特集T 検証 「高校改革推進計画」
検証 高校改革推進計画・・・その1
 
教育研究所
検証に当たって
 検証は、 二回に分けて行い、 第一回は計画実施までを、 第二回 (次号) は計画実施の具体的な諸相を分析する。
 最初に、 第一回の検証の流れを説明する。
 1 の 「百校計画 と課題集中校」 では、 「百校計画」 の意義と、 新たな課題である、 「課題集中校」 について説明する。 「課題集中校」 が 「学校教育」 そのものへの疑問をあぶりだしたことを、 研究所が行ったシンポジウムなどを素材として指摘したい。
 2 の 「社会構造の変化」 では、 1990年代に起こった社会変動について説明する。 高校改革推進計画も 「社会の変化」 についてふれているが、 その検証という意味合いも含めて検討する。 社会構造の変化が起こったこと、 その変化は学校教育に大きな影響を及ぼしたことを指摘したい。
 3 の 「高校生の変化」 では、 2 の社会構造の変化と並行して高校生の意識に変化が見られたことを説明する。 高校生の変化の原因を簡単に説明することはできないが、 研究所の調査やシンポジウムなどを素材に、 指摘したい。 高校生の変化からも、 学校が変わらなければならない、 と言われていたことを確認したい。
 4 の 「政府の教育政策」 では、 政府の教育政策がさまざまな変化にいち早く対応したこと、 その対応はどのようなものであったか、 ということを説明する。 すでに1980年代から具体的な対応策が、 主として臨時教育審議会などから提案されており、 その内容は 1 から 3 までで述べたことにも関連している。 賛成できるかどうかは別として、 対応策は的外れなものではなかった。
 5 の 「神奈川の高校改革を検証するに当たってのまとめ」 では、 具体的な計画の実施の諸相を検証するに当たっての問題意識を説明する。 政府の対応策に対して私たちもまた、 的外れにならない提案をしたいと考えている。

1. 「百校計画」 と課題集中校
  「百校計画」 の特徴
  「百校計画」 は1973年に始まり、 1988年に完了した県立高校新設計画である。 この計画には次のような特徴があった。
  1. 増加する中学卒業生のほとんどを公立高校で引き受けた。 (資料 1 )
  2. 36クラス規模の大規模校を中心としていた (1973年まで36クラス規模の県立高校はなかった)。
  3. 100校の新設高校のうち99校は普通科であった。
1. について
  この結果、 公立中学校卒業者に占める県内全日制公立高校生徒数の割合は、 1972年に46.7%だったのが、 1977年には55%、 1988には67.8%となった。
2. について
  百校計画で建設された高校のうち36クラス規模で計画された学校は72校であった。 百校計画終了後県立高等学校は165校となったから、 既設校で36クラス規模となった 5 校 (鎌倉高校、 茅ヶ崎高校、 湘南高校、 希望が丘高校、 厚木高校) を含め、 半数近い高校が36クラス規模となった。
3. について
  この結果、 百校計画終了後、 普通科は152校となった。 職業高校は1972年に35%強を占めていたのが1988年には15%強にまで減少した。 (『統計で見る神奈川の教育の歩み』 昭和53年版、 平成11年版 神奈川県教育委員会) この割合は全国的にもめずらしいほど低い割合であった。 (資料 2 )

