キーワードで読む戦後教育史 (16)
文部行政  アクセルと急ブレーキ

 
杉山  宏
(一)
 2001年 4月 4日付の 『読売新聞』 は、 「 『要領』 逸脱を徹底排除」 「教科書 『 3 割削減』 検定」 等を見出しとして、 小・中学校の教科書検定に関する問題を取り上げている。 そして、 「解説」 欄で、 「今回の検定で 『厳選』 が際だったのは、 そもそもの基準となる新学習指導要領が、 学ぶ内容ぎりぎりまで制限しているからだ」 とし、 又、 「新教科書は、 文部科学省が進めてきた 『ゆとり教育』 を形にしたもの、 とも言える」 としている。 更に、 「同省は最近、 『学力低下』 の懸念が叫ばれていることに対し、 『新要領は最低基準。 超えて教えることは可能』 と強調し始めた (1) 。 だが、 この方針変更前に始まった検定では、 当然 『教える上限』 と想定していた。 この矛盾を埋めるため、 同省は 『教科書には一律に学ぶことだけ載せ、 発展した内容は教師が工夫すべきだ』 と説明する」 ともしている。
 ここで言う新学習指導要領は、 98年12月14日に告示された小・中学校学習指導要領であるが、 「ゆとり教育」 が打ち出された指導要領は、 77年 7 月23日告示の小・中学校学習指導要領であり、 学習内容の削減と共に総授業時間数も削減されていた。 89年 3 月15日告示の小・中学校学習指導要領は、 教科内容の削減は行なわれているが、 授業時間数の削減は行なわれてはおらず (2) 、 98年告示の小・中学校学習指導要領では教科の学習内容が更に削減され、 授業時間数もまた減ぜられ、 完全学校週5日制の実施となった。 施行は02年からということで、 それに備え、 01年の教科書検定となったのである。 そして、 文部科学省は教科書検定の基準を改正しこの時の検定に厳選で臨んだ。 しかし、 学力低下を懸念する世論の高まりに、 03年12月26日、 同省は、 学習指導要領の改訂により、 同要領での教育課程は最低水準を示すとした。

(二)
 教科書調査官は、 指導要領を上限規定として教科書検定に当たったのに対し、 文部科学省は方向を変えるかの如き説明をしたとする01年の新聞報道である。 しかし、 このアクセルを踏みながら急ブレーキを掛けるという様なことは、 文部科学省の前身である文部省には既に前例と言うべきものがあった。
 51年改訂の指導要領は47年の指導要領と同様に 「試案」 の語が付記され、 指導要領が 「教科課程 (3) をどんなふうにして生かして行くかを教師自身が自分で研究して行く手引き」 と言う性格を受け継いでいた。
 この51年版指導要領社会科編の 「まえがき」 において 「今度の学習指導要領の改訂は、 前の学習指導要領や、 学習指導要領補説に示された教育内容をできるだけ動かさないという方針のもとに行なわれた。 というのは、 わが国の社会科はなにぶん実施の日が浅いので、 根本的な改訂をする根拠となる資料が、 実際の教育の経験からは、 まだじゅうぶんに得られないし、 また現在全国的にその指導計画のおもな手がかりとされている学習指導要領補説が刊行されてから、 わずか二年ほどしか経ていないので、 ここで大きな改訂をすることは、 まだじゅうぶん固まらない社会科の地盤をゆり動かし、 混乱を起すことになりはしないかという懸念があるからである」 とし、 社会科が教科として未成熟であること、 今回の改訂に不十分さが残ることを認めながら、 47年に刊行された指導要領社会科編に記された 「社会科の任務は、 青少年に社会生活を理解させ、 その進展に力を致す態度や能力を養成することである。 そして、 そのために青少年の社会的経験を、 今までよりも、 もっと豊かにもっと深いものに発展させて行こうとすることがたいせつなのである」 という社会科新設の考えを受け継ぎ、 これを更に進展させようとするものであった。
