特集U 教員免許状更新講習始まる
 
大学側からみた教員免許更新制の問題
池田 賢市

はじめに
 なぜ免許の更新が必要なのか、 法令からは読み取れない。 この制度そのものの目的が明示されていないわけである。 更新講習の内容については、 「教員の職務の遂行に必要なものとして文部科学省令で定める事項に関する最新の知識技能を修得させる」 (教育職員免許法第 9 条の 3 ) ということだから、 それが更新制の目的なのだろうと想像するしかないが、 教員としての能力 (専門性) 向上の保障と、 教育という業務を遂行するために必要な資格に有効期限をつけ、 10年に一度資格剥奪、 つまり教員としての身分を失う危機的状況を課すという方法とのミスマッチについては何も説明してくれない。
 しかし、 今年、 更新制本格実施となってしまった。 では、 どんな思いで各大学は更新講習を開くのか、 また、 講習を実施することでどんな問題を抱えることになるのか、 大学側にとっての問題点を指摘してみたい。

実施の目的をどこに求めるか 
 関東地区私立大学教職課程研究連絡協議会の調査 (2007年12月、 郵送法、 回収率68%、 90大学から回答あり) によると、 大学が更新講習開講に踏み切る際、 講習を行う目的をどこに見出しているかといえば (複数回答)、 多くの大学が 「社会的使命」 を挙げ (73%)、 次いで 「卒業生へのサービス」 (48%) としている。 そして 「文部科学省からの強い要請を感じたから」 とつづく (34%)。 最後の 「理由」 は、 本来は開講の 「目的」 とはいえないが、 大学の置かれた立場がよくわかる。 講習開講数を確保するために、 文科省は躍起になった。 その効果は都市部においてはてきめんであったが、 おかげで、 ふたを開けてみれば定員を満たさない講座が続出した。 このことは後でふれたい。
  「社会的使命」 も、 「卒業生へのサービス」 も、 いずれも、 開講せざるを得ない状況に追い込まれた大学が自らを納得させるために言い聞かせる 「目的」 に過ぎない。 この制度化以前に、 教員免許にかかわってこのような 「使命感」 や 「サービス」 を意識していた大学はないであろう。 なぜなら、 大学が責任をもつのは教員 「養成」 に関してであり、 就職後の力量形成に責任をもつような制度にはなっていないのだから。 なお、 教職課程のない大学も開講できるのだから、 問題はいっそう深刻である。
 ちなみに、 この調査ではわずか 5 %であったが、 目的を 「大学のPR」 と位置づけることは、 大学関係者の間ではいまでも 「捨てきれない魅力」 となっている、 あるいは少なくともそのような 「言説」 が生きているのは確かである。 受講に来た高校の先生を集めて大学の宣伝をし、 多くの受験生を送ってほしいとのメッセージを発したいという誘惑にかられる経営陣は少なくないだろう。 受講者は受講料を払っている、 大学側は認定試験を行なう、 このような両者の関係の中で大学側が自らの経営的理由で教員たる受講者にある要求をする…。 実際にそれをやったら大問題である。 ( 「やりかなねい」 大学もあったのでは、 と想像する。)
 いずれにせよ、 法的に制度目的が明確にされていないのだから、 さまざまな目的がありうるということであり、 その中で職の継続の鍵となる免許更新の認定が行なわれるわけだから、 はじめから 「姿の見えない」、 かなり 「あやふやな」 危険な制度なのである。