「百校計画」 でつくられた普通科高校
  「百校計画」 で99校の普通科高校がつくられたのは、 県民の普通科への志向が強かったからである。 高校増設運動は、 普通科を要求した。 その理由の一つは 「職業高校では将来の進路が限られてしまう」 というものであった (『新しい高校像を求めて』 神奈川自治体問題研究所編 1982年)。 「百校計画」 の中で唯一の職業高校であった藤沢工業高校の建設に際しても反対運動が起きた (「神奈川の高校増設運動と百校計画」 川崎あや 『ねざす』 9 号 1992年)。 住民の運動体も 「神奈川公立普通高校増設連絡協議会」 と称していた。
 高校教職員の多くも 「増設は普通科」 という点に関しては支持していた。
  「労働過程の高度化や民主主義の発達に伴う世界的な高学歴化傾向に対し、 現実の問題として、 職業科よりも大学進学の確率の高い普通科高校の方に、 中学生やその父母が将来への 可能性 を感じるのは無理からぬことであろう。」
  「たとえ結果的にではあれ、 百校計画が、 そのほとんど全てを普通高校の設立に当てたことは、 基本的方向として一応評価されるべきであろう。」 (「高校全員入学 の思想と神奈川の高校百校新設計画」 小川眞平 『ねざす』 7 号 1991年)
 つまり 「普通科高校」 ということで大方の人々がイメージしたのは、 大学へとつながる高等学校であった。
 当初から増設される高校が普通科ばかりであることには批判もあった。 たとえば神奈川県高等学校教職員組合 (以下高教組と略す) の高校教育問題総合検討委員会は、 高校の将来像として総合制を目指すとし、 普通科を目指すことがあってはならないと述べていた。 だが、 それはあくまで理念であって、 実践は伴っていなかった。
  「ねざす」 に掲載された論文や高教組の高校教育問題総合検討委員会は、 「職業・技術教育」 をすべての高校の必修にすることを主張してきた (『職業・技術教育をどう考えるか』 三橋正俊 『ねざす』 16号 1995年)。 1981年には、 教育委員会が組織した委員会も 「職業・技術教育」 の重要性を主張している (『高等学校普通科における職業教育の研究』 高等学校普通科における職業教育研究グループ)。 しかし、 職業科目は、 必修はおろか、 選択科目としても、 ごく限られた高校でしか設置されなかった。 大学進学実績を看板にするのならば職業科目の設置は邪魔になるからである。 職業科目が設置されている学校は 「進学」 に向かない学校というレッテルを貼られてしまうのが実際であった。
 では、 普通科高校のカリキュラムはどのようなものであったのだろうか。
  「百校計画」 出発当時、 普通科高校のカリキュラムで大部分の割合を占めたのは 「主要 5 教科」 と呼ばれた 「国語」 「社会」 「数学」 「理科」 「外国語」 で、 総単位数の80%を超えていた。 これに体育を加えれば (1973年実施の学習指導要領で男子必修11単位)、 卒業に必要な単位数85単位のほとんど100%になる。
どこも同じイメージの普通科高校となれば、 その間に大学進学を巡って競争が起こるのは自然の成り行きである。
1991年に行われた 「座談会 百校計画 ―現場教師は語る―」 (『ねざす』 8 号 1991年) のまとめは、 「このままでよいか、 学校競争」 という見出しで大学進学をめぐる競争に懸念を述べている。 神奈川県では1981年と1988年に学区分割を行い、 学校間格差の是正を図ったのだが、 分割は高校増設に追いつかず、 一学区 8 校程度の大学区のままで、 「進学実績」 を指標とした競争は 「新設校」 の間でも変わりなく行われていたのである。
中学校へのPRの眼目は 「進学実績を上げること」 と 「特別指導問題を起こさないこと」 だと前掲の座談会では指摘されている。 「英語と数学が毎日あること」 がうたい文句だった学校も紹介されている。

課題集中校の出現
 高校進学者に占める公立高校の割合が高まるにつれ、 公立普通科、 中でも新設高校は多くの問題をかかえるようになった。 「低学力」 といえば職業高校、 と思われていたのに、 普通科高校でも 「低学力」 者をかかえるようになったからである。 (『高校教育問題総合検討委員会活動報告』 1976年 『神奈川の高校教育改革をめざして』 1986年 資料 3 )
 入学者選抜の際、 ア・テストと内申点によって入学志願者はあらかじめ細かく振り分けられ、 学校ごとに差がついたため、 「低学力」 者は特定の学校に集中するようになった。 課題集中校の誕生である。 このことを象徴的に表したのが、 中退者数である。
 中退者は、 全国的には1970年代当初まで減り続けるが、 その後増加する。 (資料 4 ) 神奈川県では、 中退者が特定の高校に集中しており、 1986年調査によれば15校で市立を含めた公立高校176校の退学者の38.2%を占めた (『中途退学者を出さないために』 高教組 1991年)。 15校のうち 9 校が普通科高校である。
 課題集中校の日常を、 象徴的な意味合いを込めて点描すると次のようになる。
 
