃部門では、 必要に応じて各住居まで行き収集する。 そこで高齢者から話を聞くこともある。 耳の不自由な人から 「こんにちは」 と言われても意味が通じないと指摘され、 新たな問題に気づくこともある。 収集場所で一気に集めることよりは、 労働負荷は増すだろう。 しかし、 それ以上に声をかけ、 かけられることによって作業者の仕事への誇りが生まれてくる。 そして、 「ごみと社会」 という子ども向け副読本を作り、 学校へ行ってパッカー車の体験をさせる。 子どもたちはゴミや環境を考える一歩を受け取るとともに、 職業差別の意識も持たなくなる。 子どもが変われば、 たぶん大人も変わり、 地域も変わるのだろう。 さらには救急救命講習を受け、 作業中に地域で万が一のことが起れば対応しようという取り組みもおきている。
 地域とつながった労働は、 市民から受け入れられる。 筆者は市民と公務員は敵対する関係ではなくともに地域を作っていく関係ととらえる。 大阪市従のとりくみには労働者の負担増という点からどのように考えるべきかという議論もあるだろうし、 現在のきわめて感情的な公務員バッシングがそれで解消されるのかも議論のあるところだ。 しかし、 自治体職員と市民が相互に関わりながらどのような街づくりをするのかという発想は、 新しい地域自治への道であり、 人が人らしく生きるための根本でもある。 そして、 人件費削減という視点のみのサービスの民間委託とは相反する、 行政の仕事の再構築となる可能性にもつながる、 と読みながら考えた。
 著者は、 かつてトヨタの工場内に身を置き 「自動車絶望工場」 などを著したライターだ。 従来、 労組のテーマの中に 「賃上」 げはあっても、 職場での自分たちの仕事がどうなっているか考える視点が弱かった、 と彼は言う。 大阪市従が自主管理・協働・連帯・自律と言うテーマをどう作ってきたのかの興味から取材を進めたようだ。 その経緯を引き出すインタビュアーの力に引き込まれ、 あっという間に読み進んでしまった。

■ 若者の心に響く労働教育を 一方で学校にも思いをはせた。 「キャリアガイダンス」 「家庭の教育力」 「地域連携」 等のことばが、 教育政策の中にあふれ、 人々は、 あたかもそれらが、 教育問題を解消し、 ニートやフリーターも生じない社会、 若者の前向きな姿を見せてくれるという錯覚に陥っている。 だが、 現実はそんなに簡単ではない。 人々が若者に抱く不信感は根強いし、 その元凶は学校教育や家庭教育だけにあるのではない。 おそらくこれからもひっきりなしに新しい教育 「問題」 が発生し、 新しいキーワードがマスコミをにぎわし、 教育政策が上から下へと打ち出され、 学校はそれに振り回されるのだろう。
 労働教育は必要だ。 しかしそれは今 「キャリア教育」 という語で提唱されているインターンシップ、 社会人による講座、 適性検査……等の実施だけなのだろうか。 成果は就職内定率を示した数値が上昇することなのだろうか。
 若者が、 どんな仕事であれ誇りを持って働けること、 働くことは社会と自分がつながることだと実感できること、 働く中で生じる問題を解決していく力を持つことが重要なのではないだろうか。 その際に、 それぞれの労働の質を自らが問うことができるようになることは必要不可欠だろう。
 そもそも、 今、 大人は自分の仕事に喜びを持つことができているだろうか? 「職業に貴賤はない」 と言いつつも、 できれば 「ホワイトカラー」 的な職業や給与の高い職業につくことをよしとする風潮はないのだろうか。 偽装・粉飾・不正隠しが露見し、 毎日のように謝罪会見が行われる中で、 皆、 「評論家」 となって厳しく他人を追及する。 その様なことが起こりうる社会を構成しているひとりの人間としての自分を思い浮かべることはなく……。 そして、自分の労働の中に含まれているであろう 「危うさ」 に思いをはせることもなく……。
 ノスタルジックに昔の若者は希望を持っていたというつもりはないが、 若者が自分の未来に希望を見い出せない、 額に汗して働くことに意義を見い出せない、 現代社会のゆがみは私にも感じられる。 自分の人生を自分らしく生きることが許されない大人の姿、 人が疎外感を感じざるをえない社会を見せつけられて、 大人になることや働くことに違和感や恐れを抱くことは当然の帰結だ。
  「スロットで稼げれば就職しなくてもいいのになぁ。」 「公務員は楽でいいよね。」 「手取り多いでしょ。 いくら?」 日常的に高校生から発せらる言葉である。 このような声に、 働くことは義務だ、 フリーターよりも安定した就職をしろ、 公務員の仕事も様々な局面があり楽とは言えない、 生活費は個人のプライバシーなのでやたらに聞くな、 といくら説明しても彼らの心に響かない。 人は自己の労働の質を問い変えていくことができること、 社会の中で自己の位置を確認できること、 働くことは義務であるばかりでなく権利であり生きがいであることなど、 を大人が見せていくことしか、 彼らの思いに答えることはできないのではないだろうか。
 抽象的に聞こえるかもしれないが、 労働教育の意義もまずそこに位置づけた上で、 具体的な学習内容を組み立てるべきではないかと本書を読みながら考えた。
  (たけだ まさこ 教育研究所員)
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