日本史必修化問題

高等学校における日本史の必修化に向けて


 
引地孝一

は じ め

 この課題の発端は、 平成18年 2 月県議会の論議で取り上げられたことにある。 松沢知事に 「国際社会に生きる日本人としての歴史教育の必要についてどう考えるか」 という教育関係の質問があった。 これに対して、 知事は 「世界史とともに日本史も必修化して、 すべての高校生に学んでもらいたい」 旨、 答弁した。
 私は日頃から、 職員には 「心にかかることはそのままにしないこと」 が大切だと、 日々話をしてきた。 「心にかかること」 は、 様々な人の経験であり、 それをもとにした勘である。 自分として納得行かない場合は、 声に出して言うことが大切である。 この時まで、 高校で日本史が選択で、 世界史が必修ということを知らなかった。 県民の皆さんも、 こうした教科設定に教育現場がなっていることを知らないのではないかと思った。
 一度決めたことであっても、 時代の変化に応じて見直すことも必要だが、 日本社会では、 一度決めてしまうと見直すことができない風土があるように感じていた。 現在の枠組みとなったのは、 平成元年の学習指導要領の見直しによるものである。 当時最大の課題は社会科を地理歴史科と公民科に分けることであり、 戦後設けられた 「社会科」 という枠組みを二つに分けることの是非が教育課程審議会で議論された。 そうした状況の中で、 小学校 6 年生の社会科と中学の社会科の歴史的分野に関する学習内容が人物を中心とした学習や日本史を中心とした学習に変わっており、 世界史的な知識を高校で必修にすることで必要な内容を網羅すると言う観点から世界史の必修が決められた。 しかし、 日本史との関係も含め、 必修化の議論は国民には示されず、 ほとんどの人は経過を承知していない実態にあった。 背景には、 社会科から地理歴史科を分け、 日本史、 世界史、 地理の 3 教科から 1 科目を選択すれば世界史の選択者は激減するとの危機感を、 関係者が持ったことにあると言われている。 当時の時代背景として、 「グローバル化」 が叫ばれていたこともあり、 国際的な人材育成の必要性から、 世界史必修化が決められた。
 以来、 約20年近く世界史必修は変わらず、 国民に向かって問題提起する人もいなかった。 学習指導要領の見直しが行われている中で、 ここで問題提起して議論しなければ、 平成元年の見直し以来、 結果として30年に渡って 「世界史必修、 日本史選択」 となってしまうことに私は疑問を持ち、 行動することとした。 その後、 平成18年10月には、 全国で教科の未履修問題が取り上げられ 「世界史が必修で、 日本史が選択」 ということが、 国民の間でも知られるようになっていった。 ただ、 教科の未履修問題と日本史の必修化は同じレベルで議論すべきものではない。