 茶髪、 ピアスをする生徒が多い、 校舎内を土足で歩いたり、 私服で登校してきたりする生徒、 授業中も廊下にいて授業に出ない、 授業中にもかかわらず校門の外の売店の前の地べたに座りこんで、 カップラーメンを啜るたくさんの生徒 (シンポジウム 「17歳〜高校生の生活実態と学校」 でのシンポジストの発言より 『ねざす』 27号 2001年)

 こうした生徒にこれまでと同じ内容、 同じ方法の授業をしたところでうまくいくわけはないが、 普通科高校はどこも似たようなカリキュラムであった。 例えば1980年に開校した寛政高校のカリキュラムは、 78単位は必修で、 選択の14単位も含めてすべて普通科目ばかりである (寛政高校 1981年 学校要覧)。
 おまけに普通科高校では職業高校に比べて教職員定数は少なかった。 例えば、 36クラス規模になったばかりの希望ヶ丘高校では教員一人あたりの生徒数は24人台なのに対し、 30クラス規模の磯子工業高校では、 12人台である (希望が丘高校については、 『神奈川の高校教育改革をめざして』 高教組 1977年、 磯子工業高校について、 1980年の学校要覧で計算)。 工業高校が機械科などの学科によってきめ細かく指導されていたのに対し、 普通科課題集中校が管理中心の指導に傾いていくのもやむを得ないことであろう。 英語などを勉強しなければならないのは 「生徒が守る学校の 規律 であり、 生徒は 動機のない行為としての 規律 を日々の授業の中で、 毎日 5 時間ないし 6 時間も従順に守ることを要求される。」 と指摘したのは高教組・課題集中校対策会議の報告書である (『学校づくり最前線』 1997年)。 課題集中校の一人の教師は 「全日制普通科は持て余してきた、 という現実」 がある、 と表現している。 (シンポジウム 「減るの?変わるの?どうなるの?」 でのシンポジストの発言 『ねざす』 25号 2000年)

学校教育への批判
課題集中校を中心とした学校教育への批判が強く行われたのは1980年代から1990年代にかけての特徴である。 批判は、 高校だけでなく学校教育全般に対して行われ、 学校への不信感も生み出すことになった。
 教育研究所が開催した教育討論会では多くの学校批判が出されている。 批判は、 脱学校論的な立場から学校教育全般、 特に全日制システムを対象としたものが多い。 脱学校論とは、 学校を通じて教えられることだけが正しいという価値観を強制する、 社会の 「学校化」 を批判する立場のことをいう。 (『現代学校教育大事典』 ぎょうせい 2002年)
 また、 「全日制システム」 とは、 毎日学校に通う、 授業中心の学習形態、 学年進行、 といったことを指している。 (『単位制高校試論』 湘南高校通信制 1987年)
  『ねざす』 に掲載された学校批判の主なものを挙げると次のようになる。

(子どもをどう見ているかというと) 「一人前ではないんだから、 我慢の期間、 修行の期間が必要だ。」 という発想です。 (シンポジウム 『展望 「開かれた学校」』 でのシンポジストの発言 『ねざす』 9 号 1992年)
「東京シューレ」 のある子どもが 「学校とはなにか」 と聞かれて 「学校とは耐えるところです。」 と言っています。 (同上)
集団行動が、 問われているわけで、 僕はこの集団適応能力という名の下でいかに一人ひとりの子どもたちがひどい目に遭っているかいうのを感じました。 (同上 参加者の発言)
(学校は) 実は大変無理のある空間なので、 ちょっと結論的なことを申し上げると (中略) 学校の教員や親にできることはますます少なくなっていくので、 いろいろなことを断念された方が良いのではないか。 (シンポジウム 「高校生は今」 でのシンポジストの発言 『ねざす』 21号 1998年)
(脱学校、 非学校ということについては)学校が軽くなるっていう、 うちの生徒に居心地の良い所になっていくだろうなとか、 (中略) 重たい学校は続かなくて良いのかなっていうような感じはしています。 (同上 参加者の発言)
 
