寄稿
技高は二度、 「廃校」 となった(4)  技高廃校30年
綿引 光友

1 まえがき
2 技高との出会い
3 技高廃校と最後の技高生の訴え (以上、 37号)
4 「奇術高校」 と呼ばれた技術高校
5 「特色づくり」 の元祖・技高の特色
6 高校と職訓とのドッキング (以上、 38号)
7 「一昼二夜」 のすれちがい通学
8 会社に行くと単位がとれる
  ― 「現場実習制度」 の意義と問題― (以上、 39号)
9 技高設立の目的と創設までの経緯


 前号と前々号の 2 回にまたがって、 技術高校の 3 つの特色について解説した。 在職していた当事者でさえ、 複雑でよく理解できないと言われる技高制度であるので、 なかなか第三者にはわかってもらえなかったかもしれない。 連載を始めるときは、 もっと簡潔にまとめようと考えていたが、 資料を織り交ぜ、 なるべくわかりやすく記述しようと心がけた結果、 予定より大幅に紙数を費やすことになってしまった。 この点、 率直にお詫びしたい。
 今回は、 この変則的な技高がどのようにして、 誕生したかについて見ていくことにする。 そして、 技高制度を考え出した当事者の考え方などを紹介したい。

(1) 技高設立の目的と背景
 しばしば本稿で引用している 『神奈川県立の技術高校』(1)によると、 「技術高校は、 個人の利益と社会的要請にこたえるため、 勤労青少年に勉学の機会を与えて、 技術革新の時代に要求される技能者養成を行なう」 との目的で、 44年前の1963年 4 月に創設された。 この目的の背景については、 資料 1 に掲げるように、 5 項目にわたり、 詳細な説明がある。

【資料1】技術高校の発想の背景
  1. 私どもの社会は非常に多くの職種によって支えられている。 これらの職種が適当に平衡を得て、 またじゅうぶんな機能を発揮することによって、 はじめて産業も発展し、 私どもの生活も豊かになる。
  2. 子どもが上級学校に入学することを目的とするような錯覚から目ざめる必要がある。
      本来、 子どものタイプには、 知能型 (言語優位性) と行動型 (動作優位性) とがあるといわれている。 抽象的な学問に適している知能型に適応させた教育課程をもつ普通高校に、 知能型のものとともに行動型のものを入学させれば、 当然その枠からはみ出してしまう。 学校の成績表では高く評価されない資質に、 あんがい、 社会のためにも、 自分のためにも役立つものがある。 具体的な行動・作業をとう (ママ) して、 知的な理解が容易に得られる例は知られているところである。
      ともかく、 それぞれの能力・適性に応じた教育を受けることが、 教育の機会均等の精神であり、 青少年を幸福にする道である。 適性を無視した教育をすることは、 青少年を欲求不満におとし入れ、 非行に導く一因ともなる。
  3. 社会的要請について考えると、 ヨーロッパ諸国の生活水準の高さは産業の中核をになう技能者が経済発展を支えているからであり、 この教育・訓練も盛んである。 たとえば、 西ドイツは人口5,500万人のうち、 熟練技能者が約2,600万人、 職業学校の職種が約500、 職種を細分すると 1 万種類に及ぶという。 しかも、 毎年その後継組 (ママ) は、 180万人 (義務教育を修了する者の70〜80%にあたる) も養成されている。 日本では、 150〜160万人の技能者が不足し、 本県でも10万人以上の技能者が足りないといわれている。
  4. 職業訓練を受けている青少年で、 高卒の資格をとるには、 時間的・身体的の困難をおかして、 夜間定時制の高校に入学するのが通例となっていた。 フリッカーの疲労測定法などによると、 昼間働いているときの、 夜間通学は4日が限度のようである。 通例となっている夜間の高校通学を打開するためにも、 技能訓練と学校教育との有機的な結合が必要になる。
  5. 技能者養成の内面的問題としても、 学校教育・職業訓練の中心をなすもの (学校教育の知識的な面と職業訓練の実技的な面) を融合させれば、 技能者のための職業教育を充実させることができる。 (『神奈川県立の技術高校』 1〜2 ページ)
2.にある、 「それぞれの能力・適性に応じた教育を受けること」 とともに、 「技能訓練と学校教育の有機的な結合」 によって時間的・身体的な負担の軽減をはかることができれば、 それが個人の利益につながるというのである。 他方、 社会的要請としては、 「10万人以上の技能者不足」 の解消と 「技能者のための職業教育の充実」 をあげ、 これらに応えるために、 技高の設立に踏み切ったと県教委は説明している。

