学校の公益性とCS (顧客満足度)
「民間出身校長に聞く」 を読んで

 
石川 徹

はじめに

 本県ではじめての民間出身校長を迎える現場 (神奈川総合産業高校:旧相模台工業高校) のおおかたの受けとめ方は、 期待と不安の入りまじった、 かなり複雑な気分のものであったと思う。
 期待の部分は、 「校長が変われば学校が変わる」 というほどではないにしても、 ともすればマンネリに陥りがちな学校現場に新風を吹き込み、 「活」 を入れてくれるかもしれない、 内部にいては見えない学校の抱える問題点を外部の視点から指摘し、 学校運営ひいては教育活動に新たな可能性を指し示してくれるかもしれない、 さらに、 外部の人々が学校に期待していることは何であり、 その実現には何が必要か (不足しているか) を指摘してくれるかもしれない、 自動車産業という我が国を代表する経営の第一線からの校長故、 専門高校である本校のカリキュラム編成、 技能教育やキャリア教育への新機軸の導入もあるかもしれない等々…であったろう。 インタビューの中でも触れられているが、 氏が校長登用試験で提出された論文のテーマも 「(学校という) 組織を運営するにはどんなことをやったらいいのか」 というものであったという。
 一方、 不安の方はといえば、 期待の部分の裏返しになるが、 仮に企業経営のノウハウをそのまま学校 (教育) という世界に持ち込まれると、 学校現場は相当混乱するのではないか、 学校は企業とは明らかに異なる理念と価値観 (宮原氏の言葉でいえば 「組織としてのミッションとビジョン」 がこれに相当する) にもとづいて組織されており、 公立高校という教育現場の特殊性をどれだけ踏まえ、 理解して学校運営にあたってくれるのだろうか、 これまで学校現場が長年にわたって培ってきた慣行や経験則はどう扱われるのだろうか等々…であったろう。
 まして、 神奈川総合産業高校は全くの新設校ではなく、 現に在籍している多数の旧相模台工業高校の生徒を全日制は 2 年間、 定時制にあっては 3 年間抱えながらの再編・移行である。 在校生に対するカリキュラム保障と進路保障を現有のスタッフで遺漏なく完遂しながら、 その同じスタッフの力に依拠しつつ総合産業 (全) と総合学科 (定) へ移行するという、 ほかの再編校にはない困難を抱えての船出であった。 現場の教職員にとっても将来への不安や業務上の負担は相当なものであった。 とりわけ、 「新校基本計画」 では工業科 (機械、 電気、 化学の 3 科) の廃止が既定路線であっただけに、 工業科職員にとっての新校移行は極めてナイーブな問題であった。 校長をはじめとする管理職には、 教職員全体に対する丁寧な説明の実施と、 教職員全体の共通理解を常にはかりながらの全校的な協力体制の確立に万全の意を用いる慎重な運営が求められていた。
 宮原氏が置かれたそうした客観的な諸事情も踏まえた上で、 民間出身校長としての学校経営論・教育論を中心テーマとする興味深いインタビュー記事に対する私なりの感想を 2, 3 述べさせていただきたい。
 なお、 筆者は 5 年半前から神奈川総合産業高校の定時制に所属しており、 新校移行の経過についてはおよそ把握できていたが、 新校移行準備委員会にはタッチしておらず、 まして全日制の内部のこととなると全くの門外漢であったことをお断りしておく。 また、 筆者は、 宮原校長が、 結果として任期の半ばで退任されるに至った事情についてもつまびらかでなく、 その突然の退任には驚かされ、 「なぜ」 という思いを抱いたことも合わせて言っておきたい。

1.CS (顧客満足度) から見た学校と企業
 まず最初に宮原氏の学校論 (教育論) について感想を述べたい。
 氏はインタビューの冒頭のところで、 学校をサービス産業の一種ととらえていることを表明された上で、 サービス産業である以上CS (顧客満足度) が何より重要であり、 それをどれだけ向上させることができるかが学校運営のキーポイントであるとされ、 「生徒、 保護者、 進学先、 就職先、 地域の方々に満足していただけるような学校運営をしたい」 とその意欲を表明されている。 インタビュアーの 「お客様の満足と言っても、 一般の商品と違って、 教育の場合は、 その場では判断できませんよね」 との問には、 「確かに正確な教育の成否の判断はその場では判断できない。 正確な判断は死ぬ直前、 50年位はかかる。 