 金賛汀氏は、 県立磯子高校の中退問題を追跡する中で次のように述べている。 「定時制や通信制には 『良い教師』   と言っても、 その定義はかなり難しいが、 生徒から見て人間性が豊かで信頼できるという教師  が多いのだろうかという思いが、 なぜ、 と言う疑問と共に残った。」 (『追跡 高校中退』 講談社 1986年)
 金賛汀氏のこの疑問に現場教員が次のように答えている。 「(定時制や通信制の教員は)全日制と同質の教師たちですが、 置かれている立場の違いから 価値観 も違うことと、 定時制・通信制の学校では生徒管理の厳しい規則が存在しないことで、 生徒が 突っ張る 必要のないこと、 この二点に問題は絞れます。」 (前掲 『追跡 高校中退』)
 つまり中退問題というのは、 厳しい校則とそうした厳しい校則で生徒を管理することを善しとする価値観に焦点がある、ということである。 このあと、 金賛汀氏は 「学校の刑務所化」 に言及している。
 これらの批判は、 いわば 「近代学校教育の自明性」 への疑問であった。 課題集中校が 「近代学校教育の自明性」 に対して数々の疑問をあぶり出したとも言える。

2. 社会構造の変化
 1990年代に入ると教育や学校を取り巻く環境は大きく変わった。 次にこの問題を検討する。
 神奈川県の高校改革推進計画が改革の前提となる 「社会の変化」 としてあげているのは次のようなことである。
  「国際化や情報化の進展、 少子・高齢化の進行、 産業・就業構造の変化、 ライフスタイル・価値観の多様化など、 社会の変化は急速に進んでいます。」
 1980年代から1990年代にかけて日本社会が大きく変わったことは多くの研究者の間の共通認識である。
 市川昭午は、 「90年代   教育システムの構造変動」 (『教育社会学研究』 70集 2002年) で、 次のように述べている。
  「90年代にはわが国の権力構造、 人口構造、 産業構造、 階層構造、 人々の価値観や社会規範などに著しい変化が生じた。 それは所得水準、 生活水準、 教育水準、 文化水準などの上昇・下降といった水準変動とは一線を画すものであり、 まさに構造変動と呼ぶに足るものであった。」
 本田由紀は1990年代の初頭、 バブルの崩壊と共に日本社会は大きく変わったと述べ、 その変化を 「戦後日本型循環モデル」 の破綻、 ととらえている。 本田の言う 「戦後日本型循環」 とは、 「新規学卒一括採用、 正社員、 長期安定、 年功賃金による雇用、 男女役割別分業による家庭」 による 「循環」 を指している。 学校から社会 (この場合は企業) への移行が大量の新規学卒一括採用によってスムーズに行われ、 企業は正式採用した社員の身分を生涯にわたって保障し、 終身雇用された社員は男女役割別分業で成り立つ家庭によって支えられる、 という構造である。 本田はこの構造が1990年代に大きく変わったと論じている。 (2010年度高校教育会館夏季講座 「日本社会の変化と高校教育の課題」)
 山田昌弘は 『希望格差社会』 (筑摩書房 2004年) の中で若者の職業の不安定化に触れ、 このような雇用の不安定化は一時的な不況や若者の意識の変化ではなく、 「構造的な変動」 であると述べている。
市川や本田、 山田の言う 「社会の変化」 は、 改革推進計画があげているものと多くが一致している。
 比較的身近でわかりやすい例として 「家族」 「就業構造」 についてより具体的に検討する。

家族について
高度経済成長の時代に生まれた核家族は、 多様化が進んでいる。 家庭科の教科書はこうした事態を受けて 「さまざまな家族」 を取り上げ、 一部の人々はシングルマザーなどを教科書が取り上げることは 「家族の崩壊に手を貸す」 と非難している。 しかし、 いくら非難しても事態は変わらない。 なぜなら構造的な変動が家族を変化させているからである。
 こうした 「家族の変容」 の背後には、 「個の重視」 がある。 家族、 という単位よりも個人を重視する考え方である。 例えば、 結婚に際しては 「家」 や親の期待より自分の納得や気持ちがより重視されるようになった。 フェミニズムは、 ジェンダーバイアスのかかった 「家族」 よりも個人の重視を要求してきたが、 フェミニズムに限らず、 この価値はごく一般的に、 日本国憲法の下で継続して追求されてきたものである。 一方、 個人の気持ちが重視されると言うことは、 「結婚」 という制度を支えるものが脆弱になったということでもある。 そもそも自分が所属する集団よりも 「自分」 の好みや気持ちを優先するという傾向は社会のあらゆる分野で見られ、 現代社会の特色になっている。 離婚率や単独世帯の増加は以上のような家族観の変化の結果でもある。