(2) 創設までの経緯
 次に、 技高創設までのプロセスを箇条書きしてみよう。

1962年12月22日
  技術高校設置の基本方針の検討
1963年 1 月10〜30日
  技術高校の教育課程・教員の問題の研究
  2 月 7 日
  技術高校の構想 (第 1 次案) を文部省中等教育課に提示
  2 月 8 日
  菅井教育次長が平塚、 鶴見、 川崎の各職業訓練所を視察
 3 月 2 日
  技術高校運営の基本方針と具体案の検討
 3 月 4 日
  技術高校構想をTV放映
 3 月 8 日
  技術高校の構想 ( 2 次案) を文部省 (中等教育課長・職業教育課長) に  説明し、 了承を得る
 3 月10日
  県議会で技術高校設置の議決
 3 月16日
  文部省の局議で技術高校設置を了承
 3 月20日
  文部省職業教育課長が技術高校の具体的構想を了承
 3 月22日
  県産業教育審議会が技術高校の構想に賛同
 3 月25日
  県教委規則を改正し、 技術高校を設置 (施行は 4 月 1 日)
  (『神奈川県立の技術高校』 3 ページ、 を一部修正)

 年末の12月22日に技高の設置に関する検討を始め、 わずか40日足らずで文部省にそのプランを提示したことがわかる。 指摘された問題点の検討をする一方で、 教育次長は設置が予定されている 3 つの訓練所を視察し、 その翌々日にはNHKテレビで技術高校のPRを行っている。
 1 次案を提示してから 1 カ月後の 3 月 8 日、 再度、 技高構想 ( 2 次案) を文部省に説明し、 ついに了解をとりつけることができた。 この 2 日後の10日、 県議会は 「営造物の設置について (横浜技術高校外 3 校)」 を採択し、 ここに技術高校の設置が正式に決定した。 これに反対した社会党議員は、 次のような反対意見を述べた。
「この提案による技術高校は、 学校教育法と職業訓練法の両方にまたがり、 学校教育法に基づく高等学校教育に混乱をまねくおそれがある。 その上、 法的にも幾多の疑義を含んでいる。 (略) 技術高校については、 教育体系に変革をもたらす重大問題であるので、 広く各界の意見を求める等慎重に検討した上で発足させるべきである」(2)
 拙速な技高の発足に警鐘を鳴らす含蓄ある発言と思われるが、 あまり省みられることはなかったようだ。 その後の 3 月20日、 ようやく文部省からお墨付きをもらうことができた。 職業教育課長が技高担当となり、 その具体的構想は了承されるに至った。