でもそれでは (企業としては…筆者) 長くかかりすぎるので、 評価サイクルを 5 年後、 10年後位に短縮して、 その人の生き方の方向性が大体固まる28歳頃までを見て (満足達成度の…筆者) 指標とすることは可能ではないか」 と答えておられる。 また、 インタビュアーの 「企業の満足と学校が提供するサービスは異質だと思われるのですが…」 とのさらなる問には、 10年後の教育の成否を見定める長いスパーンの評価だけでなく、 大事なのは顧客 (生徒や保護者、 そして企業) に対しどういう気持ち (マインド) で接しているか、 「教師然」 とした居丈高な態度で接してはいないか、 いわゆるマインドの問題が大事だとも答えておられる。
 確かに、 生徒や保護者に対する教員の接し方に関するかぎりではそのとおりである。 昨今、 相当改善に努力が払われているとはいえ、 われわれの中に、 まだまだ 「教えてやっているんだ」 式の 「顧客」 を見下すような態度や意識が皆無とはいえない現実が残っていることは否定できない。 そうした態度や意識は一刻も早く克服されなければならない。 しかし、 ここで問題にされているCSとははたしてそのレベルのことだろうか。 そうではあるまい。 学校が提供する教育の中味そのものがどうなのかが問われるべき中心であろう。 この点については、 宮原氏は新校スタート時、 「学校経営の考え方」 を全職員にレクチャーされた中で、 管理職がミッションとビジョンを策定し、 それに基づいて年度経営計画 (=学校目標…カリキュラム等もここに入るものと解される) が作成され、 これを受けた教員各自は 「授業品質」 の向上に日々努力し、 学習の主体 (生徒) の支援者として、 すべては生徒のためにという価値判断で教育にあたることが求められると述べられた。 一般論としてはそのとおりである。
 宮原氏が提示された (民間企業では当たり前の) CS (顧客満足度) という概念は、 これまで県立高校の教員があまり意識することのなかった概念であり、 新鮮で耳新しく、 私たち現場教員が目を開かされるところも少なくない。 ただ、 その核心をなす教育の目標、 教育の内容 (カリキュラムと授業)、 そしてその評価ということになると、 宮原氏も 「10年後の想定評価にもとづいて学校がよしとする教育を実施していく以外にない」 ととどめられているように、 容易には解を導き出せない難問である。 教育活動の結果としての知識や技能の修得と学歴・資格の付与、 さらにその総合結果としての進学及び就職実績。 学校生活を通しての道徳やマナー、 社会規範などの修練と習得、 価値観や世界観、 人間観の確立 (いわゆる人格の陶冶といわれてきたもの) など教員個々にとっても難題なことなど最終的には生徒自らが獲得していくものであるにせよ、 生徒と学校 (教員) とは無関係ではない。 学校が教育という名のもとに日々ルーチンワークとして行っている行為 (授業) は、 必ずしも目に見えるものや数値で計れるものばかりを内容としているわけではない。 むしろ、 目に見えないもの、 数値で計れないものにこそ意味があると言えば言える。 また、 その伝達方法は教員によって全く違ったりする。 別に教育について不可知論的な結論を導き出すつもりはないが、 昔、 仲間のある教員が言っていた 「教師という職業ほど怪しい商売はない」 という言葉は、 自嘲的な含羞を込めた、 おのが職業に対する謙遜であるとともに、 一面では形や数値で表せない人間的な信頼関係や人と人の関係性に価値を置く商売に携わっているとの矜持をも表現した、 けだし名言 (?) であると今もときどき思い出す。
 そもそも、 教育という営みを、 具体的なモノ (商品) を作り出す産業と比較するのは置くとしても、 その他のサービス産業やサービス業と同列視することはどうなのだろうかという疑問がある。 直接モノを作り出していないというかぎりでは確かに広い意味での行政サービスの一部である。 しかし、 世の中の他のサービス業のように時間と労力、 利便性や有用性 (これらはすべて計測することが可能であるから等価交換=売買することはもちろん可能である。 可能であるから社会的に正当な価格がついていて、 誰もその価格に文句は言わない) を提供することで対価を得るのと、 教育という行為 (サービス) は同列に論じられるものだろうか。 同列視できる側面も確かにあるが、 違う側面が教育にはあるように思われる。