就業構造の変化
 就業構造の変化はグローバル化に伴って起こった。 グローバル化とは 「国境を越えたヒト・モノ・カネの移動の増加とこれに伴う各国民社会の相互依存の増大」 (武川正吾 『連帯と承認』 東大出版 2008年) である。
 この中で特に 「カネ」 の移動は労働運動の国内における影響力を弱め、 労働条件の 「底辺への競争」 をもたらす。 こうした状況に対し、 「資本」 はいち早く対応した。 経済同友会の 「2010年に向けたこれからの労働のあり方」 (1992年)、 日経連の 「新しい国際化時代における日本と労使の選択」 (1993年)、 経団連の 「新時代の 『日本的経営』」 (1995年) などがそれである。 雇用形態の新しいあり方として提起されているのは 「従来の長期継続雇用」 「長期雇用を前提としない高度専門能力活用型」 「雇用柔軟型」 という雇用形態の階層化であり、 その中で三つ目の形態が 「非正規雇用」 である。 (「前期再編を考える」 金沢信之 『ねざす』 32号 2003年)
 こうして、 1990年代を通じて長期安定型の雇用は崩壊し、 特に若年層で非正規雇用が激増した。 このことも前掲の山田が言うように構造的なもので、 若者の意識から生じたものではないし、 一時的な不況によって生じたものでもない。 長いスパンにわたって今後継続する現象である。
 以上のような社会構造の変化が教育・学校に影響を与えないはずはないし、 教育・学校だけが変わらないことは不可能である。