神奈川の実態と全国の傾向

 この問題に取り組むには、 まず、 本県や全国の状況を把握することが必要と考え、 事務局の高校教育課に、 日本史の履修状況を調査して貰った。 日本史が選択であっても、 本県の県立高校152校中151校で科目を持っており、 県立高校生はきちんと学んでいると思っていた。 調べてみると、 平成17年度全日制・定時制を含む県立高校生36,570人のうち、 日本史の履修は26,339人 (72%)、 履修していない生徒が10,231人 (28%) であった。 実に本県では、 約 3 割、 1 万人の高校生が日本史を高校で、 全く学んでいないという結果であった。 このことにも大変驚いたが、 制度を変えるには、 今の制度を前提として色々なことが動いており、 問題として取り上げても改革の難しさはあると思った。 一番課題だと思ったのは、 日本史の必修化を進めると大学入試への影響がでるのではないかと懸念していた。 そこで、 大学入試センター試験を調べたが、 平成18年度の受験生358,858人の選 択は、 日本史149,794人 (41.7%)、 地理117,331人 (32.7%)、 世界史91,733人 (25.6%) の順になっており、 「必修」 の世界史と 「選択」 の日本史の差は人数にして45,000人も日本史の方が多い実態がわかり、 懸念は払拭した。 私学も調べてみたが、 同様の傾向にあることが推測された。
 教育長になってから、 高校生と話をする様々な機会があったが、 高校生からも 「自分の国の歴史は大切だと思う」 という声が多かった。 特に、 海外派遣で諸外国に出かけた高校生からは、 「相手の国の高校生は、 自分の国の歴史をよく知っていた。 私たちは自分の国の歴史を知らず、 恥ずかしい思いをした」 といわれることが多かった。 戦後日本が復興し、 高度経済成長を経験していく過程で、 欧米先進諸国に追いつき、 国際的な視野をもった人材育成のため、 世界史の必修化ということも、 一面では理解できないこともない。 しかし、 現実を見た場合、 今の時代は高度経済成長時代ではなく、 成熟化した時代であり、 求められる感性も、 時代と共に変わってくる。 これからの時代は、 「共感」 というキーワードが大事な時代である。
 今の日本社会において、 求められるものの一つに他人を思いやる心の醸成がある。 この考え方は、 平成19年 8 月に県教育委員会が策定した、 「かながわ教育ビジョン」においても、 三つのめざす 「人間力」 像の一つとして掲げられている。 歴史という過去を学ぶことは、 日本が前に向かって進むためにも、 必要なことであり、 自国の歴史や文化について、 きちんと学んでいくことが求められる。 歴史は過去を振り返る回顧的な面と、 将来に前向きに対処する積極的な面がある。 歴史そのものが、 古いこととともに新しいものの指標を示してくれるものではないかと思う。 フランスの史学者ラングロア (1863〜1929) は歴史の出来事について 「史料は出発点であり、 事実は到達点である。 この出発点と到達点の間に、 相互に密接に織り合わされ、 無数の誤りのある錯覚した推理の連続をたどらなければならない」 といっている。 歴史の事実をどう理解するかは、 やさしいようで難しい問題である。
 21世紀は第三の開国といわれるように、 日本がこれからの時代をどう生き抜いていくのか問われている。 その意味においても、 日本の歴史や文化をきちんと理解することが大切である。 成熟化した時代において、 心の問題は大きなテーマであり、 国際社会で通用する人材の育成のためにも、 歴史を通じて日本人らしさを学ぶということがあってもよいのではないか。