 しかし、 この指導要領編集の中心者であった上田薫は 「26年版小学校学習指導要領の根本的な思想は、 ……22年版の精神を確立し、 学力の問題についても道徳の問題についても、 徹底した問題解決学習のみが正しい解決をもたらすことを明らかにした。 それはそのときまでに生じていた種々の批判にこたえるだけでなく、 予想される強い非難攻撃に対しうるものとして書かれたものである。 もっとはっきり言えば、 きたるべき嵐に対する挑戦の意味をもってすら記されたといってよいであろう」 (4) と強い調子で自信を示しており、 指導要領の 「まえがき」 の表現とは異なった考えを持っていた。

(三)
 51年改訂版の小・中・高等学校社会科の指導要領は、 51年 7 月10日発行の 『小学校学習指導要領 社会科編(試案)』 を皮切りに、 51年12月 5 日発行の 『T中等社会科とその指導法 (試案)』 改訂版、 52年 2 月20日発行の 『中・高等学校学習指導要領 社会科編 ・(c)人文地理 (試案)』、 52年 3 月20日発行の 『中・高等学校学習指導要領 社会科編 ・ (a)日本史 (b)世界史 (試案)』 と続き、 52年10月20日発行の 『中・高等学校学習指導要領 社会科編 ・一般社会科 (試案)』 まで続けられたが、 その間の51年10月12日に政令改正諮問委員会 (5) が教育制度の改革に関する中間試案を発表し、 次いで同年11月12日に吉田首相に答申を行なっている。
 この答申には、 「終戦後に行なわれた教育制度の改革は、 過去の教育制度の欠陥を是正し、 民主的な教育制度の確立に資すところが少くなかった。 併し、 この改革の中には、 国情を異にする外国の諸制度を範とし、 徒らに理想を負うに急で、 わが国の実情に即しないと思われるものも少くなかった。 これらの点は、 十分に検討を加え、 わが国の国力と国情に合し、 真に教育効果をあげることができるような合理的な教育制度に改善する必要がある」 と戦後の教育改革を一応評価しながら、 教育制度改善の必要性を主張している。 このことは、 「基本方針」 の中でも 「わが国の実情に即しない画一的な教育制度を改め、 実際社会の要求に応じ得る弾力性をもった教育制度を確立すること」 と示されていた。
 又、 「具体的措置」 として挙げた項目に 「学校制度」 「教育内容及び教科書」 等があり、 前者では 「六・三・三・四の学校体系は原則的にはこれを維持し、 そのうち六・三を義務教育とすることは従来通りとする」 としながら、 「中学校 (三) の課程は、 普通教育偏重に陥ることを避け、 地方の実情に応じ、 普通課程に重点をおくものと職業課程に重点をおくものとに分ち、 後者においては、 実用的職業教育の充実強化を図ること」 と記し、 産業界の要求に応じ職業教育にも重点を置くことを提言している。 高等学校についてもほぼ同様なことを述べていた。 又、 後者では 「教科内容については、 その画一化を排し、 実情に即して教育効果をあげ得るようこれに弾力性をもたしめること。 特に職業課程については、 地方的な特殊事情に応じ、 適切効果的な教育を実施し得るよう考慮すること」 としていて、 ここでも、 戦後教育の総ての子どもに同等に学習権を認めると言う基本方針を 「戦後教育は職業教育の軽視」 の論点から批判し、 中・高等学校に普通課程に重点を置いたコースと職業課程に重点を置いたコースを設けると言う考えを表示していた。 そして、 この教科内容画一化批判の後に (備考) として 「従来の生活経験中心のカリキュラム方式に偏することを避け、 論理的なカリキュラムを加味することも考慮すること」 の文を記し、 社会科とは明記していないが、 経験主義を基にする社会科批判に通ずるものを出していた。

(四)
