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「より道」 のある歴史教育
 
岩本  雄

押しよせる、 「日本史必修化」 の波
 神奈川県では、 2013年から、 日本史が必修化となる。 ぼくの住む横浜市では、 コレに先行して、 2010年から全市立高校で必修化が決まった。 国際化という潮流のなか、 「自国の文化や歴史を発信する基礎力を育て、 日本人としての誇りを持たせる教育」 を目標としているという。
 導入の先陣を切ったのは神奈川県だが、 こうした流れは神奈川に限ったモノではない。 「日本史、 必修化」 の声は、 全国各地にこだまする。 この声はやがて、 「日本史必修化問題」 として、 教育のなかでのひとつのテーマとなるまでに至った。 イチ大学生であり、 まだまだ学び手として勉強中のぼくは、 このテーマに対して豊富な知識も持ち合わせておらず、 画期的なアイディアを提唱できるワケでもないが、 今回この場では 「問題の当事者」 という認識をもって、 精一杯意見を述べようと思う。

高校だけではない、 日本史の学習
 日本史の必修化という問題は、 「高校」 の学習指導要領という 「枠組み」 のなかで考えられている。 現実のなかで、 与えられた 「枠組み」 のなかで、 ソレをどう使っていくか、 と論じるのが当然であり、 「枠組み」 を論じるのは問題から遠くなってしまうのかもしれないが、 あえて、 その 「枠組み」 自体に目を向けてみる。
 歴史教育を 「高校」 の学習という視野だけで捉えているのでは、 チョット足りない。 小学校、 中学校、 高校と、 「つながりのなかで考える視点」 が必要ではなかろうか。 高校で日本史を学ばなかった人間が、 日本史的な知識がゼロかといえば、 決してそうではない。 小学校、 中学校と学んできている 「歴史」 があるのだ。 日本史未履修への反対意見のなかには、 「高校で日本史を勉強していない」 = 「日本史をまったく知らずに社会へ出る」 と捉えた論調のモノもあるが、 ソレは杞憂であろう。

六年間の歴史教育計画
 同じく、 「つながりのなかで考える視点」 からもうひとつ。
 高校進学率が向上している。 政権奪取を遂げた民主党のマニフェストにも 「高校無償化」 の文字があるように、 今後は社会的な環境もより整備され、 高校に通うコトはいま以上に容易になっていくだろう。 そうした状況を鑑みて、 歴史教育は 「中学、 高校」 という長い時間幅で、 じっくりと行うというのはどうだろうか。 歴史の学習を、 中学校で一度完結させ、 高校でもう一度完結させる、 という現行のカリキュラムを思い切って変えてしまう。 六年間でみっちりと、 歴史の流れを学び、 その知識を熟成させていく方法だ。
 六年間という期間は、 基礎的な知識を徹底するだけでなく、 「『より道』 のある授業」 を行うために必要な時間である。 生徒が、 歴史の授業で楽しい瞬間というのは、 「ときめくような知的体験」 をしたときだ。 しかし、 そんな授業は、 三年間で歴史を一周するカリキュラムに追われていては、 なかなか実践できない。
 過日、 高校教諭である滝澤民夫氏の文章を目にした。 滝澤氏は高校三年生の日本史の授業で、 「七三一部隊」 や 「軍隊慰安婦」 を取り上げた。 すると、 生徒が 「日本人は、 中国人を、 戦時中、 おなじ人間だとは思っていなかっただろう」 と書いてきた。 そこで、 「近代の日本人はいつごろから中国人を人間として見なくなったのだろうか」 と調べていく。 調査、 研究をしていくと、 日清戦争を契機として、 ジャーナリズムと小学校教育を通し、 「豚尾漢」 = 「ちゃんちゃん」 という中国人への蔑視感と排外主義が形成されていったコトまで判明する。 こうした授業風景のレポートを読んだとき、 「ああ、 この先生の授業はおもしろいだろうなァ」 と思った。 その教室で、 生徒たちの目がいきいきしている様子が浮かぶ。
 教壇に立つ者は、 教科書をもとに基礎的な歴史事項を解説する。 そして、 生徒の意欲をかきたてるようなハナシをする。 ココからが学び手たちの 「より道」 だ。 生徒は与えられた情報をもとに、 研究、 調査していく。 結果、 それぞれが違った 「歴史認識」 を持ってもイイ。 ソレを確認しあうコトが重要だ。 こうした 「より道」 のある学習こそが、 魅力的で、 本来的な勉強にも近い。 冒頭に引用した日本史必修化の目標、 「自国の文化や歴史を発信する基礎力」 を育てるにも、 ベストの方法ではないか。

「誇り」 にとらわれるな
 蛇足となるが、 日本史必修化の目標にある 「日本人としての誇りを持たせる」 という一文。 歴史教育において、 「誇り」 というキーワードだけでは不十分だ。 歴史から学ぶコトは、 「誇り」 だけでなく、 「恥」 といった要素も忘れずにいたい。 「恥」 は 「誇り」 と同じウェイトをもつモノだ。 教育という現場で、 国際化という大きな潮流に漕ぎ出す人間を育成するならば、 なおさらである。 未来を担う者に対して、 自国の持つ歴史上の 「誇り」 と 「恥」 を同じように語り継ぐ。 コレは、 歴史に対して大人が負う 「責任」 である。


(いわもと ゆう 
横浜市立大学国際総合科学部 国際総合科学科 1 年、 教育研究サークル 「Eduken」 代表)
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