(3) 開校・入学式に向けた準備
 4 月 1 日、 4 技高 (横浜・川崎・平塚・大船) の校長・教頭が発令(3)され、 技高が見切り発車に近い形で開校の運びとなった。 翌 2 日からの開校に向けた慌しさを書いた証言を次に記す。
「(略) 翌日の 2 日から仕事に打ち込んだ。 生徒募集、 教科内容、 教具教材、 高校の教科担当教師、 開校式などなどすぐに段取りをつけなければならない問題が山積しているので午前は訓練所での打ち合わせを、 午後は校長のいる教育庁に出かけ、 4 校集っての打ち合わせと慌しい日々が続きました」(4)
 この証言から、 開校当初、 校長は本庁との兼務であり、 通常は教育庁にいるらしいことがわかった。 また、 事務職員の発令はいずれも 7 月16日付となっており、 「38年度は 3 人だけの陣容で過ごした」 との証言(5)もあることから、 開校 1 年目は、 いわゆる専任教諭は 1 人もいなかったことになる。 したがって 1 期生のクラス担任は、 各校の教頭が全クラスを担当した。 たとえば、 川崎技高には 6 科 (6 クラス) あったが、 それらを教頭が一手に引き受けていた(6)。 教育課程には普通科目および工業科目もあるが、 これらはすべて非常勤講師でまかなっていたことになる。
 新しい高校のスタートとしては、 兼務校長を除けば正規の学校職員はたった 1 人 (教頭) だけ、 というのはあまりにも寂しすぎないだろうか。
 第 1 期生となる入学志願者の願書受付は、 4 月 4 日から 6 日までの 3 日間で行われた。 4 校あわせて600名定員であったが、 志願者は461名、 平均倍率は0.77倍であった。 時期が 4 月に入ってからであったので、 定員を超えたのは川崎技高の機械仕上科 (1.13倍) だけだった。 一方、 横浜技高印刷科や大船技高機械仕上科のように、 定員の半分に満たないところもあった(資料 2 参照)。
 9 日・10日が選抜検査日で、 初年度ということもあり、 学力検査は行なわず、 調査書および面接の結果で総合評価した(7)。 合格発表は翌日の11日。 資料 2 を見ると、 大船・平塚では志願者は全員合格となっている。 川崎・横浜では入学者が志願者より 1 名減になっている科があるが、 志願後取り消し等がもしあったとすれば、 「受検者全員合格」 ということになる。
 開校式ならびに入学式は、 18日平塚、 19日川崎、 20日横浜、 22日大船というように、 4 技高がそれぞれ日付を 1 日ずらして実施された。 大船技高の開校・入学式には、 鈴木重信教育長、 菅井栄一郎教育次長がそろって出席した(8)。
 以上見てきたように、 基本方針の検討 (62年12月22日) からわずか 4 カ月後には、 新入生を迎えての入学式 (大船の場合は63年 4 月22日) が行われるという驚くべきスピードで技高が誕生となった。 「技術革新の時代にふさわしい高校教育の充実、 とくに技術教育の充実強化を実行にうつすための施策が技術高校というかたちになった」(9)とはあるが、 「高校教育の充実」 がたった 3 〜4 カ月間ほどの検討でできるはずは絶対にないだろう。

10 技高構想のルーツをさぐる
(1) 技高設立の特命
 前章でも技高創設の目的・ねらいを抜き書きしたが、 技高設立にあたって実務を一手に引き受け、 尽力した 「産みの親」 ともいうべき笹尾利男指導主事は、 後年、 ある座談会の中で 3 点に整理し、 次のように語っている。
  「その第一は 『技術革新の時代に応ずる熟練技能者の養成、 という社会的要請にこたえ 1 カ年で終了する職業訓練に対し、 継続的に教育を行なうようにする』 ということ。 次に 『教育の機会均等と個人的要請、 並びに後期中等教育の拡充という立場から、 職業訓練を受けている者に高校卒という資格が与えられるようにする』。 それから、 3 番目には 『職業訓練生の人数を確保する』 というようなことです」(10)
 笹尾氏は、 62年11月に職業科指導主事となり、 その後 1 カ月ほどしかたっていないときに、 鈴木教育長・菅井教育次長から技高設立の特命を受け、 当時の指導課長の下、 ほとんど 1 人で設立準備に奔走し、 文部省との折衝なども行なっていた(11)。
 同氏は先の座談会において、 続けて次のように発言している。
 「当時の教育長や労働部長がヨーロッパを回って来られて、 例えば、 ドイツ (正しくは西ドイツ―筆者) では義務教育を終わった段階で、 働きながら勉強している制度がある、 これを神奈川県でも取り入れてみたらどうか、 というようなことでこの話が進んだように聞いております」(12)