 前述の様に51年版社会科学習指導要領改訂の一連の動きは翌年まで続き、 最終の指導要領は52年10月20日に発行されていたが、 この発行日から約 2 カ月後の12月19日に開催された教育課程審議会に、 岡野清豪文相が 「社会科の改善、 特に道徳教育、 地理・歴史教育について」 諮問した。 諮問理由の中に 「地理や歴史に関する児童・生徒の知識や理解を低下させないようにするため指導計画の大改訂をする必要があるとか、 中には独立した教科にしたほうがよいと主張する者もある。 このような議論が出ることは現行社会科の指導計画や指導面においてうまく行っていない点があるのではないか」 とあり、 社会科の在り方を再検討するよう諮問している。 この12月の時点では、 現場の中・高等学校の社会科教員は10月20日発行の新しい指導要領を漸く手に入れ、 読み始めた頃であり、 又、 年度途中でもあり、 授業に生かされるのは当然その先であった。 その段階で既にこの指導要領の改善を文相が諮問していた。
 53年 8 月27日付で文部省初等中等教育局長発で、 各都道府県教育委員会、 各都道府県知事、 教員養成大学 (部) 長宛の 「『社会科の改善についての方策』 の送付について」 と題した通知がある。 同通知は 「去る昭和27年12月19日文部大臣は教育課程審議会に 『社会科の改善、 特に道徳教育、 地理・歴史教育について』 諮問 (6) しました。 同審議会は去る 8 月 7 日別冊(1)添付の答申をなし、 それについての具体策を講ずるよう要望しました。 本省としてはその答申の趣旨にもとずいて検討した結果別冊(2)の方策を決定しましたので送付いたします」 という文と共に、 別冊(1)と別冊(2)を送付している。
 別冊(1)は 「社会科の改善に関する答申」 と題し、 53年 8 月 7 日付で教育課程審議会長から文部大臣大達茂雄宛のもので 「本審議会は、 文部大臣の諮問事項、 『社会科の改善、 特に道徳教育、 地理歴史について』 を慎重に研究討議しました結果、 別紙の通りの意見を具申することに決定しました。 当局は、 この方針に基いて、 具体策を講ぜられるよう要望します」 とした後、 「一般的事項」 「学校の段階による改善事項」 に分けて答申している。
 別冊(2)は、 「社会科の改善についての方策」 と題し、 53年 8 月22日付のもので、 方策の内容は、 6 項目から成っていたが、 第 2 項の 「学習指導要領を改訂して、 わかりやすく、 取り扱いやすいものにすること」 の中に、 地理・歴史について取り上げ、 小学校において 「地理や歴史などの科目には分けないが……第 6 学年の終了までには、 中学校における地誌的学習に対する基礎が養われるような計画を考えたい。 年代史的学習は、 小学校上学年の児童にとっては、 ややむずかしいと考える。 そこでこれはおもに中学校に委ね、 小学校では、 これとよく連絡する程度において、 わが国の各時代のようすについての理解が得られるように留意する」 とある。 「地誌的学習に対する基礎」 「年代史的学習……とよく連絡する程度」 等の表現は系統学習に繋がるものであり、 51年版の指導要領とは、 基本的に方向を異にするものであった。
 又、 教育課程審議会答申の出た翌 8 月 8 日に中央教育審議会も 「社会科教育の改善に関する答申」 を総会採択している。 「本審議会は、 教育課程審議会が文部大臣に答申した 『社会科の改善に関する答申』 について慎重に審議した結果、 その趣旨を認めこれに賛意を表する」 とする文に、 民主的道徳の扱い・教員養成・理科についても要検討の三項目の付記を記したものであった。 文部省側の動きに対応し、 8 月 1 日に教育学者等による反対の動きが起こり、 社会科問題協議会 (7) が結成され、 大きな動きになることが予想され、 この動きに対応する上でも中央教育審議会もまた動いたのであろう。

(五)
