ねざす談議(32)
「愛」 そして 「敬虔」

 
小山 文雄

 漱石門には同時期に アベ が二人居た。 一人は阿部次郎、 もう一人は安倍能成、 まぎらわしいので漱石夫人は取り次ぐ時に能成の方を アンバイヨクナルあべさん と、 病床の漱石に験のよい呼び方をしたと言う。 両アベ共に一高   帝大哲学科の英才で、 文芸評論ではもっぱら反自然主義の先頭に立って活躍していた。 漱石先生もむろん反自然主義だから、 格好の尖兵といった役割を果たしていたともいえよう。
 両アベ共に漱石先生への傾倒は目立っていたが、 殊に次郎は 「名前抜きの 『先生』 の呼称をもって、 自分も怪まず仲間の間にもそれだけで通用してきたのはただ二人です」 として、 「一人は夏目先生、 もう一人はケーベル先生」 をあげていた。
 その次郎が初めて漱石先生の下に赴いたのは、 ちょうど 「朝日文芸欄」 が漱石先生を後楯として始まった頃で、 次郎はそこに論考を寄せたりすることになる。
 次郎は大正四年一月刊の 『三太郎の日記』 をもって人格主義の立場を押し進めていき、 先行の西田幾多郎 『善の研究』、 後発の出隆 『哲学以前』 と共に 大正教養派 とそれにつながる者の必読の書となった。 大正15年生れの筆者にとってもそれらは 思索   思想 というものの原点となった。
 懐かしさはさておき、 『三太郎の日記』 が刊行され、 その寄贈を受けた漱石先生は、 お礼の手紙の中で 「あの 『三太郎の日記』 という名は小生の好まぬものに候」 と歯に衣着せずに不満を伝えていた。 というのも 「三太郎」 という名は小僧や丁稚の別称とされ、 「阿呆の三太郎」 とか 「大馬鹿三太郎」 といったふうに蔑みの名としてもっぱら使われており、 それを承知の上であえて 『三太郎の日記』 と題する次郎の姿勢が、 漱石先生の美意識に好ましくは映らなかったのだ。 むろん次郎は一切承知の上で、 むしろそれだからこそあえて 「三太郎」 を冠したのは屈折した若者として自身を示すのは、 これこそ最もふさわしいとの思いに立って、 わざと裏返してみせることによって自己主張の強烈を示したかったからにほかならない。 それは自意識過剰と言ってもよい。 しかし漱石先生から見ればそうしたひねりは単なるこけおどし、 あるいは厭味としか受け取めようがなかったのだ。
 それは年の差とあわせての生き方の方向の違いにも関わる。 ひとひねりもふたひねりもしなければ気が済まぬ若さと、 むしろ率直簡明こそ有用とする熟達との相違とともに、 明治と大正という時代差に由来するところも少なくないと言える。
 さて、 思索の軸を教養主義と人格主義におく阿部次郎が、 昭和七年暮に発表した小論に 「教育時評」 がある。 この年は上海事変そして中国の抗日運動の激化、 また国内では血盟団事件につづく五・一五事件、 国際的には満州国承認、 リットン報告書、 ついに国際連盟脱退と、 国際的孤立の道を進む。 そうした荒れていく時代を 「深憂」 しつつ阿部は教育を語る。
  「今の教育に教師と学生との心をつなぐ結紐があるか。 教師の側に本当に学生の一生のことを思う愛があるか。 学生の側に本当に学校から学びとろうとする敬虔があるか。 愛によって与え、 敬虔をもって受け取り、 与うるものと受け取るものとの間をつなぐ心の通いがあればこそ教育は成立する。 この結紐を欠く教育とは、 一体何者であるか   私の深憂するのはわが国の教育界におけるこの点の欠亡である」。 愛   敬虔、 あまりに古風なと思わずくしゃみをしてしまう人もいるかもしれない。 それを承知のうえで、 あえて取りあげたのは、 雑駁・錯雑・殺伐の中に浸され勝ちな教育   「わが愛する」 教育への思いの高まりからだ。 むろん 「愛」 「敬虔」 はそれぞれに方向を変えても働く。 教師   敬虔、 学生   愛も大切なのは言うまでもない。
 阿部は又 「深穏」 にも触れていう。   「深穏とは一種特別な穏やかさである。 深味のある穏やかさである。 深味によってその性質に特殊な風格を帯びるに至った穏やかさである。 そしてその境地に到って穏やかさは、 いわゆる 『円満』 といった消極性を脱し 『内心の composure (平静)』 から放射するおのずからなる柔らかさ、 『煦々 (くく) たる好日』 (息を吐いて温められるような晴れた好い日) のような静かなる輝きを意味するようになる。」
  「愛   敬虔」 にせよ 「深穏」 にせよ、 猥雑な政治や行政とは無縁の地点に位置する。 それだからこそ、 「教育」 の場から、 あえて古めかしい語をもってここに発信する。 わが思いを汲みとって頂ければ幸いである。

(こやま ふみお 
教育研究所共同研究員)

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