(2) 西ドイツへの教育事情視察
 上述した笹尾発言の背景を補強する意味合いから、 技高の発案者である鈴木重信教育長の寄稿文を以下に引用する。
  「偶々1961年 (昭和36年) 7 月、 ジュネーブで開催された世界公教育会議に列席した私は帰途、 西ドイツに立寄り教育事情を勉強する機会に恵まれた。 特に私が強い印象を受けたのはドイツの職業教育であった。 9 年間の義務教育としての国民学校を卒業した少年たちの大部分は―大学進学志望のものは国民学校 4 年終了と共に 9 年制のギムナジュウムを受験して進学するが、 全体の 2.5 パーセント位に過ぎない―殆ど洩れなく就職する。 と同時に職業別に作られている職業補習学校 (ベルーフ・シューレ) に進学するが、 これは本人及び雇傭者の義務である。 (略)」 (13)
 ベルーフ・シューレ (ママ) に関する詳細な説明がさらに続き、 戦後日本の六・三・三・四制の単線式学校体系に対する批判が展開されているが、 ここでは省略し、 次に進める。
  「昭和36年 8 月、 ドイツから帰国した私は当時の労働部長佐々井典比古君が全く同憂の士であることを知り、 大いに驚いた。 佐々井君はその前年、 ドイツの職業訓練制度を視察し、 すでに立派な報告書を発表していたのである。 意気投合した両人の得た結論は、 日本の現状で可能な最短距離の方法として、 現行の職業訓練校と定時制高校とを合体させるという案であった」(14)

(3) 難航した技高計画
 労働省や文部省に働きかけたが、 技高設立計画は 「難航」 をきわめた。 しかしようやく、 「職業訓練所に定時制高等学校を附置するという妥協案で遂に神奈川県立技術高等学校は発足の運びにまで漕ぎつけた。 この間の陰の推進力であったのは後の教育長の菅井栄一郎君 (前TVK社長) であった」(15)と述懐している。
 このように見てくると、 技高設立構想は県教委と労働部両トップの 「意気投合」 がきっかけとなって打ち上げられ、 教育次長がその 「陰の推進力」 となり、 文部省との交渉など発足に向けた実務のほとんどは笹尾指導主事が担うとの構図が読み取れるであろう。
 しかしながら、 「予算案の審議に入ると反対の空気が強く、 答弁に汗を流すことになった。 折柄、 高校急増対策の進行中であったため、 安直な技術高校で肩替りし、 その負担を軽減するのだろうと勘ぐられた次第である」(16)と鈴木氏は振り返っている。
 適切さを欠く表現となるかもしれないが、 そもそも検討期間 3 カ月余という 「超未熟児出産」 で世に送り出そうとしたがゆえに、 「難航」 すなわち 「難産」 であった。 また 「超未熟児」 ゆえに、 「誕生」 後も数々の困難に直面しなければならない運命を背負うこととなった。 (17)

11 技高発案者たちの教育観
 技高設立の中心人物というべき 2 人の子ども観・教育観・学校観などをまとめた論稿が、 『神奈川県立の技術高校』 の中に附録として収録されている。 しかしこの論稿は、 すでに63年 5 月に刊行されている県産業教育振興会 『会報』 第 4 号に掲載されていることがわかった。 ということは、 この 『会報』 の掲載文をそのまま 『神奈川県立の技術高校』(65年11月発行) に転載したものと推定できる。 2 人の考え方を紹介し、 それが技高構想にどのように結びついたかを検証する。