 55年改訂版 『小学校学習指導要領社会科編』 の 「まえがき」 に 「文部省では、 去る昭和26年、 小学校学習指導要領社会科編を刊行して、 小学校社会科の指導計画作成上基準となるべき目標や内容などを示した。 ところが、 その後、 小、 中、 高等学校を通じての社会科教育の実情に対する各種の批判が高まるに至ったので、 その改善に関して教育課程審議会に諮問し、 さらにその答申の趣旨に基いて、 社会科は我が国における民主主義の育成に対して重要な教育的役割をになうものであるから、 その基本的ねらいを正しく育てること、 しかしそのためには学習指導要領を改訂してわかりやすく取り扱いやすいものにする必要があること、 社会科の内容に関し教師の科学的教養の向上をはかる必要があることなど、 文部省としての基本的方策を公けにした」 と記されている。 「昭和26年……小学校社会科の指導計画作成上基準となるべき目標や内容を示した」 と前回の小学校要領を刊行し、 社会科の目標・内容を示したことを述べ、 その後、 批判が高まったとしているが、 その批判を 「小、 中、 高等学校を通じての社会科教育の実情に対する各種の批判」 と記述しており、 小学校社会科だけの批判ではなかった。 とすれば、 前述の様に52年10月に刊行された中・高等学校用の 「U一般社会科」 の要領等は全く指導要領の役目を果たしていない段階での批判を取り上げ、 小・中・高等学校を通じての批判とし、 社会科の改善を諮問しているのであった。 又、 その答申を生かし、 社会科の更なる向上の為、 文部省として方策を公にした、 としている。
 52年10月発行の指導要領は官報に告示などされておらず、 文部省の著書として発行されたものではあったが、 その 「まえがき」 で 「この学習指導要領は、 中学校および高等学校第1学年の社会科の指導計画をたてるにあたっての基準として編集されたものであって、 このとおりに実施することを要求しているものではない。 各学校では、 これを参考にして、 生徒の実情に応じた指導計画を立案されることが望ましい」 としている。 柔軟さは示しているが、 指導計画を立てる時の基準として作成したので、 立案の参考にして欲しいと述べている。 文部省が参考にと要望していながら、 結果の出ない 2 カ月後に、 文部大臣がそれを含めて改善を諮問している。
 新指導要領が発行されたばかりで、 まだ実際に参考とされていない段階で、 その要領の内容の改善を諮問するというこの矛盾を抱えながら、 55年版要領の 「まえがき」 では、 表記上の整合性は取り、 指導要領の基準や内容等を示したところが、 小・中・高等学校を通じての社会科教育への批判が高まって、 その改善を諮問し答申を得て、 指導要領の改訂を行なった、 としている。
 経験主義・問題解決学習から系統主義への転換という社会科の大きな方向転換の論拠を示すべき55年版指導要領の、 その 「まえがき」 において、 51年版からの55年版に代わった理由付けに事実と異なったことを記述していたと言える。

(六)
 51年版小・中学校学習指導要領社会科編から55年版小・中学校学習指導要領社会科編への移行の時が、 経験主義、 問題解決学習から系統主義への転換点であった為か、 小・中学校指導要領が刊行される前に、 「社会科の目標および学習の領域案について」 等の表題で中間報告を 5 回行っている。 小学校の場合は、 55年 2 月12日に第5回中間報告を行なっていた。 この中間報告について上田薫は 「第五次の発表を見ると、 そこに述べられたことは一見無難であるかのように思われる。 案ぜられたほどには、 一部政治家の強圧に屈したり、 十分慎重に考えるだけの用意のない多くの人びとの声に迎合したりしていないことが感じられる。 (中略) それは明らかに一部の委員の奮闘のたまものであったし、 また中間発表ごとにあくことなく批判を続け、 また、 たえずなまなましい注文を提出した学者や教師の努力の成果であった。 もしこの努力がなかったならば、 学習指導要領の骨子ははるかに異なったものになっていたであろう。 しかしわたくしはまたその一面、 当然のこととはいえ、 数次の発表につとめ、 とにかくいくたの修正に応じた文部省の態度をもいちおう是としておきたいと思う」 と文部省側の態度も一応評価している。 55年版小学校指導要領の 「まえがき」 の様に、 事実関係からやや乖離する形で差し障りのない表現をしている如く、 実を取れば形式には必ずしも拘らないとする方法も時に採るのが文部省の態度でもあった。