 一般のサービスは原則として、 対価の支払いと引き替えに、 すぐその場で対価に応じたサービス・商品を受け取る。 消費者の満足 (感) もすぐに満たされる。 あるいは満たされなくとも、 満たされていない (騙された) ということはすぐに分かる。 一方、 教育という 「サービス」 は (サービスという語自体が誤解を招きやすいのであまり使用したくないが、 ここでは敢えてこの語を使用しておく)、 支払った対価分の満足は通常すぐその場では得られない。 1 年なら 1 年、 あるいは卒業までの 3 年間など、 一定期間が必要である。 しかも、 そのサービスが生徒本人にとって有用 (有効) であったかどうかは、 本人にも分かりづらいし、 どの程度有用であったかも測りづらい。 レポートやテストの成績などで、 教員や生徒にもある程度の到達度は推計できなくもない。 しかし、 それがその期間の教育の全てというわけでもない。 数値では計りようのない何かが生徒の内部に付加されているかもしれない。 生徒との関係性の中で、 教員にも何らかの作用が及び、 それがまた生徒に反作用しているかもしれない。 それこそ何年も先、 何十年も先になってみなければ分からない。 この点で、 教育という行為に支払われる対価は、 通常の消費行動で支払われる対価とは明らかに違っているし、 得られる満足度もはっきりしないという特徴がある。
 人間社会は、 学校がまだ行き渡っていない時代 (前近代社会) にどのようにして子どもを教育していたであろうか。 ほとんど、 親・兄弟、 親戚一同、 そして地域の共同体の中で子どもを育てていたのである。 必要な知識も技術も、 社会的なマナーや掟もみんなその中で身に付けさせていたのである。 職業もその中で与えられてきた。 近代社会、 現代社会ではどうか。 家庭や地域社会では手に余る程に高度化・複雑化したいわゆる広い意味での学問 (読み書きそろばんの基礎教育に始まり、 さらに高度な専門知識や技術の教授、 これに社会規範の修得や価値観や情操の育成なども含まれる) を、 学校が親や地域に代位しているところが変わっているが、 社会全体で次代をになう子どもたちを育むという基本線は変わっていないはずである。 教育をこうした原初的なところから見直してみると、 教育という行為が、 いわゆる等価交換で手にいれることができる一般の商品やサービスを提供 (購入) するのとはそもそも違う理念で出発している営みであることが判る。 社会的な規模での次世代の育成 (=我々の社会の再生産) という極めて公益性の高い営みである。 それ故、 当然ながら、 サービスを提供する側 (学校) は、 利潤や利益の追求を目的としていない。 教育を利益追求の手段とする行為が社会的な非難を浴びる所以である。 政府の教育再生会議が 「社会総がかりの子育て」 との表現でいろいろな施策を提言しているが、 提言の中味はともかく、 「社会総がかりの子育て」 という言葉自体は正しい。
 私有財産制にもとづく今日の市場経済社会の中では、 学校が個々の家庭と契約し、 授業料という対価を納めてもらって個々の家庭の子どもをあずかり教育しているように、 現象としては見えても、 教育 (子育て) の費用は、 市民個々人の通常の消費行動の費用と同じではない。 われわれ一人ひとりの大人も、 一人ひとりの子どももこの社会の構成員であるから、 自分の子どもさえうまく育ってくれればいいという訳にはいかない。 その意味で、 教育の費用は本来なら大部分社会全体でまかなわれるべき費用のはずである。 日本は教育に当てる予算が先進国の中でも異常に低いと報告されている。 教育にかかる費用があまりにも過大に家計に依存しすぎている。 社会問題化している少子化の主要原因にすらなっているありさまである。 社会全体で達成すべき次世代の育成・教育を個々の家庭の責任に転嫁しすぎているのが今の日本である。 だから 「教育投資効果」 などという発想が出てくるのではないか。 これほど教育にお金がかかる現状からすれば、 「教育投資」 などという言い方が親の口から出てくるのも、 止むを得ないことかもしれないが、 実はそこにこそ市場経済に毒された発想の倒錯があるのではないだろうか。 教育を社会全体の公益的な営みであるとするなら、 子供の教育に消費行動と同じ等価交換の原理 (市場原理=競争原理) を持ち込むこと自体に無理がある。
