研究所員による 「書評」

『リハビリの夜』

熊谷 晋一郎 著   医学書院

 
井 上 恭 宏
 
◇著者・熊谷晋一郎
 著者である熊谷晋一郎 (くまがや しんいちろう) は、 1977年に生まれた。
 新生児仮死の後遺症で脳性まひとなり、 車いす生活をつづけ、 幼児期から中学生までリハビリに明け暮れる。 小中高と普通学校で統合教育を経験している。 現在、 東京大学先端科学技術研究センター特任講師。 他の障害のある仲間との 「当事者研究」 をすすめている。

◇『リハビリの夜』 のインパクト
 本書は、 脳性まひを生きることを通して、 個々の人間がモノや他者、 そして自分自身といかにつきあえばいいのかを教えてくれる。 2009年12月に医学書院から発行され、 各メディアの書評で障害当事者、 医療関係者を中心に 「驚愕の書」 「驚くべき本」 といった衝撃をともなう賛辞を受けることとなった。

◇「当事者研究」 とは
 この著作の特徴は、 読者を圧倒する 「自己告白性」 にある。 この 「自己告白性」 は、 「当事者研究」 の動きとつながっている。 「当事者研究」 ということばは、 北海道浦河町にある精神障害者の共同体 「べてるの家」 の活動から生まれたものである。 『べてるの家の 「当事者研究」』 (浦河べてるの家 医学書院 2005) もあわせて読むと良いと思う。 「べてるの家」 の 「当事者研究」 とは、 精神障害を当事者自身が対象化し研究することで、 精神障害という苦労を 「いい苦労」 として内側から抜け出ていこうとする 「実践」 である。 多くの聴衆の前で、 自分の精神障害の生活体験を研究発表する。 ジュディス・ハーマンの 『心的外傷と回復』 に紹介されているワーク・ショップ。 ミシェル・フーコーの 「逆言説」 の理論。 「同和教育における語りの作風」 などが想起される。 自分が抱える悩みや苦しみを自分が対象化し、 他者に伝えることで、 悩みや苦しみを反転させる試みとして共通している。

◇「痛いのは困る」
 熊谷は自分のことを次のように言う。
「胎児と母体をつなぐ胎盤に異常があったせいで、 出産時に酸欠になり、 頭の中でも〈随意的な運動〉をつかさどる部分がダメージを受けたらしい。 そして私の身体の状態は、 〈脳の損傷が原因で、 イメージに沿った運動を繰り出すことができない状態〉というような表現で、 専門家によって説明されている」。 「随意運動を手にするためには、 既存の運動イメージに沿った身体の動かし方を練習で習得するしかない。 それは、 きみの努力によるものなのだ」。 でも、 「痛いのは困る」 と。

◇「敗北の官能」
 幼いころから受けてきた 「リハビリキャンプ」 での体験が本書の核となっている。 お手本どおりの動きをトレイナーからぎりぎりと与えられるトレイニー (訓練者) としての自己の姿を、 「夜」 の静けさのなかで振り返るように見つめつづけ、 ことばにし、 伝えようとする。
  「リハビリキャンプ」 の一日が終わる。 リハビリから解放された夜。 床に横たわり、 床上10センチメートルのところから世界をながめている自分を思い起こす。 「夕暮れ」 「歩かない子の部屋」 「歩く子の部屋」 「女風呂」 「自慰にふける少年」。 自分をとりまく人々と自分自身が感じたこととが対象化され、 「敗北の官能」 という概念が立ち上がる。 圧倒的な力に対して敗北していくことに伴う、 ある種の官能。 「敗北が決まると、 こわばりを放出した私の肉体がほどかれていき、 ぐにゃりと床に寝そべる体になる」。 「随意運動を無自覚に繰り出せる者」 と 「床上10センチメートルのところから世界をながめている者」 との間の記述が、 そこにある。 「間の記述」。 それは、 本書の鍵となる 「協応構造」 の概念につながっていく。