 しかし、 上田は、 この文に続き、 「もし露骨に大幅の後退がみられなかったことに心をゆるめるならば、 やがていかに悔いてもおよばない時がくるにちがいない」 と警告も記している。
 文部省の方策として、 一挙にことを運ぶことは避けて、 長期的展望に基き、 予め手を打っておき、 経年で結果を得る手法は時に用いることがある。 この場合も妥協しながらも、 表題から試案の文字をなくし、 経験学習から系統学習への方向付けを行なうことが出来た。 又、 この55・56年の小・中・高等学校の指導要領の改訂で、 学習指導要領の法的拘束力の有無については、 小・中学校の要領説明段階では全く触れていなかったが、 55年10月の全国都道府県指導部課長会議で高等学校の指導要領の説明段階で、 文部省から学習指導要領の基準性が打ち出された。 11月 3 日付 『文部広報』 は 「学習指導要領の基準によらない教育課程を編成し、 これによる教育を実施することは違法である」 としているが、 学習指導要領及び関連法規をそのままにして、 行政当局の解釈を変えるだけで、 学習指導要領を全く異質なものとするこが出来るかと言う疑問が日本教育学会教育立法小委員会から出され、 同小委は文部省見解に同意出来ないとしていた。 しかし、 58年の指導要領改訂時点では、 法的拘束力のあるのは既成事実とされていた。

おわりに
 51年版の指導要領 (小学校編) 作りの中心は、 上田薫と長坂端午であったが、 敗戦後、 新しい教育体制作りの推進力になった当時の文部省にはこの二人の他、 重松鷹泰・勝田守一・尾崎乕四郎等の社会科の学習指導要領編集や教科書執筆で活躍した人々が参集しており、 文部大臣も前田多門以来、 安部能成・田中耕太郎・高橋誠一郎・森戸辰男・下条康麿・高瀬荘太郎・天野貞祐と 8 代に渡り学者文相が続き、 各人のものの考え方や現実政治への対応姿勢に批判もあったが、 文教政策で他の政治家とは異なった対応をしていた。
 天野は、 イールズ事件が東北大で起った直後の50年 5 月 6 日に文相に就任し、 8 月には第二次米国教育使節団を迎えているが、 イールズ事件にしても教育使節団の来日にしても、 アメリカの対日教育政策が転換の様相を示してきた表れであった。 天野は同年11月 7 日に全国教育長会議において修身科の復活と教育要綱の作成について発言している。 更に、 翌52年の 2 月の第10国会において、 天野は国会議員を相手に 「静かなる愛国心」 について応答している。
 上田薫は 「文部省にて (二)」 (8) と題した文で 「学習指導要領のしごとがほぼ固まろうとしていた段階、 25年の秋にいわゆる修身科復活問題がおこった。 天野文相の発言をめぐってジャーナリズムはわき立った。 ……敵は突如として、 内部から、 しかも頭上から襲ってきたという思いであった。 天野先生は恩師であるばかりでなく、 祖父の弟子、 父の友人という関係からも身近な人であった。 ……学生時代からそうだったが、 文部省で上司となられてからも、 先生はいつも温顔をくずされなかった。 ……そういう先生にそむかなければならないかと思うと、 わたくしの心は痛まずにいなかった」 と記している。 しかし、 翌51年 1 月 4 日の教育課程審議会の答申は 「道徳教育振興の方法として、 道徳教育を主体とする教科あるいは科目を設けることは望ましくない」 としており、 文部省もこの答申を受け、 2 月 8 日に 「道徳教育振興方策案」 を発表した。 次いで、 「『道徳教育のための手引書要綱』 総説・小学校編」 を 4 月25日に、 「中・高等学校編」 を 5 月29日に発表したが、 この書の作成は、 天野が 「君にまかせるよ」 と上田が任された。 出来上がった原稿は天野の考えとは異なったものであったが、 「老いては子に従えというからね」 と言って、 天野は受け取ったと上田は述べている (9) 。 この様なやり取りが出来た当時の文部省や教課審は現在のそれとは、 その在り方が大きく違っていた。 その様な雰囲気の中で経験主義・問題解決学習という学習形態の社会科が生まれ、 歩みかけたのであろう。