 もっとも、 現実には多くの親はその 「投資」 の見返りを一般の商品を買うのと同じようには必ずしも期待していないし、 期待が裏切られたからといって学校と当の子どもを責めることも普通はしない。 その理由は、 その 「投資」 が親の子への愛情の表現であるし、 子育て (自分自身の再生産) だからである。 そしてその子ども自身の個性や能力、 努力の程度と (結局は親である自分の能力や資質とも) 密接に関係していることが暗黙のうちに了解されているからである。 学校は、 個々の家庭では背負いきれない子育ての一部を家庭に代わり、 社会全体の中の分業として代位しているに過ぎない。 たとえそれが公立学校であっても私立学校であっても事情は変わらない。 戦後の一時期までは家庭 (親) にもそのような事情が十分に理解されていたから、 学校に怒鳴り込むような親も少なかった。 子どもの数も多く、 親も稼ぐのに忙しかったから、 いちいち構っていられなかったという事情もあったろう。 しかし、 学校がサービス業と同一視されるような風潮がひろがり、 子どもの数が減って親の教育に対する関心の度合いが高まり、 われわれ教員も自分の仕事をやや自嘲を込めて 「所詮サービス業だから」 と妙な割り切り方をしだしたものだから、 世間的な規模で、 学校教育をサービス産業と同列視する考え方がひろがり、 かえって学校と教員の立場を危うくしているように思えてならない。 学校と教員の立場を追いつめるだけならまだ罪は軽いが、 それが教育の本質そのものをもねじ曲げてしまっているとしたら取り返しがつかない。
 * 現代の日本の教育が抱えるこの辺りの事情については、 07年のはじめに出版された内田樹著 『下流志向』 (講談社刊) 第一章 「学びからの逃走」、 第三章 「労働からの逃走」 に詳しい。 読者におかれても、 是非一読されんことを願う。
因みに、 内田氏は教育について大要次のように問題点を整理されている。
 この社会で消費者は、 貨幣を投下して等価交換で商品を手に入れる。 あらかじめ消費者はその商品のスペックについて予備知識をもって購入するので、 商品を手にした瞬間に満足心を満たされる (無時間モデル:貨幣の投下と欲求の満足との間に時間差がないこと。 通常の消費行動と企業活動は、 大体、 このモデルでおこなわれている。 それゆえ、 成果=結果はすぐに出る…筆者)。 同じ消費者マインドで教育投資する人々は学校教育にもすぐに投資の答えを求めるが、 これはもともと無理な相談である。 なぜなら、 時間性を排除したところに 「学び」 が成立するはずがないから。
 また、 子どもが学校で身につけるもののうちもっとも重要な 「学ぶ能力」 は 「能力を向上させる能力」 というメタ能力である。 その意味で、 教育のアウトカムは数値的に評価できない。 時間が経過するにつれて、 さまざまな経験を取り込んで、 自分自身の資質を向上させていく能力、 教育の目標はそれを修得させることに尽きる。
 CS (顧客満足) 論=生徒や保護者の学校に対する期待を頭から否定できない環境や風潮が社会に存在することを学校関係者も心しなければならないことは確かである。 しかし、 そのことと教育を一般の経済行為と同レベルで論じることとは必ずしも同一ではない。 宮原氏が、 教育の場に、 市場原理をそのまま持ち込まれようとしたとは思わないが、 昨今流行のこのような風潮に、 結果として組みすることになってしまっているのではないか、 という疑問はなしとはしない。
 学校に 「強烈なコスト感覚」 を持ち込む必要性を力説し、 「教育バウチャー」 制の導入が教育の再生に絶対に必要である (傍点筆者) と主張されているわが教育委員渡邉美樹氏のような、 学校とそば屋を全くの同列に並べた新自由主義的な競争至上主義の議論 ( 7 月22日 朝日新聞 耕論) にはとてもついていけないし、 論外と考えるが、 安易なCS論や企業論理に基づく学校経営論は、 そうした競争至上主義的な議論に足下をすくわれはしないかと恐れる。 そもそも地域に立脚する公立の学校に平等な競争条件など備わっていない。 こんな基本的な事実認識も省略して、 学校同士を競わせ、 ひいては教員同士をも競わせれば、 よい結果が必ず導きだされると、 絶対的な真理のように信奉される渡邉氏の学校教育論は、 どこか戦前の、 軍国主義教育競争に学校と教員を駆り立てた状況に似てはいないだろうか。 学校教育は営利事業ではなく、 公益性の極めて高い次世代の育成であるという大原則に立てば、 学校と教員がその最善を尽くして生徒に向かい、 社会から託された使命を果たすために全力で職務に励むのは当たり前のことであって、 競争の有無とは直接関係ない話ではなかろうか。
