特集T 検証 「高校改革推進計画」
教育討論会に参加して
個人的高校再編〜多部制定時制高校 覚書
 
加 藤 富 也
 晴天の霹靂の新聞発表から正確には何年たったのだろうか。 個人的にはあの時からすべてが始まったのだと思う。 その夏の印象も薄れたが、 多分暑い夏だったのだろう。 当時の勤務校は東金沢高校で再編該当校だった。 お盆の真最中に非常呼集がかかり、 臨時職員会議となった。 その場に漂っていた漠とした不安感は覚えている。 その夏以降は再編問題以

 外のことも含めてとにかく忙しくなり、 個々の事象に対応しているのが精一杯で、 気がつくと年月が過ぎていった感が強い。
 今回の山本元教育長の話の中で一番印象的だったことは、 総合学科が高校再編の中核だったこと。 神奈川の高校の主流として総合学科高校のイメージがあったという発言は意外に思った。 意外に思ったのは理念が叫ばれたものの具体的なイメージが現場に伝わらなかったせいだろうか、 それとも自分がボンクラだったせいだろうか。 後者のせいとは言い切れないものを感じてはいる。 職員会議で 「四次報告」 という言葉が呪文のように繰り返し飛び交ったのを覚えている。
 東金沢で一担任として最後の卒業生を出した後は、 ちゃっかり転勤して高みの見物を決め込むつもりだったのに、 転勤先は校名が一文字違いの新設 「総合学科」 高校だった。
 総合学科は具体的に関係してみると、 産業社会と人間、 多彩な選択科目、 TTによる授業、 単位制……最初は何が何だかわからず、 やたら忙しかった。 会議の多さにも閉口した。 それでもやがて生徒と一緒に授業や部活を楽しめるようになり、 最後は楽しかった。 特にコンピュータによるビジュアルデザインの授業は、 操作の得意な生徒や本職デザイナーである外部講師とともにゼロから作り上げていった。 本当に充実した時間だった。 個人的には総合学科は悪くないと思った。 気がかりだったのは精神的に不安定で心に傷を持った生徒が少なからずいたことだった。 自分はその子達にほとんど何もしてあげられなかった。 既存の生徒指導に限界を感じたが、 自分では新しい提案はしなかったし、 できなかった。 そして時間が過ぎて行って、 満足しつつも、 もやもやしたまま教員人生が総合学科で終わるはずだったのだが……

 今度は、 春まだ浅い、 寒い日に、 そして今回も突然にお呼びがかかり、 自分の中で引っかかっていた部分が掘り起こされ、 新たな場に飛び込むことになった。 それが座間方面多部制定時制高校準備室、 後の相模向陽館だった。

 相模向陽館という場とは一体何なのだろう。
 定時制の既成イメージにこだわると違和感が生じるのは確かであろう。 未だに外部の方々に対して明解な説明ができないでいる。 本来は全日にいたはずの生徒の一部を引き受けているのは事実ではあるが、 大半は向陽館に望みを託して入学した生徒である。 受検生の数にも驚いた。 生徒本人、 保護者の真剣な眼差しにも…… 「少なくとも後一つは横浜市内に向陽館と同じような高校を作りたい」 という山本元教育長の談話は大変な説得力があると思った。 だから全日の代わりに作ったという批判は当たっていない。
 ではどういう場であるのか、 無理矢理一言で言ってしまえば、 心に傷を持ってしまった子供達が過去を捨てて再生するための場である。 そして、 入学した彼らは実に様々な問題点を抱えていたのだが、 共通して言えるのは自己肯定感がない、 ということである。 自分を認めることができないので、 他者を認めることができない。 それが様々な負の人間関係を作りだす。
 その改善のために向陽館で一年間行なわれたことは生徒を受け入れることであった。 とにかく愚直なまでに生徒の話を聞く。 悪いこと、 マナー違反の生徒にもいきなり批判したり、 恫喝したりはしない。 それが外から見ると甘やかしているだけに見えるかもしれない。 自分でもそう思うことはある。 そうならないために実は心理学の理論を生徒指導だけでなく学校経営の基礎として導入し、 その理論に基づいた職員のカウンセリング研修も日常的に行なわれている。 経営の基礎に具体的理論を置いたことは、 少なくとも公立高校としては画期的なことである。 今後このことがどういう結果を生むのか、 まだ安易に結論は出せない。 再編の最後に生まれたのは新設校だったのは皮肉な感じもするが、 今後の新しい再編?の先駆けとして向陽館の挑戦は続くのであろう。

……というわけで、 再編というより挑戦が続く。 一段落ついた安息感など微塵も無い。 人と社会の変革にともない、 学校の変革意識もむしろ加速されるのではないのだろうか。 個人的には最低限の学力と居場所を確保した上で、 後はより広い場で応用的な分野を学び、 「生きる力」 を身につけられるような高校になればよいと思う。 それはもう高校とは言えないかもしれないが……これも個人的な感触に過ぎないのであるが、 高等学校という制度自体の解体、 そして再構築にいずれ踏み込むのではないのだろうか。 そんな予感もする今日この頃である。
  
(かとう とみや 相模向陽館高校教員)
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