(1) 労働部長の子ども観・教育観
  「学校教育と職業訓練―県立技術高校の背景―」 と題する佐々井典比古労働部長の文章は、 すでに何度か引用済みだが、 末尾に 「63年 3 月30日」 との日付が入っている。 この日は、 4 月 1 日発令の管理職予定者が教育庁に集められた日(18)だが、 そのときに配布されたものなのであろうか。
 佐々井氏は、 ヨーロッパでは 「日本とちがって、 学校教育と職業訓練が有機的に結びついて 1 本になり、 それが後期中等教育の主流として大多数の青少年を受け入れ、 絶大な社会的・経済的機能を果たしている」 として、 自ら見聞を深めた西ドイツの職業学校 (ベルーフス・シューレ) を細かく紹介した後、 西ドイツの後期中等教育のあり方と比較し、 日本における上級学校への進学志向を厳しく批判する。
  「このようにして、 西欧の進んだ国々では、 職業訓練と学校教育が 1 本に結合して、 優秀な産業人を、 しかも圧倒的に多数の技能者・熟練者をつくり出している。 それが 『進学ムード』 にかわって後期中等教育の一般的な形態として普遍化している。 徐州へ徐州へと人馬が駆り立てられたように、 何かに駆り立てられて高校へ、 大学へと盲目的に進もうとする日本の風潮は、 ヨーロッパ人の目には実に不可解なものとして映るに相違ない」(『神奈川県立の技術高校』 32ページ)
 さらに技術高校の試みについてふれる前に、 高校全入運動に対して 「個性無視の反教育運動」 と切り捨てるなど、 やや支離滅裂とも思える批判を展開している。
  「学歴偏重、 労働蔑視の風潮は、 高校全入運動という、 西欧人が夢想だにしない社会現象を生起させた。 私にいわせれば、 それは教育の美名にかくれ、 父兄 (ママ) のセンチメンタリズムに便乗した個性無視の反教育運動である。 むかしの軍隊が、 人の足に靴を合わせるのでなく、 靴に人の足を合わせたように、 適性能力を無視して画一的に高校へあてはめようという無茶なやりかたである。 合わない靴をはかされた兵隊が靴ずれをおこし、 部隊の歩度を落とし、 ついには落伍するように、 合わない高校へ入れられた生徒は、 欲求不満をおこし、 全体の教育水準を低下させ、 ついには不良化する」 (同35ページ)
 そして教育の重複と負担過重、 技能者・熟練者の不足などさまざまな背景をあげ、 「教養のある優秀な技能者をつくり出すことを目的」 として、 「教育庁当局と労働部との共同研究の上」 に 「公共職業訓練所に附置」 した技高が構想されるに至ったと述べている。

(2) 教育長の子ども観・教育観
 鈴木重信教育長の論題は 「新しい教育の課題」 である。 開校直前の63年 3 月11日 (前日の10日、 技高設置が県議会で議決された)、 「プリンスホテルにて開催された産学、 研究懇話会の席上での講演の口述筆記」 との注釈が文末にあった。
 鈴木教育長は、 「教育というものは、 人的能力を向上させ、 高度化させていくことの積極的、 計画的努力」 であり、 「経済における最も長期的な投資である」 との教育投資論の立場に立つ。 また、 「学校教育だけで人間形成は充分だと過信するところに今日の一番大きな誤りがある」 と、 佐々井氏同様、 今までの学校教育や戦後民主主義教育に対して反論を展開している。 その一節を以下に引用する。
  「国民全体が持っている教育の機会均等観の是正が必要であろうと思います。 これは憲法にも、 教育基本法にも、 『すべての国民はその能力に応じて教育の機会が均等でなければならない』 と示されておりますが、 日本人は不思議なことに 『能力に応じて』 というところを消してしまっている。 すべての国民は、 教育の機会は均等でなければならないという教育観を固守してゆずらず、 そこに今日の後期中等教育の発展を阻害するものがあるのです。 『能力に応じて』 ということを無視して、 すべてのものに同じ教育を与えるという悪平等的な教育の結果、 今日、 社会は職業の面において、 技能者あるいは労働者の絶対不足を生ずる形となって出てきているわけであります」 (同26ページ)
 さらに続けて、 「最近の非行性青少年の 1 つの原因が、 能力を無視してすべてのものに画一的な教育をおしつけたことの結果であるというレポート」 があるとし、 鬼怒川の少年鑑別所の所長さんの話を引用する。 この話は、 資料 1 のAで示された 「知能型」 と 「作業型ないし行動型」 という子どものタイプ分けにそのまま利用されている。 このような大胆な議論が今日、 展開されたとすれば、 「不適切で誤解を招く表現」 との指摘を受けるかもしれない。
  「能力に応じてということは、 その人間のもつ能力及び個性を重んじなければならない」 とし、 「日本では後期中等教育といえば15才 1 回という考え方がある。 これは教育の機会均等に対する非常な誤りで、 このような考えを根本的に直さない限り、 日本の後期中等教育というものは大きな飛躍が考えられず、 また社会の要求を充たすことが出来ないのではないか、 要するに 6・3 制というものをもう一度根本から考え直すことが必要である」 (同28ページ) と断言している。
 部分的な引用なので、 正確さを欠くかもしれないが、 こうした鈴木氏の教育観が具体化されたものが技高に他ならない。 「社会的要求に即した後期中等教育の一つの新しい試み」 として、 「職業・社会的な非常に大きな要求である職業訓練を学校教育の中に組み入れよう」 と、 独自のシステムを全国に先駆けて導入、 「実験的に 4 校」 の技術高校が発足をみたのであった。