 話をまとめよう。 CSという視点が教育に必要でないと言っているわけではない。 等価交換されている商品やサービスと同じ位相で学校のCSを論じては 「角を矯めて牛を殺す」 ことになりはしないだろうかと危惧するのである。 学校教育をサービス業と同一視し、 同じ価値基準で論じることには、 どうしても無理がある。 実は宮原氏も、 インタビューの別の所で、 学校のCSをそのような企業的な視点だけでとらえているわけではないことを表明されている。 学校という組織のミッションとビジョンはCSとは別であり、 学校のミッション (使命、 存在価値と筆者は理解する) は、 「生徒一人ひとりに社会で生きていく能力 (生きる力) を修得するチャンスを提供すること」 ととらえて、 「国語や数学などの基礎学力は当然として、 それにプラスして世の中の動きや、 仕組みなどベーシックな側面も含めてしっかり教育する必要性」 を説いておられる。 この点は全くの同感である。 氏はそうした観点から、 全日制総合産業の 1 年生全員に 「総合産業実習」 という学校設定科目を課し、 キャリア教育の土台に据えたとのこと。 準備不足で見切り発車的な取り組みになってしまったため、 実施にあたる 1 年次学年団の教員に消化不良があったり、 生徒の評価も50:50に分かれたようだが、 その評価の当否はともかくとして、 宮原校長なくしては生まれなかった科目であったことは間違いない。 その大胆な創意と実施にこぎつけた努力に対しては敬意を表さなければならない。

2.学校組織のあり方 職員会議は本当に不要か
 つぎに学校という組織のあり方についての宮原氏の考えを見てみよう。
 質問者の 「学校という世界と企業という世界で、 どこが同じで、 どこが違うか」 との質問に対し、 氏は 「一番違うのは組織のあり方で、 学校というところは文科省や県教委を含めて、 組織運営がまだ未熟だ」 (傍点筆者 以下同じ) と指摘されている。 また 「組織にはその組織のミッションやビジョンがあって、 それを全員で達成しようという組織運営をしなければ、 結果など出るわけがないんですけれど、 それができていないんです」 とも。 まことに耳の痛い話ではある。 さらに氏は教育基本法の改正に例をとって、 「それを学校現場ごとに具体化して何をやるかというところまで落とし込んで、 それを実行する人たちみんなが共有して、 3 年間ぐらいのレンジで今年は順番で何をやるかというプログラムを共有していけばよいのだが、 そういう組織運営ができていないところが未熟だ、 と言うのです。 民間企業ではそれができていないと潰れます。 公の場合は潰れない、 結果が出ないというところが動きにくいところです。 これは学校に限らず、 公務員の世界はみんなそうだと思います」 とも。 そして、 職員会議について、 80人の職員が全員集まって (金をかけて)、 2 時間 (実際には 5 〜 6 時間かけることもある…筆者) 会議するのは 「コスト的にペイしません」。 だから 「職員会議は要らないと思っています」 と断言されている。
 なるほど、 外部の人の目、 特に第一線の企業に携わっていた方の目には、 学校という組織はかく見えるものなのかと、 ある意味で新鮮な印象を受けた。 が、 やはり、 しかし…、 である。
 確かに、 自分の所属する職場も含めて今の多くの学校は、 日々の業務を、 宮原氏がいうような意味で、 全員が組織のミッションとビジョンを共有して、 目標に向かって全員一丸となって取り組んでいるかと言えば、 必ずしもそのようには見えないかもしれない。 いわゆる 「ぬるま湯的なムード」 の中で、 教員個々人が自己の教育観と理念にもとづいて 「一国一城の主」 的な立場で授業に臨み、 クラス経営に当たり、 学校運営全般にも携わっているように私にも見えてしまうところがある。 もちろん、 一人ひとりの教員が学校の目標 (ミッション) を見失っているわけではないし、 学校のビジョンとプログラム (それは具体的にはカリキュラムに表明されている) をわきまえていないわけでもない。 しかし、 ここが生産現場や営業現場と違うところなのだが、 学校はモノや情報、 利便性を作ったり売ったりする業務ではなく、 成長過程の多種多様な生身の生徒が対象であり、 それこそ多種多様な問題を抱え、 多種多様な要求をもって教室に通って来ており (学校によっては逆に、 通って来ないが故に教師を悩ませる生徒も少なからずいる)、 日々変化するその対象生徒たちにホームルームや授業、 部活動などさまざまな場面で毎日向き合い、 人間的な信頼関係を築きながら一歩一歩進んでいかなければ立ちゆかない仕事である。 