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格差社会に漕ぎ出す宙船たちへ
〜栗原高校・25期生の進路に寄せて〜
旭高校教員 橋元 祐子

 11年間勤めた栗原高校で、 2 度目の卒業生を送り出して10日後、 多分最後になるであろうひとりの男子生徒の就職が決まった。 地元の中小企業への技能職である。 求人数の増加と、 就職担当の熱心かつ懇切丁寧な指導の甲斐あって、 今年度の就職希望者の内定率は他校に比べても高いものであったと聞いている。 大学進学者も指定校枠の広がりやAO入試、 スポーツ推薦が功を奏して昨年比で倍増しており、 いわゆる 「フリーターでよい」 未定者の少ない学年として終わることができた。
 さて、 【格差社会と学校 (昨年度) 〜高校 (今年度)】と題したシンポジウムに参加して感じることは、 「格差社会の進行と定着〜教育現場への影響」 という状況認識が共有され、 そしてその遠因についての再整理がされた訳であるが、 同時に「教育の問題は教育では解決できない」という認識も共有され、 特に今年度はどこに焦点を絞って発言すればよいのか、 フロアーで頭を抱えたまま途方にくれるという状況ではあった。 問題の所在に気づいた者として、 いったい何が言えるのか。 できるのか。
 冒頭で紹介した、 今年度の高い就職内定率の背景には、 多くの男子生徒が技能職を敬遠せず、 むしろ積極的に選び取っていったことがあげられるだろう。 どちらかというと接客やサービス業には向かない、 地道にコツコツ…と言うタイプの生徒が多かったということにつきるのかもしれない。 2 年次の最後に、 総合学習の一環として設けた講演会 「働き続けるために〜今必要なこと、 いつか必要になること」 で、 キャリアアドバイザーの横山滋氏は、 やがて多くの生徒が直面するであろう労働現場の厳しい現実に、 泣き寝入りせずに立ち向かう姿勢の大切さと方策を熱く語るとともに、 日本の中小企業における 「モノづくりの価値」 を、 「鉄の塊が数千倍の価格に跳ね上がる技術の凄さ」 を、 実物を高く掲げて示してくださった。 技能職への就職が、 その講演の成果であるということはできないまでも、 3 年間の総合学習で積み重ねてきたことを思い返してみたい。
 私は家庭科の教師である。 大学の研究室に、 置き土産として日教組の全国教研誌 「日本の教育」 を選び、 社会情勢を踏まえた家庭科の未来像、 全体像を意識しつつ自主編成に取り組んできた身にとって、 文科省の 「キャリア教育」 の呼びかけは寝耳に水であった。 「これまでの学校教育では自らの生き方を探求するための取り組みがなされてこなかった」 ???
 さっそくキャリア教育に対して感じた疑念を、 家庭科の立場から整理し、 レポートとして全国教研に提出したのは 3 年前のことである。 時を同じくして、 本校でも総合学習の中でキャリア教育を展開するという事が、 充分な議論も無いまま決定し、 某教科書会社発行の 『産業社会と人間』 の項目そのままの指導計画が当時の総合学習委員会より提案された。 当時はまだ、 「格差社会」 という言葉も認識も共有されてはおらず、 それに変わる指導目標も計画もまっさらの状態なのにもかかわらず、 とにかく運用も中身も学年に任せて欲しいと要望し、 担当の 3 名で手探りの、 しかし思い通りの展開をさせていただいた。
 今、 改めて当時の 『産業社会と人間』 を読み込むと、 格差社会の定着の大きな要因である 「非正社員の増加」 をグローバル化における日本経済の方向性として当然であると容認する姿勢がベースとして貫かれており、 「格差社会に個人で立ち向かえ」 というメッセージに満ちている。 キャリア教育は、 生き方の中心に仕事を据えて、 奴隷のように安く・長時間使われても解雇されても、 自らのキャリアを磨き、 あくまでも自己責任で乗り切れるようガンバロウ!という、 まさしく教育による心性操作そのものとなる可能性を持っている。
 しかし、 キャリア教育は、 「様々な立場や役割の連鎖」 と訳される 「キャリア」 という言葉そのものが持つとらえどころの無さと、 神奈川では 4 つの能力が 5 つとして提示されていることなどから、 各校でいかようにも運用できる幅の広さも併せ持っていると考えることもできるのである。
 地元の技能職を選んだ男子生徒たちが重視したのは≪賃金≫と、 ≪家から近い≫という 2 点と、 ≪社会保険完備≫であった。 手取りで18万円という会社には希望者が集中した。  当学年では、 「仕事での自己実現」 を志向させるなど、 「夢をかなえよう!」 方式のキャリア教育は敢えて回避し、 あくまでも現実的に、 ≪お金と時間≫をキーワードに据えた。 「 1 ヶ月生活するのにいくら必要なのか?」 「 1 日の残業時間が長いと、 私生活にどんな影響を与えるのか?」 を、 18歳から80歳までの自分の人生を見通すという時間軸の流れの中で考えていくという家庭総合・ 2 年次の授業展開をベースとしつつ、 総合学習では給料表や求人票の読み方・チェックポイントを確認する、 というコラボレーションを行ってきた。 また、 3 年次には全員が必修科目として政治経済を学ぶという今時稀有なカリキュラムが敷かれており、 さらに全クラスを当研究所の所員である手島純氏が担当する中で、 当学年の生徒は労働法の知識を得ることはもちろん、 格差社会そのものについて考えるという機会にも恵まれた。
 1 日 8 時間働いて、 月20万円の手取り収入  があり、 社会保険が完備されていれば、
  1 人でも生活できる。 健康で文化的な生活  を営むことができる。
 そして、 2 人分の時間とお金を合わせれば  余裕を持って子供が育てられる。
 ともすれば何割かはかなりの確率で 「D層」 に沈殿するやもしれぬ生徒たちが、 技能職を選び取り、 高卒の時点でまがりなりにも正社員としての身分を確保出来たこと。 それは 3 年生の、 卒業希望者全員が卒業できたことと並ぶ、 私たち学年団にとっての大きな喜びである。 卒業式の前日、 就職者と未定者にはささやかな願いを込めて、 労働手帳を手渡した。
 キャリア教育は限りなく胡散臭いし面倒くさい。 しかし、 進学重視のあまり、 何もやらずに済ます方策に走ることも、 素直に4つの能力を検証も無しにそのまま活用することもできれば避けたい。 中でも 「意思決定能力」 を優先するあまり、 家庭科や社会科の必履修科目を最低単位に抑え、 選択科目を増やす傾向が強まっていることには大きな危惧を覚える。
 キャリア教育のとらえどころの無さを活用し、 長年培った実践と現場の実感をもとに、 各校の生徒の背景や実態に応じたキャリア教育を創ることもできるのではないか。 「キャリア教育と言う言葉を使わずに」 という提案もあるが、 敢えて、 「つけたい力」 そのものから考える機会、 教科の枠を超えての実践ができる機会ととらえることもできるのではないか。
 教育の成果がいつどのように現れるかなんて、 誰にもわからない。 しかし、 グローバル資本と言う巨象に立ち向かうことはできないまでも、 私たちは、 アリのように情報を伝達しあって踏み潰されずにすむ道筋を探すことはできるのではないだろうか。

  (はしもと ゆうこ)
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