12 国の文教政策と技高の誕生
(1) 経済審議会答申と技高
 技高の誕生にあたっては、 鈴木教育長が繰り返し述べているように、 62年11月に出された 『日本の成長と教育』 (教育白書) において示された教育投資論など、 国の文教政策にも大きく影響されている。 したがってここでは、 教育投資論に至る文部省あるいは経済審議会などといった中央の動きを概観してみたい。
 先にも何度も紹介・引用した座談会において、 笹尾氏がその流れを要領よくまとめているので、 長くなるが以下に引用する。
  「その基盤は、 昭和35年の国民所得倍増計画あたりがひとつのスタートとなっていると考えられます。 経済政策の一環としての科学技術の振興、 ことに人的能力の向上を図る必要があるというようなことで、 かなり長期にわたって科学技術者の養成が必要であるということを述べているわけです。
 このようなことから、 それがたまたまベビーブームの時期とも重なるというようなこともあって、 急増対策と関連して工業高校の新設ということが叫ばれ、 (略) 本県でも 4 校の工業高校が昭和37年 4 月に開校しました。 その背景は、 42年までに 8 万 5 千人の工業高校の生徒定員をふやすということが国の施策としていわれておったようです。 やはり経済審議会が昭和38年に出した人的能力政策に関する答申の中で、 上級の技術者、 中級の技術者、 初級の技術者、 それから技能者の養成、 というふうに、 それぞれの教育機関のランクづけをしてきている。 このようなことから、 例えば、 工業高校の中においても、 特に技能を重視するような学校を設けたらどうか、 ということでいろいろ意見が出された。 それらに基づいて、 昭和38年 4 月に 『技術高校』 という名称で開校した、 ということが考えられます」(19)
 末尾近くに、 「人的能力政策に関する答申」 (63年 1 月14日) から技高の名称がつけられたとの記述がある。 同答申には 「現在の定時制高校の課程を前期 2 年と後期 2 年にわけ、 前期 2 年を職業訓練法に基づく職業訓練と密接な連けいを保てるような内容と制度に改変」 し、 さらに 「新しい前期の課程を終わった者で進学の意志と能力があるものは定時制高校 3 年に進」 ませるといった構想が示されている。 また佐々井氏も 「人的能力に関する答申が示唆している新しい後期中等教育の構想を現行法規の中でわれわれ流に実現してみせたもの」(20)と述べている。 鈴木教育長も教育白書とともにこの答申にふれていることを考え合わせると、 技高の本格的な検討時期にタイミングよく示された経済審議会答申が、 技高の青写真を描く上でかなりの影響を及ぼしたのではないかと考えられる。
(2) 学校教育と職業訓練との連携
 先に取り上げた 「人的能力政策に関する答申」 より以前に出された、 同じ経済審議会による 「所得倍増計画にともなう長期教育計画報告」 (60年10月25日) の中に、 技高の構想にあたってヒントとなる提言が含まれている。 たとえば、 「定時制高校と職業訓練制度との連繋」 との項には、 「中等教育の一環として青少年にたいし高校教育と職業訓練の二重の負担を軽減するための能率的な運営を行ない、 高等学校教育と技能訓練との協同をはかること、 さらに才能ある技能者に技術者への道を開くべきである」 とある。
 この 2 カ月後に出された有名な 「所得倍増計画」(60年12月27日) には、 次のように書かれている。
  「中等教育の完成は高校教育によってのみ達成されるべきものではない。 将来は職業訓練、 各種学校等の青少年に対する各種の教育訓練を中等教育の一環とすることに資する政策を確立することが必要である」
 ところで、 学校教育と職業訓練との連携については、 これよりもさらに古く、 57年12月に出された臨時職業訓練制度審議会による 「職業訓練制度の確立に関する答申」 において、 すでに以下のような記述を見ることができる。
  「職業訓練は、 主として応用的実地の訓練を目的として行なわれるものであるが、 その教育内容には学校における教育と関連するところが多いので、 特に定時制高等学校及び通信教育については、 労働者の二重負担をさけるなどの見地から、 両者間において一層緊密な連けいと調整を図るため適切な方途を講ずることが必要である」

