学校の現場から
授業実践
「世間の目」が一番つらいんだろうな
  『ねざす』を授業で使ってみて
 
山 本 重 耳

 昨年11月、 わたしの担当している授業、 「現代研究」 を選択している13人の高校生たちに、 『ねざす』 に載っていた、 稲葉剛さんの 「生 を肯定できない社会と教育の役割」 という小論を読んでもらいました。
 稲葉さんが務めるNPO法人自立生活サポートセンター・もやいの活動を取材した 『ネットカフェ難民 3 〜居場所どこに』 というドキュメンタリー番組に対し、 たいへん厳しい視聴者からの反応があり、 稲葉さんは 「暗澹たる気持ち」 になったというものでした。
  「特に、 彼が金銭管理の重要性を説く〈もやい〉のスタッフに対して 遊ぶ金が欲しい とスタッフに迫る場面に非難が集中」 したそうです。
 テレビ局に寄せられたこのような感想を生徒たちも持つのかな、 と思ったのです。 そこを授業の導入にしようとしたわけです。

 ところが、 そのような感想はありませんでした。 こちらの意図をくみとって、 あえて、 稲葉さんの基本的な論旨に沿った発言をしたのかもしれませんが、 日ごろの彼らの言動を見る限り、 そこまで深読みをする必要はないように思います。

 もちろん、 「ネットカフェ難民 や 派遣社員 という言葉をよく聞きますが、 どれも自分には関係がないことで、 だからどうしようと考えることもしません。 実際、 どうすれば理解できるのか私には分かりません。」 「生活保護受給者が 遊ぶお金が欲しい と言っているのは切実な願いではあると思いますが、 少し違うように思います。 筆者は非難する声について批判的な意見を言っていますが、 私はやっぱり違うと思います。」 と正直に書いてくれる生徒もいます。 しかし、 この生徒は 「まずは、 理解することより、 このようなことがあるんだな、 と言う今の社会の現実を 認める ことが重要だと思います。 認めることで相手を理解するきっかけにもなると思います。」 とも言っています。 「本当に誰もが幸せである社会はどうしたらできるのか」 と前向きに悩んでいます。

 また別の子は 「本当の貧困とは財産や地位の低い人のことではなく人間に対して偏見や差別をもった人々の考え方で、 貧困かどうかというのが決まると思います。 なので今の日本はとても貧困なのではないでしょうか。」 と社会全体を見る視点に立っています。
 今の社会のありように言及している例として、 「生活保護を受けているのに遊ぶお金が欲しいというのは何事だ、 と思う。 しかし、 よく考えてみると、 自分は親からお金をもらって遊んでいるだけだ。 それなのに自分は世間から批判を受けることはない。 本来憲法にも明記されているように生存権は、 誰であっても、 どんな人であっても無条件に生きる基盤を保障する、 というものなのに、 お金を誰からもらっているかという違いだけで人々から厳しい監視の目を向けられてしまうのはおかしいと思う。 今の社会には生存権なんて存在していないのと同じような気がしてしまう。」 と書いています。 この子は、 授業中に 「先生、 中学校で習った 生存権 という意味、 はじめて分かりました」 と、 顔をあげて発言しました。 憲法第25条の条文を読んでも、 きっと、 ピンとこなかったんでしょうね。 「自分は親からお金をもらって遊んでいるだけだ。 それなのに自分は世間から批判を受けることはない。」 という文章に実感がこもっているように感じられました。
 秋葉原の事件などにもふれ 「事件の裏には 生きる ということを肯定してくれない社会がありました。」 と書く生徒もいました。

 自分の体験に結びつけて 「私の中学校はあまりいい噂は語られません。 社会的にも人間的にも 荒れている とよく言われます。」 「先日、 中高生が夜に近所でたむろしていて不快でした。 よく見たら、 かつては楽しく共に勉強していた同級生でした。 私は悲しくなりました。」 なぜかというと 「彼・彼女たちはお金は持っていても居場所を求め、 淋しさを紛らわしていることがすぐ分かった」 からですと書いてくれる生徒もいました。
もうひとり、 最後に紹介します。 「生活保護を受けている人が 遊ぶ金が欲しい なんて言えば自分の収入で生活している人々は、 おかしいとか、 自分で努力すればいいとか思うだろう。 私も実際そう思う。 でも、 この文章を読んだら、 生活保護を受けている人達は生活も質素でつらいだろうけど、 なにより 世間の目 が一番つらいものなんだろうな、 と思った。 これは経験した人にしかわからない苦痛なんだと思う。 そんな心の状態で一生懸命頑張ろうとか、 相当タフじゃなきゃ思えないかもしれない、 生きる と言うことに特に意味を見つけられないかもしれない。」 と書いています。
 わたしは、 彼らの文章を論評する立場にはないが、 けっして単純な同情や、 高飛車な社会批判ではなく、 拙いなりに、 「寄り添おう」 という気持ちが表れているように思います。

  「現代研究」 という授業は 「瓢箪から駒」 のように生まれた学校設定科目です。 本校では10年近く前に 2 年生からの文理コース分けをせざるを得なくなりました。 学校 5 日制などで、 授業時間の確保が何よりの課題になったからです。 導入した直後、 大学入試改革があり、 その結果、 できたばかりの文系プログラムでは国立文系受験不可となりました。 文系諸君にも数学 Bを課す必要が出てきたのです。 しかし、 どうしても数学きらいな子には、 別プログラムを、 との声があり開講するに至ったのです。
 基本的には 「現代史」 (戦後世界史) の中から生徒自身がトピックを選んで20分程度の発表をします。 その後、 みんなの意見交換とわたしの簡単な解説で授業を進めています。
  「生徒による授業評価」 の項目には 「生徒の主体性を重視しているか」 という項目と 「シラバスに沿って授業が進んでいるか」 という項目が並んでいますが。 とても両立するものではありません。 まずは前者に重きをおいたところ、 12月の試験前に少し余裕ができたことと、 時折ワークショップ的な授業を組み合わせているので、 たまたま目にした 『ねざす』 の稲葉小論を読んでもらいました。 今時の若者の社会認識を少し探ってみたかったこともあります。 彼らの中には、 もちろん不登校に悩んでいる生徒、 摂食障害の生徒、 いろいろいましたが、 社会を見る目は 「健全」 だったと思います。                       

 (やまもと じゅうじ 県立川和高校教員)
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