開講にあたっての具体的問題点 
 どういう経緯かはともかくも、 開講することにした場合、 どんな問題が発生するのか。 大学側から見た問題点をいくつか示したい。
  1. ニーズに応じ切れない…子どもとかかわる貴重な時間を割いて受講しにきているのだから、 現場の抱える問題にストレートに結びつかないと感じる講習内容であったとすれば、 受講者としては徒労感ばかりではなく、 「怒り」 さえ感じることだろう。
      たとえば、 幼小連携の問題は高校の教員にとっては現場に役立つとはいえず、 あまり興味を引かないだろう。 学校種によってクラス分けして講座を実施すれば、 少しは受講者に近い話ができるかもしれない。 しかし、 それは講師の手配等の人件費としてすぐに予算の問題になる。 そのためにかかる費用は受講料から回収することになっていく。 きめ細かく受講者のニーズに応じようとすると、 受講料を高く設定することにもなりかねない。 また、 校種を絞りすぎると、 受け入れ人数を自然に絞ることにつながり、 受講の機会を十分に提供できないということにもつながるし、 採算の問題にもなる。
     また、 仮に 「指導技術」 や 「教材開発」 にかかわる講義が望まれていたとしても、 そもそも教材や指導とは具体的な子どもたちの姿を見ずして議論できるものではないのだから、 大学としては、 現場へのヒントのレベルを超えることはできず、 やはり「一般論」 を示すことになってしまうだろう。
  2. 認定試験の方法がむずかしい…認定試験の内容・方法に関しては全国的な基準が設定されているわけではなく、 したがって、 免許更新の難易度が講習実施主体によって左右されることになってしまう。 国会審議において、 通常の勤務を支障なくこなしていれば更新されるような内容として講習が設定される、 といわれていたが、 大学教員は受講者の日常的な業務や勤務状況を把握しているわけではない。 それを考慮した試験内容をつくることは不可能である。 「これについては知っておいたほうがよいのではないか」 というきわめてあいまいな 「最新の知識」 を設定して試験をすることになる。
     認定試験は、 はっきりと点数化できる形式でなくてはならないとされているので、 真剣に受講者と向き合って教育をともに考えようとすればするほど、 試験はつくりにくくなる。 「30年教師をしているが、 それをわずかな時間の講習で認定・不認定とされることには納得がいかない」 という意見は正当だからである。 大学側が魂をカラにしたなら、 必要以上に厳密な管理の下、 無表情な声と顔の試験監督官による認定試験を行うことはできるが、 普通の神経ならそれはできない。
  3. 認定・不認定の判断は負担である…認定試験の件と連動するが、 あえて別項目として考えたい。 大学側としては 「不認定」 という結論は出したくないのである。 既述のとおり、 その教員の通常の勤務状態を把握していないのだから。 したがって、 合格できるような認定試験を考えることになる。 その中には、 「点数操作」 も入る。 まるで 「不正」 のように聞こえるかもしれないが、 そうではない。 たとえば、 空欄補充だけでは合格点に届かない場合もあるだろうから、 記述式の問題もつくり、 幅をもたせた点数によって調整するといった具合である。 誤字・脱字まで厳しく採点していくのかどうかによっても点数は 「調整」 されるだろう。 いずれにせよ、 大学教員としては 「認定・不認定」 を判断したくないのである。 そのペーパーテスト自体に責任をもつことは当然であるが、 そのことが受講者である現職教員の職の継続に関する能力・資質の有無の判断につながるとなると、 それは大変大きな精神的負担であり、 また実質的にも判断はできない。 しかし、 それをしなくてはならない状況に追い込まれている。
  4. 事務組織の整備が問題となる…通常の業務とは異なり、 有料で社会人を受け入れ、 しかもその人の職業の継続にかかわる認定業務をするのであるから、 また、 本来ならば流れ込んでくるはずのない現職教員の個人情報を安全に管理しなければならず、 受講・認定 (不認定) の記録を長期にわたり保存しておかなければならないのであるから、 講習実施大学としては重い社会的責任を負うこととなり、 それに耐えうる全学的な体制づくりが課題となる。
     講習前には、 講師の確保、 開講に向けた認可申請、 募集要項の作成、 受講者受付、 受付状況報告、 受講票作成、 事前アンケートの作成と配布・集計、 講師への教材作成依頼と印刷、 受講料の徴収といった作業があり、 講習開講時には、 受講者の出席を毎時間厳密にチェックし、 実施後にも実施結果報告、 採点結果集計と修了認定、 受講後の評価アンケート集計、 修了証明書の作成および本人への郵送、 文科省への報告といった作業がつづく。 また補講の必要性が出てくるかもしれない。 これらの作業を通常業務へのプラスアルファとして処理することには無理がある。 大学にとっては、 大きな人的、 財政的負担である。
  5. 赤字になってしまう…講師に対する講義料や交通費、 テキストの印刷代、 さまざまな郵送料、 そして、 更新講習の事務処理を円滑に行うために特別に開発されたコンピュータソフトの購入などを合計していくと、 1 時間1000円の受講料設定では、 大学としては開講すると赤字になってしまう。 もちろん、 大学教職員を極めて劣悪な労働条件の下で使用すれば、 逆に黒字になる。 つまり、 教職員を増員せずに、 更新講習に関する業務を通常業務と規定してしまえば、 特別な人件費等は必要なくなってしまう。 かつ、 コンピュータ管理をせず手作業で処理していくならばなおさらである。 しかし、 これでは学内の協力は得られず、 継続的で安定した講座の提供はむずかしくなる。 しかも、 新聞報道にもあったように、 定員を満たさない場合もあるとなれば、 大学にとってはリスクが大きい。