新たな展開

 平成18年 5 月から、 毎月定例の記者懇談会を行っていた。 教育行政が取り組んでいる様々な施策や考え方を直接記者の皆さんに話をすることで、 理解いただきたいとの思いから取り組んだものである。 そのおり、 教育長として、 日本史の必修化を目指した取り組みを今後していきたいという趣旨のことを話したことが、 大きな話題となった。 以来、 様々な機会にこの考えを県民の皆さんに問いかけたが、 ぜひがんばってほしいという声が圧倒的に多かった。
 この問題は神奈川だけの問題ではないことから、 日頃から付き合いのある東京、 千葉、 埼玉の教育長と相談し、 理解をいただいた上で、 国へ要望する事としたいと考えた。 平成18年 8 月31日千葉県ホテルポートプラザで、 平成18年度第 1 回の首都圏教育長協議会が開催され出席した。 そのおり、 本県から二つの議題を提出した。 その一つが 「高校における日本史の必修化」 であった。 「次代を担うこども達が、 国際社会の中で日本人としての自覚を持ち主体的に生きていく上で、 必要な資質や能力、 そして日本人としての心を育成することは極めて重要であり、 そのためには、 まず、 わが国の歴史や文化、 伝統に対する理解や教育が必要との観点から、 日本史の必修化を文部科学省に求めること」 を提案した。
 まず、 私から提案趣旨の説明を経過も含めて報告した。 特に、 学習指導要領の見直しが、 今後予定されていることから、 あまり遅くならない時期に要望したいということも含め、 賛同を求めた。
 事前情報では、 1 都 3 県でまとまるかどうかは微妙な状況とのことであった。 趣旨説明の後意見交換したが、 意外に思ったのは東京の意見であった。 東京は独自に、 伝統文化や奉仕活動の必修化を検討していたので、 日本史の必修化にはもろ手を挙げて賛成とは行かないのではないかと思っていた。 東京の中村教育長は 「国語と日本史は、 必修化すべきことは当然である。 必要なら、 全国教育長協議会でも議論しても良い」 と述べられた。 私は 「今回は文部科学省との関係も有り、 スピード感を持って、 まとめたいのでこの場で結論を出したい。 具体的な方法論は、 それぞれ意見もあると思うので、 その部分は別紙に参考として記載し、 必修化を求める要望書として整理したいので、 賛同して欲しい」 旨提案した。 高校だけの問題ではなく、 中学校も含めた全体の科目の整備も含め検討し、 バランスを考えるべきとの意見もあり、 そうしたことも踏まえた案文を整理し、 1 都 3 県の教育長名で 9 月中旬までに文部科学省に提出することの合意ができた。 改革に向けて、 ようやく第一歩を踏み出すことになった。
 日本人が国際社会において、 日本人としての自覚を持って、 主体的に生きていくためにも、 自国の歴史、 文化、 伝統といった日本の良さをきちんと学ぶことが、 今、 求められている。
 平成18年 9 月12日に、 文部科学省に出向き、 要望書を提出した。 要望書では 「高等学校においては現行の学習指導要領により、 世界史が必履修科目、 日本史・地理はいずれかを必ず選択して履修する科目となっている。
このため、 日本史については、 中学校 『社会』 の歴史的分野では学習するものの、 高等学校では履修することなく卒業してしまう場合もあり、 若い世代を中心に日本史の知識を十分にもたず、 国際社会の中で日本の歴史や文化を語ることができない者が増えているのではないかと危惧するところである」 と訴え、 すべての高校生に日本史を履修させることを求めた。 同時に、 この問題は高校生だけの問題ではないことから 「小・中学校社会科の学習内容や、 高等学校地理及び歴史のバランスなどについても併せてご協議いただきたい」 と要望書に明記した。
 銭谷初等中等教育局長 (現文部科学事務次官) からは、 「要望の趣旨は、 よくわかった。 現在、 中央教育審議会教育課程部会において、 学習指導要領全体の見直しの中で、 小・中・高等学校の社会科、 地理歴史科の改善について、 審議いただいているので、 速やかに、 要望の趣旨をお伝えし、 審議いただくこととしたい」 旨の答えをいただいた。 この問題に対して、 出された要望をきちんと文部科学省の教育課程部会で、 議題として取り上げ、 様々な角度から審議し、 良い方向の結論を出されることを期待していた。 要望書を出した際の記者会見でも 「県が独自に必修化する道もあるのでは」 という質問を受けたが、 「日本史の必修化は、 県内の高校生だけの問題ではない。 日本全体の問題として議論を広げることが重要で、 国に制度改革を求める必要がある」 と答えた。
 要望書を提出して以降、 他県でも趣旨に賛同する動きがあり、 茨城県、 石川県では県議会が日本史必修化の決議をするなど、 世論の高まりがあった。 政府の規制改革会議からも、 世界史必修の見直しを求める答申が出された。
 こうした動きにもかかわらず、 平成20年 1 月17日中央教育審議会答申で今回の学習指導要領改訂において、 日本史の必修化は見送られ、 現状どおり世界史必修が決まった。 その理由として、 答申では 「現在、 世界史から、 1 科目、 日本史、 地理から 1 科目の計 2 科目が選択必修科目となっている地理歴史については、 小・中学校において、 日本史や日本及び世界の地理の学習が行われているという現状を踏まえると、 高等学校における現行の必修科目の定めには一定の合理性があり、 現実的な選択肢である」 としている。 国に意見を出した時にも、 小中学校も含めた全体の科目の内容を再検討すべきであることも指摘したのに、 見直しがされなかったのは大変残念である。 中学校の社会科の授業数は今回の学習指導要領改訂で、 従来の295時間から350時間へと55時間増加しており、 トータルに見直せば中学校で世界史の基礎を学ぶ改訂もできたのではないかと思うと、 全体のバランスが本当にこれで良いのか疑問を感じた。
 1 年 5 ヶ月も前から提案し、 真摯な議論を重ねていただいた結果だとは思うが、 今回のことで、 次回の改訂が10年先になることを想定すると、 30年にわたって、 世界史必修ということになるが、 本当にこれでよいのか、 国は国民の声に耳を傾けるべきではないかと残念に思う。 一方、 答申では今後の方向について、 「世界史の内容について、 日本史や地理との関連を一層重視するなどの観点から見直す必要がある。 なお、 地理歴史に関する総合的な科目の設置については、 具体的な教育内容の在り方等について今後さらに検討する必要があると考える」 とも記述しており、 今後に向けて一定の見直しの方向が示されたことは、 新たな前進であり、 国の積極的な検討を期待したい。