3. 高校生の変化
 高校生の意識も大きく変容した。 「若者の変化」 については様々な言説があり、 大人の側の見方が変化しただけ、 という場合もあるので注意が必要である。 ここでは主として教育研究所の独自調査、 『ねざす』 に掲載された論考によりながら見ていきたい。
 教育研究所が行った独自調査 「高校生の学校に対する意識の変化を探る」 (『教育白書』 1997年) によれば、 「高校生がやってはいけないこと」 について 「課題集中校」 も 「非課題集中校」 も大きな違いがない、 という結果が出ている。 「高校生がやってはいけないこと」 とは、 「無断欠席」 「無断早退」 「授業中の立ち歩き」 「バイク登校」 などである。
  「高校生の生活実態と学校」 (『教育白書』 2000年) では、 学校を 「課題集中校」 「中堅校」 「進学校」 に分けて分析している。 その結果、 「暴力」 「バイク登校」 「無断欠席」 「無断早退」 「賭け事」 「授業の中抜け」 などに対する生徒の意識は学校種によって差がない。 また、 「教員への暴言」 「授業中に漫画を読む」 「化粧する」 「授業の中抜け」 は、 「中堅校」 の方が 「課題集中校」 よりも 「やってはいけない」 と思う生徒の割合が低いという結果が出ている。
 白書はこの点について次のように述べている。
  「今回、 学校を 3 分類したことによって見えてきたことは中堅校の問題である。 学力的には中堅校は進学校と課題集中校の中間的な位置にあるゆえに、 生活意識に関してもそれと同じようだと思われがちだが、 全体的には課題集中校に吸引される形で、 しかもいくつかの項目 (授業中の漫画・中抜け・化粧、 教師への暴言や飲酒への抑制意識) においては課題集中校を越えての低い比率を示した。 これは中堅校の生徒もまた既存の学校文化とは相容れない意識を形成していることになろう。」
 1997年に行われた教育研究所シンポジウム 「高校生は今!」 のまとめは高校生の状況について次のように述べている。
  「彼らが (生徒のこと…引用者注) 時に話しかけてくれる内容は、 実は家庭では両親が離婚調停中であったり、 母親一人に育てられているがその母親が入院中であったり、 人一倍の悩みをかかえていてこちらが驚かされる。 (中略) 彼らの心の中には孤独がデンと居座っているように思われる時がある。」
同じシンポジウムの記録が掲載されている 『ねざす』 21号の中西新太郎の論文 「成長と幸福の矛盾」 は、 より広い視点から1990年代を次のように捉えている。
  「子ども、 若者の事件が起きる度ごとに学校のあり方が問題にされてきた80年代とはあきらかに問題の様相がちがってきたのである。 つまり、 少年少女たちの世界で起きている変化を真っ先に学校教育の秩序と結びつけて解釈する仕方がもはや通用しなくなった。 変化は別の次元ですすんでいるのであり、 学校生活は、 とりわけ高校の段階では、 彼ら彼女らの生活世界・意識のうちでより小さな部分へと縮小してきている。」 と述べ、 子どもたちの新しい世界は 「消費社会、 消費文化」 の論理に貫かれている、 と論じている。
 また、 前掲のシンポジウムで宮台真司は、 「高偏差値」 の生徒の気質について、 東大に努力して入ることよりも、 現在の生活を楽しむことにより価値をおくようになった、 と述べ、 こうした傾向は 「成熟社会の当然の現象」 であり、 「学校幻想」 からの離脱であると述べている。
 前掲の中西新太郎は、 宮台真司がいうような状況を 今 を生きたい子どもたち」 と表現している。
 学校が社会の中でしめる役割を低下させ、 高校生の生活構造が必ずしも学校を中心にしたものではなくなってきている、 という指摘は 「社会構造の変動」 ほどではないにせよ、
多くの論者の共通認識である。 (樋田大二郎他編 『高校生文化と進路形成の変容』 学事出版 2000年、 浅野智彦編 『検証・若者の変貌』 勁草書房 2006年)
 こうした子どもの変化を受けて、 教育研究所は高校生の変貌を視座に据えた高校教育改革をあらためて検討する必要があるとして、 次の三つの課題をあげた。
(1) 子どもたちは、 失敗を極度に恐れ、 世界に対する基礎的信頼を失っている。 従って、 教育は彼らを無条件で肯定し、 試行錯誤を認めるシステムに切り替えられなければならない。
(2) 先進国の中で日本だけが、 教育を人材の配分とそのための知識の伝達を重視する装置としている。 そうではなく、 学校はコミュニケーションの快楽のためにあり、 コミュニケーションの熟達のためにあるという方向に転換しなければならない。
(3) 成熟社会は大人にとっても子どもにとっても不透明な社会である。 一斉に同じことをさせるなど従来の方式では、 子どもたちの自己決定能力は育たない。 従来学校に期待されていた機能とそのための優先順位 (プライオリティー) を組み替えなければならない。
(「高校生の変貌と高校教育改革」 三橋正俊 『ねざす』 21号 1998年)

4. 政府の教育政策
 社会構造や高校生の変化、 あるいは1980年代以降のさまざまな課題に対し、 政府はどのように対応しようとしたのだろうか。 次にそれを検討する。
 1990年代の 「教育改革」 に中心的な役割を果たしたのは、 1987年に最終答申を出した臨時教育審議会で、 その後の 「改革」 は、 臨教審が敷いた路線を踏襲したものである (1990年代のエポックとしては、 1991年、 1996年の中教審答申がある)。 最初に、 政府の 「教育改革」 についておおづかみに把握しておきたい。
 まず、 大きな枠組みとしては生涯学習がある。 臨教審は、 最終答申で生涯学習について次のように書いている。
 「これからの学習は、 学校教育の基盤の上に各人の自発的意志に基づき、必要に応じて、自己に適した手段・方法を自らの責任において自由に選択し、 生涯を通じて行われるべきものである。
 生涯学習体型への移行を目指し、 従来の学校教育に偏っていた状況を改め、 人生の各段階の要請に応え、 新たな観点から、 家庭、 学校、 地域など社会の各分野の広範な教育・学習の体制や機会を総合的に整備する必要がある。」
 生涯学習という枠組みの中では、 学校教育の役割が縮小され (「ゆとり教育」)、 知識の注入を主とした学びから 「学び方の学び」 へと学習観が転換される (新学力観や総合的な学習の時間)。 また、 生涯にわたるキャリアプランを考える、 というキャリア教育が登場することになった。
 また、 生涯学習、 「学び方の学び」 などをキーワードに高校段階では単位制や総合学科が生まれた。
 以上のような政策はさまざまな意味合いを含む。 すでに 1 で指摘した学校教育への批判に応えた、 という側面もあるし、 公的な保障も不十分なまま 「生涯にわたって学ぶ」 ことを要請されるのは元々持っていた個人の資力がものをいう、 ということにもなりかねない。 さまざまな意味合いを含む、 ということを念頭に置きながら個々の教育政策を見ていきたい。