  6. 「開講せず」 で済まされるのか…本実施の今年、 多くの大学で定員に満たない状態となった。 文科省の説明によれば、 開講のための最低人数を設定して、 それを下回った場合には開講しなくともよいということになっている。 しかし、 これは、 大学側と受講者側の双方に大きな問題を投げかける。
      大学としては、 すでに講師の手配をし、 テキストも印刷し、 準備を整えているのである。 とくに講師は他の仕事を断って更新講習のために日程を確保しているわけである。 「開講しないことになりました」 では済まされないが、 開講しても赤字確実である。
     受講者側からすれば、 この講座に何人集まるかといった開講条件は関係ない。 自分の職業を続けていくために登録したのであり、 「数人しか集まらなかったので実施しません」 と言われても困る。 どうすればよいのか。 他を探せというのか。 なんでそんな労力を使わねばならないのか。 受講者数を確定する時期には、 もうどこの大学も申し込みを締め切っている。 もちろん、 現実にはぎりぎりまで大学側は募集を続けていくことになる。 いずれにせよ、 希望の講座が受けられない者がいる一方で、 定員を満たさないまま赤字運営を強いられる大学がある、 といった無駄な事態が発生してしまう。
 その他、 細かい点を見ていけば、 もっともっと問題点や課題が出てくる。 それらはすべてこの制度の原理的な欠陥に基づくものであるが、 ここでは紙幅の関係で丁寧に取り上げることはできない。 しかし、 少しだけふれてみたい。
 ひとつは 「保険」 の問題がある。 つまり、 受講中の事故に対する補償である。 選択領域 (18時間) では理科等の実験を行なう場合もあるからである。 もちろん、 受講中の事故ばかりではなく、 大学内にいる間でのケガ等も想定しておかなくてはならない。 その保険料をどうするか。
 また、 補講の必要性も指摘しておきたい。 たとえば、 受講者が自分の子どもを保育園にあずけてきた場合、 園から何か連絡があれば迎えに行かざるを得ない。 また、 担任の生徒に何かあれば、 やはり学校に戻る等の事態も起こるかもしれない。 その場合、 講習のほうは一部欠席となり、 そのままでは不認定になってしまう。 そこで、 補講を設定しておくことになる。 そのとき、 追加の受講料を要求するわけにはいかないだろう。 しかし、 講師に再度来てもらうことは現実的ではない。 交通費もかかれば、 講義料も再発生する。 そもそも日程調整の問題もある。 そこで、 更新講習の全講義をビデオに撮っておくということになる。 お金もかかれば手間もかかる。
 なお、 認定試験の具体的な実施方法も現実的にはいろいろなパターンがあり、 講師間での調整等、 かなり面倒な作業が発生する場合もある。 各講座で試験をするのか、 そのときの集計方法はどうするか、 あるいは必修領域全体として総合的に試験を実施するのか、 その場合、 各講師からの出題を事前に集めておくことになるが、 形式をそろえるのかどうか等々、 もちろん臨機応変でよいのだろうが、 更新講習の実施には多くの講師を用意しなければならないのだから、 真摯にこの制度に対応しようとすれば、 調整は意外にむずかしい。
 さらに、 この制度は学校現場をより一層多忙化させるばかりではなく、 大学教員をも多忙化させる。 講座の準備にはかなりの時間と労力を必要とする。 現場の実情を知らない者が現場を前提にした問題について話をするのだから…。 開講時期は多くの場合、 夏季休業中となるだろうが、 近年は授業回数確保のために、 大学は 8 月に入ってもまだ授業や試験が続いている場合が多い。 9 月半ばには後期の授業開始。 その間に諸々の会議が設定されるため、 研究 (調査も含めて) に使える時間はかなり少なくなっているのが現状である。 部活の指導等で忙しい大学教員もいる。 卒論指導等、 学生相談に応じることも多い。

おわりに
 制度とは、 関係者が誰も望んでいなくとも一度決まってしまえば動いてしまう。 免許更新制はまさにその典型である。 なぜ、 子どもや教室から教員を遠ざける教育政策が通ってしまうのか。 政策の本質を見極め、 抵抗すべきは抵抗するという力が必要であり、 同時に、 どんな制度にも 「少しはいいところもある」 と信じることにも慎重であるべきだろう。
 確かに受講者のアンケートをみると、 講座の内容そのものに対する不満はむしろ少ない。 したがって、 現場を離れて落ち着いて勉強する機会、 しかも大学の施設を利用して最新の知識を習得できる機会として更新講習を意義づけ、 認定試験の内容・方法をより簡便なものにしていく、 あるいは実質的になくしていく方向で改良していくことで、 この制度を積極的に活用できるのではないか、 との意見もある。 制度改革についての政治的行政的な実現可能性としては、 これも有効なのかもしれないが、 私個人としては、 すっきりしない。 まずは教員の免許 「更新」 という発想そのものを一度消し去ってからの話である。
(いけだ けんいち 中央大学)
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