今後の方向

 こうした国の動きを踏まえ、 神奈川県教育委員会としては、 校長の理解のもと、 新たに日本史必修化に向けた方針を打ち出すこととし、 平成20年 2 月14日の教育長定例記者懇談会で発表した。 具体的には各学校が日本史必修を行いやすくするために、 県独自の日本史に関する新たな学校設定科目の創設に向けた研究及び試行を始めることとし、 二つの方向を決めた。 一つは、 神奈川の郷土の歴史を通して日本や世界の歴史を学習する科目、 もう一つは日本や世界の近現代史を総合的に学習する科目の創設について研究することとした。
 都道府県が独自に特定の学校設定科目を必修としている例は、 東京の 「奉仕」 などあるが、 日本史の必修化は全国で初めてのこととなる。 今後、 関係機関と連携し研究を進めていくが、 研究の成果は求めに応じて、 他県にも提供するなどし、 こうした動きが広がることを期待していきたい。 国においても、 ぜひ次回の学習指導要領の改訂に向けて、 引き続きの検討をお願いしたいと考えている。
 結果として、 30年 「世界史必修、 日本史選択」 となることについて、 国民の共感を得ているかどうか、 文部科学省は明確にする責務がある。 平成19年12月に学習指導要領に関するアンケート調査結果が内閣府から発表されたが、 地理歴史教育について特定の 1 科目のみを必修とする場合、 必修とすべき科目は何かを問う質問に対する回答として、 「日本史 (11.7%)」 「地理 (8.3%)」 「世界史 (5.6%)」 という順であった。
 日本史の必修化を打ち出してから、 色々と報道関係者からも取材を受けた。
 一つ紹介すると、 「今何故、 日本史なのか」 という問いに、 「決して愛国心教育というとらえ方をしている訳ではない。 今の教育課題を考えると、 神奈川もいじめ、 不登校、 暴力行為が大きなテーマとしてある。 教育行政の責任者として感じるのは、 今の日本人には思いやりの心が欠けているのではないかということ。 思いやりは歴史、 伝統、 文化の中で育んできた。 その良さをもう一度見つめなおすべきだ。 また、 私が大事にしているのは、 発達段階に応じて日本史を学ぶことである。 高校生は非常に多感で色々なことを理解できる。 そういう時期に日本史を学ばない生徒が 3 割いると知ったときに、 教育長としてこのまま見過ごすわけにはいかないという思いを強く持ったのが発端だ」 と答えた。
 現在、 教育委員会ではプロジェクトチームを設け具体的な作業に入っているが、 日本の社会科の歴史に足跡を残す大きな仕事となる。 こうした状況の中、 横浜市教育委員会が平成21年 4 月に先端科学技術の教育拠点として開校する 「横浜サイエンスフロンティア高校」 において、 2 年生で日本史A ( 2 単位) を必修科目とする方針を固めたとの報道がされた。 同じ県内の高校生として、 横浜だけでなく、 川崎や横須賀の市立高校や私学にも、 こうした動きが広がることを期待したい。 また、 他県での検討にも良い影響を与えるのではないか。 横浜市教育委員会は 「世界で幅広く活躍していくために、 日本の近代化の過程から先人の成果を学び、 誇りを持ってもらいたい」 とコメントした。 これは、 時代の変化を的確にとらえた考え方だと思う。 県教育委員会にとっても、 こうした動きがあることは、 心強いものとなると思われる。
 時代の変化に応じ、 柔軟な考え方を持つことは、 神奈川県のめざす 「心ふれあう、 しなやかな人づくり」 にも合致するものである。
実現に向けて、 色々と困難なことがあると思うが、 県教育委員会をあげて、 きちんとした答えを出してくれるものと期待している。 高等学校における日本史必修化の議論は、 日本が抱える課題と比べれば、 小さなことかもしれないが、 新たな時代に向けて、 日本を見つめなおす機運を盛り上げる、 改革の第一歩になればと願うものである。

神奈川県信用保証協会会長
  (ひきち たかいち 元神奈川県教育長)
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