その間に、 さまざまな生活指導上の問題も発生するし、 保護者との対応も生じてくる。 日々、 場合によっては時々刻々、 教員相互間で、 或いは教員全員で情報を交換し合い、 共通理解をはかりながら、 時間と手間をかけて一歩一歩進んでいかなければ遂行できない仕事である。 企業のように、 ビジョンとプログラムにもとずいて全員が一丸となって直線的に業務を遂行できるようには構造上なっていない。 しかも、 その目標達成度は、 宮原氏も認めるように、 その都度はっきりと把握できるわけではない。 外部の目から見て、 一見 「ぬるま湯」 的に見え、 サボっているかに見えたり、 個々がバラバラに業務に当たっているように見えたりするのも、 それなりの理由があってのことで、 勝手をやっているわけではない。 恐らく学校が外部の人たちに一番説明しにくいところがこの辺りのところであり、 外部の人が判りにくいのもこの辺りのところではないだろうか。 学校は、 自分の経験上、 とにかく手間と時間のかかる 「手工業」 のような職場である。 それでいて成果はなかなか見えにくい。 だからやっていて空しくなったり、 無力感にとらわれたりすることもたびたびである。 下手をするとマンネリ化の危険といつも隣り合わせである。 学校の現状を全て肯定するつもりはないが、 こうした学校業務のわかりにくさも手伝って、 宮原氏の目にも 「組織が未熟だ」 と映ったのではないだろうか。
 同じような理由で、 宮原氏の 「職員会議不要論」 にも組し難い。 民間企業では職場の全員が集まって何かを議論したり、 意見を出し合ったりすることは、 まずあり得ないだろう。 その間、 業務はストップしているわけだから、 それこそ 「コスト的にペイしない」 話である。 民間企業で全員が集まるのはせいぜい年始に社長か会長、 あるいは工場長の訓辞を聞くときくらいであろう。 しかし、 学校ではそうはいかない。 ある意味で、 毎日全員集合の会議が必要である。 理由は先程述べたとおりである。 毎日の短時間の朝の打ち合わせが学校から消えてなくならないのも、 それが事実上職員会議を代位しており、 日々の業務遂行上必要だからである。 生活指導上の臨時の職員会議も日常茶飯事のことである。 一部の教員だけでは決められないのである。 生徒の身分にかかわるからだけではない。 全生徒への指導、 全教員の指導のあり方にかかわるからである。 まして進級・卒業にかかわる判定会議、 ビジョンにもとづくカリキュラムの変更や改訂、 生徒にかかわるさまざまな内規の制定や改訂など学校にとっての基本にかかわる事柄を、 管理職と一部の教員の了解だけで決めても何の意味もない。 そのやり方では、 宮原氏も必要と認める 「プログラムを全員で共有して、 全員で目標を達成しようとする組織体」 にならないのである。 学校の業務は、 民間企業のように、 部署ごとにきれいに腑分けすることができない性質がある。 また、 上からの 「命令一下」 で教員全員が駒のように動いてどうにかなる業務でもない。 学校の仕事にも分掌のような分業体制はあるが、 それとても全員の理解と協力なしには遂行できない。 なぜなら、 各分掌の業務のほとんどが、 生徒を対象としているからである。 そしてその生徒に直に対面しているのは一人ひとりの教員だからである。
 宮原氏は 「主任中心、 総括教諭中心に、 それぞれの分掌 (今ではグループといっている) で検討して、 分掌に権限委譲して案を作ってもらって、 自分たちのやりたいことを提案してもらう。 それをやるかどうかの判断だけを企画会議でやる」 と、 職員会議なしのイメージを語っておられるが、 当座の場合とか、 緊急の場合はそれで乗り切れる場面もあるかもしれないが、 長期的にはやはり難しいのではないだろうか。 インタビュアーの 「そのイメージ通りに学校は回っていますか」 との問には、 「主任にはそう言いましたけれど、 主任自身がそう思っていないようです。 自分で案を作って、 ここまで決めようという意識がまだないんです。 権限委譲するよと言っても、 そこはまだ時間がかかるようです」 と答えられている。 私たち定時制の職員に対しても同様の話があった。 興味深い提言だと思ったのはは事実だが、 実際に、 これがすぐに機能するとは筆者にも思えなかった。 職員の 「意識」 の問題というよりも、 そのような効率的・機動的システムが学校という組織には必ずしもマッチしていないと思えたからである。 企業組織と一番違っているのはまさにこの点ではないだろうか。