 小論は、 学習指導要領とそれに関連する文からの引用がかなり多くなっていたが、 文教行政の在り方、 変遷の中から、 矛盾を挙げる論拠に行政側の発言・起草文等を可能な限り使用した為である。 この 「キーワードで読む戦後教育史」 の中で 「教育体制の転換」 「社会科の転換」 「法的拘束力」 等の項で取り上げた用語等を再度取り上げている場合もあるが、 取り上げ方が異なっておりそののまま用いた。 又、 51年度小学校学習指導要領が話の中心となったことと、 社会科が誕生し育成された当時の文部省の内部事情を伝えることから上田薫の文を多く引用した。

  「資料でたどる神奈川勤評闘争」 の連載が終わった01年の晩秋に、 当時特別研究員だった手島さんからだったか、 次に何か書かないか、 と言われ、 書き始めた 「キーワードで語る戦後教育史」 も16回を数えるまで来てしまった。 この辺で擱筆することとした。 「神奈川勤評闘争」 からでは14年間もの永い間となったが、 資料が多く、 扱い難い原稿で 『ねざす』 編集責任者の歴代の特別研究員の方々には迷惑を掛ける事が多かった。 厚く感謝したい。
 実質的に高校から社会科が消える日も近いと危惧される今日であるが、 歴史教育の本質の一般的概括として 「歴史的に社会事象を判断する能力をやしなう、 すなわち、 抽象的思弁におちいらず客観的事実に即して考え、 社会事象を相互関連において、 時と所と状況との関連においてとらえ、 社会事象を変化と発展において理解し、 その変化発展の法則を理解しそれを現実に適用する能力をやしなう」 と井上清が述べたことがあった。 「社会科歴史」 の健在を切に祈念して止まない。



(1)58年 3 月15日に 「小学校・中学校教育課程の改善について」 と題するの答申を教育課程審議会が行なっているが、 同答申中の 「基本方針」 に 「小学校及び中学校の教育課程の国家的な最低基準を明確にし、 年間における指導時間数を明示し、 義務教育水準の維持向上を図ること」 とある。 又、 同年10月 1 日に改訂学習指導要領が告示されているが、 告示前に内藤初等中等教育局長は、 教育課程は最低基準と説明している。
(2)77年の指導要領が、 「人間性豊かな児童生徒の育成」 「ゆとりのあるしかも充実した学校生活」 「国民として共通に必要とされる基礎的・基本的内容の重視」 「児童生徒の個性や能力に応じた教育」 等を柱に授業時間数の軽減と内容の精選、 小・中・高の一貫性、 中・高における選択科目の拡大と習熟度別学習等を特色とした。 これに対し89年の要領では、 「ゆとり教育」 の語は使われていないが、 77年の要領の方向を受けて、 心豊かな人間の育成を挙げている。 社会科は、 小学校の低学年で理科と共に廃止、 生活科が新設され、 高等学校では地理歴史と公民に再編成され、 一応従前通りの教科形態であったのは中学校のみとなった。 又、 六年一貫制中等学校構想が展開される様に、 中学校が義務教育の完成から前期中等教育へと位置付けが変化している。
(3)47年版学習指導要領では 「教科課程」 の名称が用いられていた。
(4)上田薫は論考 「26年版学習指導要領の指向したもの」 (「社会科教育」 昭和44年 2 月号、 明治図書出版、 所収) で述べている。 同論考はまた 「小学校社会科の昭和26年版の編集がたけなわであったのは、 25年の夏から冬にかけてのことであったと思う。 ときどき桜田小学校の一室を借りたりして委員会をひらいていた。 ペスタロッチを表紙にしたこの学習指導要領は、 わずか54ページの小冊であったが、 編集の過程では相当に手間と時間とをかけていたように思う…26年版の発行は 7 月10日となっているが、 内容のできあがったのはずっと早くて、 小学校の社会科主任長坂端午氏は 3 月末に文部省を去られている。 わたくしはその冬から春にかけて上記の手引書要項 (筆者添補、 『道徳要綱のための手引書要項・総説・小学校編』、文部省51年 4 月26日、 中・高編 5 月29日発表) のしごとに没頭していたのだが、 長坂さんと二人だけでやっていた社会科のしごとにそれほど支障を感じた記憶がないところをみると、 学習指導要領の進捗はよほど早かったにちがいない」 と指導要領発行前のことを回想している。 経験主義の問題解決学習社会科作りの雰囲気は文部省の当該者の周囲には十分残っていた。
