ねざす談議(34)

「干からび」 に寄せて

 
小山 文雄

 半年余り前、 朝日新聞に作家藤本義一氏のインタビュー記事の中で、 「戦後日本の歩みを一言でいえば、 干からびていったということじゃないか」 という言葉が目に止まった。 干からびるは乾ききること、 なにが?   心のうるおいが、 つまり人々の心から、 あるいは世の中から瑞瑞しさが消えていったということだ。 別の表現を使えばしっとりした空気が流れなくなり、 静かで落着いた思いが通いあわなくなったということだろう。 がさつ・がさがさ・粗野・粗暴が時を得顔にのさばり始め、 行きつく先は騒然の世   とならなければよいが……。
 実は今から30年余り前、 現代民主主義の担い手として重要な或る学者の知人への手紙の中に、 次のような一節を見たことを思い出したのだ。
  「電話でちょっとお話したように、 昨今の精神的荒廃にはもういうべき言葉もありません。 どうしてこうわれわれの民族は歯どめがきかないのでしょうか。 伯夷叔斉の心境になります」
 なんとも重たい表白ではないか。 伯夷叔斉は中国の周の時代に、 武王を諌めて聞き入れられず、 その禄を食むことを拒み、 節を通して首陽山に隠れついに餓死した兄弟、 清廉潔白な人のたとえとなっている。
 干からび   精神的荒廃とつないだところから、 もう一度干からびに戻せば、 百年ほども遡ったそこに夏目漱石が見える。
 明治43年 8 月、 長与胃腸病院に入院中だった漱石は、 そこから伊豆修善寺温泉転地療養に移る。 ところがそこで激しく吐血し、 一時は危篤を伝えられるほどの重態となり、 10月上旬まで逗留し、 そこから又胃腸病院に入院となった。 その間の経緯を綴ったのが 「思い出す事など」 なのだ。 その中の或る章を漱石は次のように書き起こしていた。
  「余は好意の干乾びた社会に存在する自分を甚だぎごちなく感じた。
 人が自分に対して相応の義務を尽くして呉れるのは無論難有い。 けれども義務とは仕事に忠実なる意味で、 人間を相手に取った言葉でも何でもない。 義務の結果に浴する自分は、 難有いと思いながらも義務を果たした先方に向かって、 感謝の念を起し悪い。 夫が好意となると、 相手の所作が一挙一動悉く自分を目的にして働いてくるので、 活物の自分に其一挙一動が悉く応える。 其所に互を繋ぐ暖かい糸があって、 器械的な世を頼母しく思わせる。 電車に乗って一区を瞬く間に走るよりも、 人の背に負われて浅瀬を越した方が情が深い」
 こうした 「干からび」 の思いの系譜をどう受けとめるか。 そこに 「文明」 の流れを見るか、 人間論で受けとめるか、 あるいは 「系譜」 とせずに偶然の現象とうち捨てるか、 その選びはひとまずおこう。 いま私の思いの底から浮かび上ってくるのは、 64年前の夏、 敗戦のその日、 二十歳の学生だった私は死に向かわねばならない恐れから解放され、 「自由」 への限りない期待に心踊っていたのだ。 すべては 「自由」 が解決する。 ひとりひとりに委ねられた未来への志向、 「民主主義」 はその保証の印、 誰が何と言おうと 「自由」 は私のもの、 「大」 も 「帝」 も姿を消した 「日本国」 憲法そして 「教育基本法」   個人の尊厳・真理と平和・普遍的にして個性豊かな文化の創造、 かつて口にしたことのない言葉ひとつひとつが身に染みた。 こうして新制高校発足のその年、 教育勅語・軍人勅諭などが失効排除されたその年、 私は湘南高等学校の教諭となり、 始めて教壇に立ったのだった。 教科も新発足の社会科、 新生日本の申し子、 そんな思いもあった。 個人の尊厳、 真理と平和の希求、 普遍的にしてしかも個性ゆたかかな文化、 どれも私の願うところ、 暗い覆いは外され廃棄され、 特攻も特高も消えた、 すべてに自由の光が照らされる、 なんと輝かしかったことか。
 以来干支は二廻り目に入っている。 荒廃はすでに 「自由」 のなかにも忍び寄り、 「干からび」 はしぶとく命長らえていることを、 今たしかに思わざるを得ない。 もはや為すすべはないのか、 理念の回復はないのか、 日常にのみせぐくまらずに倶に高く掲げあう 「理」 はないのか、 とそんな思いがぐるぐると私を廻る。
 新風もとより望むところ、 新陳代謝は生物の習い、 新生は新鮮とともに心動かす。 知恵と思いを寄せあって、 新たな方向を是非指し示してほしい  
"The education (or school) of the people, by the people, for the people"の方向を。
 私はそれを応援したい。 中国の古辞に 「老驥伏櫪」 (ろうきふくれき) がある。 老いた名馬は厩に身を横たえていても、 なお千里の遠きを駆ける志を持っている、 という意味、 この語を私はいま生の中心に据えている、 そうありたいものだと。

(こやま ふみお 教育研究所共同研究員)
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