 定時制の職員会議で職員会議の位置づけが問題になったとき、 筆者自身も発言を求め、 宮原校長に疑問をぶつけ、 職員会議の廃止ないしは機能低下は学校という組織にあってはプラスにならないし、 賛成できない旨主張したが、 「県の規定と指示だから変えられない」 という理由と、 氏自身の 「職員会議不要論」 もあってか、 議論は平行線のままだった。 もちろん、 ささいなことまで全て職員会議で時間をかけて議論せよというのではない。 職員会議の効率化、 機能化、 スリム化は当然なされなければならない。 もし本当に宮原氏が言うように、 職員会議が 「職場の対立構造だけが見え見えの、 特定の人の憂さ晴らしの場」 になっているとするなら、 それはそこの職員会議が機能不全を起こし形骸化していることの表れであって、 職員会議そのものの不要論にただちに結びつく話ではない。
 問題は、 学校の中での職員会議の位置づけの問題である。 大勢の、 多様な生徒をあずかり、 教職員全体で責任を負って教育を行っていくには、 縦の指導・指示の系列と、 ある程度の分業体制の必要性は認めるにしても、 学校が抱える課題を全員で認識し、 それこそミッションとビジョンの共有化をはかり、 全員で課題解決向け努力していく前提として、 全員が対等の立場で意見を出し合える (他者の意見を聞ける) 場としての職員会議は、 学校だからこそ必要である。
 2004年に県の 「管理運営規則」 が改訂され、 職員会議が校長の 「補助機関」 とされた。 今また、 総括教諭と企画会議の導入により、 職員会議は一層微妙な位置に置かれている (幸い、 まだ廃止されたという話は聞こえてこない)。 学校の主要なことは管理職と総括教諭を中心にした企画会議で決められ、 他の職員はその内容を 「職員会議」 で報告として周知されるだけという方向性が強まっている。 それで学校という教育機関がこの先うまく回っていくのか本当に心配である。
 新校立ち上げに際し、 総合産業高校の全日制ではさまざまな混乱や行き違いが生じ、 今もなおその混乱の修復過程にあると聞く。 新校準備スタッフの人員数や時間的な制約などやむを得ない面は多々あったと推察されるが、 「新校基本計画」 はまだしも、 その具体化の過程で職員全体に対する十分な説明と疑問の解消、 とくに科が消滅する (とはいっても、 新校も専門高校には違いないからカリキュラム上、 多くの工業科目を中心とした専門科目を設置しなければ専門高校の体をなさない。 工業科職員の理解と協力を得ることは絶対的に不可欠の条件であった) 工業科の職員に対し十分な時間をかけた、 丁寧な説明がなされ、 新校立ち上げに向けてしっかりした協力体制が構築されていたのか、 筆者には全日制内部の詳細はつまびらかではないが、 定時制から様子を窺う限り、 やや問題があったのではないかと推察される。 新校立ち上げのミッションとビジョンを全員で検討し、 共有化し、 全体が役割を分担し、 全体で目標に向かって取り組むというもっとも重要でもっとも手間のかかる作業が、 職員会議を含めた諸会議で十分に練られたのかという疑問である。 もし、 それがそうではなく、 トップ層だけの判断と決断でことが進められ、 工業科を含めた多くの職員が 「蚊帳の外」 状態で進行していったとすると、 そしてそのことに宮原氏の 「職員会議不要論」 が多少とも影響を与えたのであるとすれば残念というしかない。 宮原氏だけの責任ではない。 むしろ、 氏を支えなければならなかったはずの、 学校という現場をよく知る周りの責任の方が大きいと言わざるを得ない。
 それにしてもこのインタビューで、 学校と企業が持つミッションの違いと、 そのミッションを具体的に実現する手だてや業務の性質、 業務の進め方の違い、 したがって職員会議の存在を含めた組織運営のあり方の違いなどを、 改めてわれわれに再認識させてくれた意味は小さくない。

3.教員の勤務評価とその賃金反映等々について