(5)51年 5 月 1 日に総司令部総司令官リッジウェイは、 連合軍の占領下に出された諸法令の検討・修正をする権限を日本政府に与えた。 これを基に同月 6 日に設置された吉田茂首相の私的諮問会議を政令改正諮問委員会と呼んだ。 (『ねざす』 No29 「キーワードで読む戦後史(1)」 参照)
(6)上田薫は 「この学習指導要領の刊行された翌年、 岡野文相は早くも地理歴史の教育について社会科を改めるための諮問をおこない、 ついで28年大達文相のとき社会科解体の動きが露骨に表面化されたことは、 多くの人の知るところである。 幸いにしてかたちの上の解体はまぬかれたものの、 この結果社会科出発の精神は日に日にその影を薄くすることとなった。 昭和30年代に出された学習指導要領は、 かくてすでにその本質を異にし、 当初の社会科の形骸のみをとどめるという結果におちいったのである…わたくしは今にしてたとえ 5 年でもよいから、 この学習指導要領に時を与えほしかったと思う。 日本の教師が 5 年間この立場のもとに集中すれば、 子どもたちにはだれの眼にも明らかな変化がおこったと思う。 戦後の教育がわるいから、 こういう人間が育ったという。 しかし事実は経験主義の社会科には、 責任を負いうるだけの場が与えられなかったのである。 はいまわる経験主義という非難があった。 しかし日本の教師はどれほどの時間はいまわることができたか。 はいまわるかわりにいつもかけ足しかしなかったのではなかったか」 と述べており (「26年版学習指導要領の指向したもの」 『上田薫著作集』 10所収)、 上田は51年版の指導要領社会科編の内容には自信を持っており、 「試案」 の中に、 「手引き」 と言う意味はあっても、 「暫定的、 不完全」 と言う意味は極めて薄く、 不完全という意味で 「試案」 の文字を入れることはなかったと言えるであろう。
(7)社会科問題協議会については、 『ねざす』 No31 「キーワードで読む戦後教育史(3)を参照して欲しい。 上田薫はこの社会科問題協議会に参加した人々の中に、 社会科に対する考えの異なる二派があったとしている。 「昭和22年の発足以来26年まで社会科は経験主義による問題解決学習を本旨としてきた。 小学校において、 そのことはとくに徹底していたということができる。 この社会科の理念とその実践に対して、 まず進歩派の側から、 社会的矛盾のとらえかたのあまさ、 無国籍的性格さらに教育内容の系統性の欠如を指摘し非難攻撃する声が徐々に高まりはじめたのであった」 と進歩的な系統学習の立場を採る人々からの経験主義、 問題解決学習の立場の人々への攻撃を挙げながら 「文部省批判の勢力は、 社会科問題協議会という一時的結合の時期をのぞいて、 はっきりと分断されてしまっていた」 (筆者註、 『上田薫著作集』 10、 p55〜p56) と一時的ではあるが、 社会科問題協議会の活動では文部省批判勢力は経験主義派と系統主義派が結集していたとしている。 しかし、 この時点で、 両派が結集しても、 結果的に文部省側の保守的系統主義に敗れている。 この勢力関係の下で、 50年代後半以降、 勢力的に弱い反文部省派同士が再び二派に別れて激しく論争し合う中、 文部省側は論争らしい論争を行なわず、 着々と社会科形骸化路線を歩んで行くこととなった。
(8) 『上田薫著作集』 12、 p200
(9) 同上書 p201
  
(すぎやま ひろし 教育研究所共同研究員)
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