◇「協応構造」 の概念
  「協応構造」 とは何か (「協応構造」 というアイディア自体はベルンシュタインのものである)。 自己とモノや他者との間に 「交渉」 が成り立つ関係。 これを 「協応構造」 と呼ぼう (熊谷の論はもっとずっと精緻なものである)。 「便意」 と 「腸」 との間の身体内協応構造のなかで熊谷は 「交渉」 に格闘する。 そこにはほとんど 「ゆとり」 はない。 そして、 「失禁した自分」 と 「介助してくれる誰か」 を求める身体外協応構造のなかで熊谷は 「交渉」 に格闘する。 ここでも簡単に介助に応じてくれる他者はいない。 こうした 「交渉」 という概念は、 熊谷が他者やモノ (たとえば、 一人暮らしの生活のなかで、 介助者との関係を作り上げること。 自分に見合ったトイレを自分でしつらえる過程のなかで) との格闘をとおしてつかみとったものである。
 熊谷は、 自分の体の特徴を次のように言う。 「過剰な身体内協応構造のためあそびがなく、 人やモノと身体外協応構造を取り結びにくい身体」。 言い換えれば、 「自己の中にゆとりがないがゆえに、 他者との間にゆとりが生まれない」 ということである。
 電動車いすを手にしたことで、 自分と電動車いすと大地との間の 「協応構造」 について考える。 「電動車いすは、 私がつながれる世界を、 二次元から三次元へとぐんと広げてくれた」。 そして、 また、 自分と電動車いすと大地との間の 「協応構造」 が完成され一体化されると、 それぞれの存在感は薄まっていくという。  

◇ 3つの 「体」 と 「人間関係」 の概念
  「ほどかれる体」。 「まなざされる体」。 「見捨てられる体」。 本書の冒頭では、 この 3 つの 「体」 概念が示され、 さらに、 これに対応する3つの 「人間関係」 のあり方が提示される。 「ほどきつつ拾い合う関係」 「まなざし/まなざされる関係」 「加害/被害関係」 である。 この 3 つの人間関係をたとえると、 次のようになるかもしれない。 教員は、 学校のなかで生徒に寄り添い 「ほどきつつ拾い合う関係」 を目指す。 それは同時に 「まなざし/まなざされる関係」 のなかにもあり、 ときとして最後には 「加害/被害関係」 として生徒を欺いてしまう、 というものだ。 この 3 つの 「体」 と 「人間関係」 の概念は、 本書の基礎となる。 そして、 この 3 つをまとめ上げるのが 「協応構造」 の概念なのである。

◇「敗北の官能」 は回帰する
 研修医時代。 一年目。 「採血」 を通して、 モノとの 「協応構造」 を探った。 百円ショップで、 採血のための 「自助具」 を工夫する。 練習をくりかえすがうまくいかない。 茫然自失に近い状態で、 二年目の病院へと異動する。 一年目の大学病院では、 「こいつを何とか一人前にしなくては」 というまなざしを送られた。 「まなざし/まなざされる関係」 である。 それに比べ、 二年目の病院はとにかく忙しく、 スタッフ一人ひとりが 「自分一人では回せない」 という感覚を共有していた。 「自分一人では何もできない」 という意味では、 みんな障害を持っているとも言える。 そうした場でのスタッフのまなざしは、 「助けてくれる?」 「助けようか?」 という 「拾い、 拾われること」 を潔しとするような関係であった。 そういった場では、 自分を含めたスタッフの間に、 「うまくいかないこと」、 すなわち 「敗北すること」 をも受け入れる 「協応構造」 が産み落とされる。 それは、 リハビリキャンプの夜に見た 「敗北の官能」 と共通する。 「敗北の官能」 は、 熊谷の 「運動」 を立ち上げる概念として、 ここに回帰するのである。

◇「ずれ」 のなかに生まれる 「関係性」
  『リハビリの夜』 は、 自己、 他者、 モノなどの関係をめぐる概念の宝庫である。 それは、 自分という事実と実践にもとづいている。 あまりの 「自己告白性」 ゆえに最後まで読み通せないといった声もあるようだが、 とにかく、 迷ったら読んだほうがいい。
  「協応構造」 は、 言ってみれば、 「ずれ」 や 「隙間」 や 「対立」 や 「すれ違い」 である。 私たちは、 少なくとも私は、 この 「ずれ」 を排除するために生きてきたと言ってもいいかもしれない。 生徒、 同僚、 家族との関係において。 もっと言えば社会に対してである。 しかし、 「ずれ」 がなければ、 「協応構造」 も生まれない。 隙間がないのだから、 関係性が生まれないのだ。
 いま、 教育現場では、 「ずれ」 や 「隙間」 や 「対立」 や 「すれ違い」 を無視したり、 排除したりしようとしているように見える。 生徒や同僚とぶつかりあい、 対話を重ねる。 「協応構造」 は日常のなかに 「産み落とされている」 はずなのだが、 それが対象化されなくなっているようなのだ。 熊谷の提示した 「世界観」 は、 そんな小さな日常に矮小化されていいものではないが、 私にとっては日々の苦労を 「いい苦労」 に変えてくれる大きなヒントを与えてくれるものでもあった。


(いのうえ やすひろ 研究所員)
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