 教員の勤務評価については、 宮原氏は、 「(教員の勤務評価を給料に連動する程度まで評価するのは) かなり難しいと思いますね、 今のままでは。 ダメな人の選別はできると思いますが、 そこから上のレベルの判定は難しいと思います。 でも、 評価自体は必要だと思います。 教員に限らず、 公務員 (?) の世界で、 仕事の成果と賃金が全然リンクしないというのはおかしいと思います」 と評価自体の必要性を認めておられる。 「自分の仕事が上司やお客さんにどう評価されているか、 わたしだったら知りたいですね。 … (中略) 目指すところはスーパーティーチャーです」 とも述べておられる。
 ただ、 実際の教員評価の難しさ、 評価する仕組みの不十分さなどについても触れた上で、 「(県) がいろいろなアイディアで仕組みを作っていますけれど、 これから中味をつけていかないと、 何とか倒れになると思います。 これはこれからの課題です」 と、 全体の印象としては、 学校にとってこれが焦眉の重要課題であるとの認識はお持ちでないようである。 また、 民間出身校長として、 民間ではそれが当たり前で、 学校にこれが導入される意味もさほど深刻だとの認識はお持ちでないような印象を受けた。 この問題に関しては、 教員出身の他の多くの校長たちからも何の疑問の声や異議申し立ての声も聞こえてこない現状では、 宮原氏の認識にこれ以上とやかく不満を言っても始まらないと思う。 むしろ、 実際の評価の困難性を十分に認識されており、 慎重にシステムを構築しないと制度自体が立ちゆかないことを心配されている点で、 私たちと立場はそれほど違っていないのかもしれない。
 上述の教育論のところでも述べたが、 教育そのものが数値的な評価になじまないだけでなく、 対象がさまざまな問題を抱えた成長過程の子どもたちであり、 その子どもたちに教員は一人だけで対面する訳ではなく、 教員集団として対面する協業性の強い仕事であるというのが自明の前提である以上、 部活指導など限定された場面以外は、 それがどの教員の成果であり、 どの程度の成果であるのかすら判然としないのが現実ではないのか。 学力だけならまだしも計測可能かもしれないが、 生徒が身につけるもっとも重要な能力が 「能力を向上させる能力」 (前出、 内田氏) であるとするなら、 当の生徒自身にすら何がどの程度身に付いたか判らず、 判ったとしてもそれは長い人生の中でのこと、 「死ぬ直前」 (宮原氏) のことかもしれないのである。 教育に市場原理を持ち込むのと同じ過ちをここでもやろうとしているのではなかろうか。 評価の根拠すらあやしい、 生煮えの教員勤務評価・賃金差別制度を、 世の中の新自由主義的な市場競争原理 (成果主義) の風潮に迎合して、 学校現場にあわてて導入するその蛮勇に驚かされるのみである。
 30年の教員歴をもつインタビュアーが、 通常の業務の上にさらにIT関係整備の業務がかぶさり、 教員の本務に手が回らなくなっている現状を 「何か違うんじゃないか?民間と比べてどうなのでしょう」 と宮原氏に聞いたところがあるが、 氏は即座に 「異常です」 と答えられ、 教員の本業は 「メインは教科担当で、 あとは担任です。 ITなんかはもってのほかです」 と明快に述べておられる部分は、 インタビュアーならずとも、 まさにわが意を得たりである。 教育行政がすぐ取り組むべきは、 「ジョブデザイン」 もなにもない学校のこのような前近代的な現状を改め、 教員が本務にしっかり向き合えるようにすることではないだろうか。 雑務ばかりがこれでもかと押し寄せ、 教員が本務にじっくりと向き合えなくなっている現場の声がなぜ届かないのだろう。 不思議なことだ。 宮原氏も 「組織運営が下手だと思います。 どうして現場の第一線の意見が上へ通じないのか、 みんなが納得してやるという姿でやらなければ、 みんな動きませんよね」 と疑問を呈しておられるが、 全く同感である。
 総じてインタビューから受けた私なりの感想は、 宮原氏の教育に対する真摯な姿勢と情熱の高さ、 生徒を大切に思う心、 教員に対する温かいまなざし等々は十分に伝わってきたが、 学校組織の運営の手法において、 やや企業的な手法に比重がかかりすぎていたのではないか、 との印象は拭いきれない。 しかし、 氏が置かれたもろもろの状況からすると、 それもある意味でやむを得ないものと思われ、 氏が民間出身の校長として神奈川総合産業高校の土台を築かれた功績をうち消すものでない。 氏が指し示されたビジョンが具体化され、 実体化されていくのはむしろこれからであろう。 任期半ばで退任されたことが残念でならない。

(いしかわ とおる 県立神奈川総合産業高校・定時制教員)
ねざす目次にもどる