退任の挨拶
 

小野 行雄

 人々は貧しく、 食べているものはごく質素だ。 道路はどこもひどい状態でほこりっぽく、 車はすぐにパンクしてしまう。 しかし、 みな規律正しく他人思いで、 どこでもきちんと列をつくる。 心遣いが行き届き、 誰もが穏やかだ。 森は管理者がいなくてもきちんと保護され、 勝手に切られたりすることはない。 そんな中で、 若い女性は生活に追われて喫茶店と文具店を掛け持ちで働きながらも、 将来のためにと目を輝かせて英語を勉強している。
 フィリピンの作家シオニール・ホセが描いた、 1955年の日本だ ("soba senbei and Shibuya", Solidaridad Publishing House, Manila)。
 五十数年を経た今、 その控えめだが抑制の効いた豊かさを持っていた日本社会は、 自分中心主義、 経済優先主義に席巻されて大きく変容してきた。 教育も例外ではない。 生徒を守り育てるはずの学校という空間は、 経済開発の中で翻弄され、 格差を容認し作り出す最先端の装置に変えられてきた。 理想を語る声は掻き消され、 日々の仕事に追われる教師は疲労の中で絶望している。
 教育研究所で、 所長をはじめとする多くの方々に教えていただいたのは、 この問題に対する視点だった。 教員の意識の変容、 生徒の抱える問題の多様化と社会化、 教育行政の動き、 経済界の動き、 そして世界の動き。 大きく深いけれど、 現場だけではなかなか理解できない流れを、 所員会議での報告や何気ない会話の中で教えられることが多かった。
 一方で、 所員としてできたことはあまりにも少なかった。 せっかくの機会を与えられながら、 学ぶことばかりで、 それを生かした研究がほとんどできなかったのは残念であり、 申し訳なく思っている。 勤務との関係でこの数年は所員会議にも出られなくなり退任させていただくこととしたが、 内心忸怩たる思いがある。
 こんな時代にこそますます重要な教育研究所が、 これからも豊かな学びの基を築いていかれることを。