(3) 高校多様化の先取りとしての技高
 神奈川の技高制度とは、 職業訓練所 (後に訓練校と名称変更) に高校を併置した独自のものだが、 これによく似た構想や提言が、 国レベルでもかなり古くからあったことがわかる。 発案者自身の発言などから、 教育投資論や 「人的能力政策に関する答申」 などを理論的なバックボーンとしつつ、 直接的には西ドイツのベルーフス・シューレ (職業学校) をモデルに技高が設立されたと見てよいとは思うが、 先に紹介した57年の臨時職業訓練制度審議会答申をはじめとした 「訓学連携」 の水脈がいくつもあったことも忘れてはならないだろう。
 何度も引用している 『教育と文化』 誌上の座談会で、 次のような発言があった。
  「(略) しかし、 国の文教政策がどうであれ、 神奈川という土壌は、 どちらかといえば非常に柔らかく、 しかも予見性、 先見性に富んだ教育行政を歴代の教育長が行なってきたということがいえると思います」(21)
 詳述してきたように、 技高は当時の教育長や労働部長がその構想を示し、 それを受けて教育次長や指導主事が制度化に奔走し、 その実現をみた。 いわば、 県教委幹部の強力なリーダーシップの下、 トップダウン方式によって 「技術高校」 という名の高校多様化のモデル校が全国に先駆けて神奈川に誕生したのであった。
 技高の設立は、 その後の中教審答申 「後期中等教育の拡充整備についての答申」(22) などで示された高校多様化を先取りしたものとして考えるならば、 「先見性に富んだ教育行政」 の好例といえるかもしれない。 とはいえ、 わずか10年余で 「廃校」 に追い込まれるとの 「予見性」 をこのとき、 持ち合わせていた者は誰もいなかったに違いない。
 技高開校 2 年後の65年 2 月、 日本経営者団体連盟 (日経連) 教育特別委員会から、 「後期中等教育に対する要望」 が出されているが、 この中で 「公共職業訓練施設を母体とする公立の技能高等学校の設立」 が提唱されている。 さらに同委員会は、 中教審の 「後期中等教育の拡充整備についての答申」 (66年10月31日) が発表される直前の同年 8 月、 「技能高等学校の構想」(23)を出している。 この技能高校はまさしく、 技高の全日制版であり、 財界が高校多様化先進県・神奈川における技高という先駆的モデルを高く評価していたと見ることはできないだろうか。
      (次号につづく)