三 橋 正 俊

 このたび、 教育研究所の発足時から20年間にわたって続けてきた所員を、 定年退職とともに退任することとなりました。 この間、 現場にあっては中沢高校17年、 松陽高校 3 年間の教員生活でした。 月 1 回半日の所員会議に参加するため、 現場の方々の様々なサポートをいただきました。 また、 研究・調査活動で教職員以外にもたくさんの方々のご協力をいただいたことも忘れることができません。 ここで、 あらためて感謝の意を表するとともにお礼いたします。
 1986年 7 月に教育研究所は設立されました。 私はその年の 1 月から 6 月までの教育研究組織設立準備委員会にも関わっていました。 それまで10年余の間、 神高教の高校教育問題総合検討委員会 (以下、 高総検) で組合の教育改革方針作成のための報告書づくりに関わってきたからですが、 準備過程で明らかになったのは、 教育研究所はそうした組合の教研活動とは一線を画して、 財団法人高校教育会館の研究組織として、 県民代表も交えた研究組織になるということでした。 準備委員会でまとめた活動内容は、 1)県民図書室資料の分析・紹介 2)独自テーマによる研究の推進 3)各種調査の実施 4)神高教教研活動の集大成 5)教育相談活動の展開 の 5 点でした。 私自身は、 保護者や生徒の立場に立った研究をするという新しい気持ちで所員としてのスタートを切りました。
 教育研究所の最初の10年間については、 『ねざす』 第17号 (1996年 4 月刊) に 「教育研究所 10年のあゆみ」 として報告しましたのでそちらを参考にしていただいて、 私自身の関わりを振り返ってみたいと思います。
  『ねざす』 創刊号 (1988年 6 月) に 「高校生のアルバイトと 『学校離れ』」 を書いて、 高校生のアルバイトの現実に着目してみました。
 このため思わぬところからの講演依頼がありました。 高総検ではもっぱら、 文部省 (当時) の教育政策や神奈川の入試などの高校教育制度に関わるレポートを書いてきたのですが、 教育研究所では積極的に高校生の目線に沿った文章を書いていきたいと思っていました。 しかし現実には、 教育政策や教育制度に対する現場からの意見として、 その時々の課題をとりあげて論じる必要もありました。 その中で印象に残る文章は、 『ねざす』 第15号 (1995年 4 月刊) の 「総合学科を考える」 でした。 私たち現場教員の中にも賛否両論がある中で私はあえて、 総合学科が生徒の 「自分さがし」 の観点から評価できると述べました。 それに対する賛成派と反対派の方々からのご意見をいただきました。
 県民図書室や神高教の教研活動の資料紹介にとどまらず、 教育研究所としての独自調査をする必要があるとの方針の下、 「教員の生きがいと健康調査」 を実施して 『神奈川の高校 教育白書94』 (1994年 9 月刊) に発表しました。 この当時はパソコンを使ってのデータ処理ではなく所員が手分けをしてデータを文字通り手作業で集計していましたが、 記者発表をして新聞にも掲載され思わぬ反響がありました。 私はこの調査結果から、 いわゆる進学校と課題集中校との間に教員の勤務条件に大きな開きがあることに今さらながら驚かされ、 さらに課題集中校問題に積極的に関わることになります。
 1997年というと教育研究所の次の10年のスタートにあたる年ですが、 11月にシンポジウム 「高校生は今!」 を開いた時に司会を務めて、 宮台真司氏の高校改革のシナリオに一部共感するところを感じました。 このシンポジウムの記録とともに私の 「高校生の変貌と高校教育改革」 と題する感想を 『ねざす』 第21号1998年 4 月刊にまとめました。
 神奈川の前期再編計画が発表されたのは、 1999年 8 月のことでした。 私の勤務する中沢高校も再編対象校となり、 私自身準備委員になって再編問題に取り組むことになりました。 これ以後私の関心は、 高校教育改革、 特に高校再編問題に向かうことになります。 既に全国的にも生徒減少期を迎える中で高校再編の波が押し寄せていて、 大阪や三重の高校再編の聞き取り調査の報告や全国状況を 『ねざす』 第25号 (2000年 4 月刊)、 第26号 (2000年11月刊)、 第29号 (2002年 4 月刊) に発表しました。 そして神奈川の前期再編の中間的なまとめを 「課題集中校からの教育改革 その行方は」 と題して 『ねざす』 第34号 (2004年11月刊) に発表しました。 この年は多くの再編対象校がスタートした年で、 11月には後期再編計画が発表されました。 再編校にはかつての課題集中校が多く含まれていて新校人気とからみ、 2005年度入試から始まった学区撤廃とさらに私学の入学定員枠の問題もあって、 全日制高校に進学を希望しながら定時制高校に進学を余儀なくされていく生徒が続出するという問題状況が生み出されていくことになります。 教育研究所は2005年度には独自調査を実施しながら定時制問題に取り組むことになります。 定時制教員への聞き取り調査をして、 それまでのアットホームな定時制のよさが失われて、 定員増とかつての課題集中校の状況が定時制に出現している中で、 苦悩している仲間の姿に衝撃を受けました。 今もなお全日制の進学率が低下しているという現実は何とかしなければならないと思っています。
 2003年度 4 〜 5 月に 「教育改革期における教員の意識調査」 を実施して、 教員をやめたいと 「いつも感じる」 「ときどき感じる」 人が51.4%もいることに驚かされました。 教育改革によって事務仕事が増え生徒とのふれあいが失われ、 さらに現場の裁量が失われていく中で、 教員の仕事に魅力と生きがいを感じられない人が増えていることが数字で表れたと思っています。 この独自調査は、 『教育白書』 の発刊をやめたために別冊としてその年に刊行されました。 この実態を個別事例ごとに明らかにしたいと、 翌年に独自調査として20人の教員への聞き取り調査を実施しました。 『ねざす』 第35号 (2005年 4 月刊) には、 教員になる動機、 教職に就いてから今日までの仕事と意識について20人の教員の様々な思いを描き出しました。 一連の教育改革が本当に生徒のためになっているのかという疑問を抱えながら、 多忙な毎日を送っている姿が浮かんできました。 これを 「教員の心身の危機」 とも呼ぶべき事態が生み出されていると感じるのは私だけでしょうか。
 3 月30日の退職者の辞令交付式が終わった後、 私に声をかけてくる人がいました。 私の存じ上げない方でしたが、 「三橋さんですね。 私は 『ねざす』 を愛読していました。」 この言葉で私は元気付けられました。 所員としての私の20年間は無駄ではなかったような気がしたのです。 この 『ねざす』 が全国の高校教育に関わる教育研究所に郵送されていると考えると、 どこかで誰かが 『ねざす』 を読み、 教育問題について問題意識を共有していてくれている、 そんなふうにも思われます。 『ねざす』 が教育問題に関する公の討論の場になって、 さらに多くの人たちの参加するものであって欲しいと思います。 そんなことを願いながら退任の挨拶とさせていただきます。

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