【注および参考文献】
(1) 神奈川県教育委員会 『神奈川県立の技術高校』 1965年11月。
(2) 大貫啓次・中村修・葉山繁・綿引光友 『これが高校か―差別・選別される高校生―』 73年 8 月。
(3) 前掲書 (1)。 大船技高校長に発令された笹尾利男氏は、 指導主事のまま校長職と兼務し、 10月31日までの 7 カ月間在職した。
(4) 県立相模原工業技術高等学校 『創立30周年記念誌』 93年10月。
(5) 県立大船工業技術高等学校 『開校10周年創立20周年記念誌』 82年11月。
(6) 『神奈川県立の技術高等学校史』 (76年 2 月) には、 各技高の学級担任の一覧が資料化されているが、 それによると、 川崎では 2 年目の64年度になっても、 すべての学科の担任を教頭が担当していた。 これが事実だとすると、 教頭が 6 クラス分の生徒指導要録を 2 年間で、 あわせて12クラス分も記入したことになるわけだが、 これは相当な過重負担だったと思われる。
(7) 柏木操男 「神奈川県立の技術高等学校の設立と廃止(T) ―高度経済成長時代における産業教育の一例―」 神奈川県戦後教育史研究会 『神奈川県戦後教育史研究』 第 2 号、 98年 5 月。
(8) 前掲書 (5)。
(9) 前掲書 (1) 3 ページ。
(10) 「県立高等学校における専門教育の拡充整備のあとを振り返って (戦後教育史資料・座談会)」 県立教育センター 『教育と文化』 第14号、 79年 3 月。
(11) 前掲書 (7)。
(12) 前掲書 (10)。
(13) (14) (15) (16) 前掲書 (5)。
(17) これは単なる偶然の一致にすぎないが、 工業技術高校の場合も、 技高廃止の通知 (72年11月24日) が出されてからわずか 4 カ月足らずの準備期間で翌年 4 月、 開校している。
(18) 前掲書 (5)。
(19) 前掲書 (10)。
(20) 前掲書 (1) 36ページ。
(21) 前掲書 (10)。
(22) この中教審答申はよく知られた 「期待される人間像」 とあわせて出されたものだが、 この中で 「生徒の適性・能力・進路に対応するとともに、 職種の専門的分化と新しい分野の人材需要と即応するよう改善し、 教育内容の多様化を図る」 と 「高校多様化の推進」 が示されている。 以下の記述は、 『神奈川県立の技術高校』 の中で述べられている考え方と共通しているように思われる。 「学校中心の教育観にとらわれて、 社会の諸領域における一生を通じての教育という観点を見失ったり、 学歴という形式的な資格を偏重したりすることをやめなければならない。 職業に対して偏見をもち、 人間の知的能力ばかりを重視して、 技能的な職業を低く見たり、 そのための教育訓練を軽視したりする傾向を改めなければならない。 また、 上級学校への進学をめざす教育を重視するあまり、 個人の適性・能力の自由な発現を妨げて教育の画一化をまねくことは、 民主主義の理念に反するばかりでなく、 個人にとっても社会にとっても大きな不幸であることを、 深く反省しなければならない」
(23) 技能高校とは、 「技術革新の進展にともない、 産業の必要とする技能は今後ますます多様化、 高度化するが、 こうした変化に対応し、 企業の現場生産組織の中核となる多能熟練技能者を育成することを目的とする」 とある。 「現行の学習指導要領にとらわれることなく (しかし充分に参考にしながら)」 とのただし書きの下、 機械科の教育課程例が示されている。 技高並みの年間43週授業 (夏休み 3 週間)、 3 年間で156単位 (うち86単位が実習) を履修するようになっている。

(わたひき みつとも 県立相模原高校教員)
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