「ゆとり教育」
 「ゆとり教育」 とは、 学校が子どもの生活への介入から総体として撤退していくという理念である。 まず、 子どもが学校で過ごす時間を縮小する (学校五日制)。 そこから必然的に導かれることだが、 学校での学習量を減らす。
  『ねざす』 10号に掲載された座談会 「学校五日制が始まる」 で、 教育委員会から参加した一人は次のように語っている。 「ともすると学校教育というものに頼りがちな教育の現状の見直しをする機会でしょうか。 何もかも学校中心的な考え方を反省して、 それから一歩踏み出して、 子どもの生活にゆとりをもたらす。」
 また、 文部科学白書も学校五日制を 「画一主義と学校中心主義からの脱却である」 と述べている。
 教育改革としての 「学校五日制」 という理念は以上のような内容であった。
 学校五日制が、 月 1 回という変則的な形で始まった1992年、 『ねざす』 は 「学校五日制が始まる」 という特集を組み、 問題の所在を鳥瞰した論文 「学校 5 日制と週休 2 日制   問題の基礎構造  」 (小川眞平) を掲載した。 そこでは、 学校五日制の背景として 「学校化 というような特殊な用語の一般化にもみられる、 学校の 権威主義 や 管理主義、 教育過剰 への批判の沸騰などが産み出す学校管理領域の見直し・縮小化の要求の高まり」 をあげている。

「新しい学力観」 「評価」
 「新しい学力観」 とは、 知識偏重のやり方を改めるために出されてきた考え方である。 1960年代以降進められた系統学習は、 「日本型高学力」 とか、 「生きて働く ことの少ない学力」 を産む、 として批判を浴びた。 こうした批判に応え、 1990年代に入って文部省が提唱したのが 「新しい学力観」 である。 「新しい学力観」 について文部省は次のように述べている。
 「これからの教育においては、 激しい変化が予想される社会に生きる子どもたちが、 自分の課題を見つけ、 自ら考え、 主体的に判断したり、 表現したりして、 よりよく解決することができる資質や能力の育成を重視する必要がある。」 「そのような教育を実現するためには、 子どもたちの内発的な学習意欲を喚起し、 自ら学ぶ意欲や、 思考力、 判断力、 表現力などを学力の基本とする学力観に立って教育をすすめることが肝要である。」
 その特徴は次のようなものである。
知識や理解を共通に身につけさせることよりも子どもたちの 「主体的な学習」 を重視していること。 「学習の主体化」 である。
知識の量よりも 「学び方の学び」 を重視しようとしていること。
知識や技能は 「生きて働く」 力として身につけるよう指導すること。
評価観を転換し、 指導と一体をなす評価とすること。
基礎・基本は必ずしも知識や技能だけではないから、 弾力性や多様性があること。
基礎・基本は、 「関心・意欲・態度」 「思考・判断」 「技能・表現」 「知識・理解」 がその中心的な資質となること。
(『新しい学力観に立つ教育課程の創造と展開』 文部省 1993年)
  「新しい学力観」 は、 「ゆとり教育」 や 「生涯学習」 の中で、 学校が子どもたちに保障すべき学力のありようを説明したものであった。

「総合的な学習」 「教科の枠組み」
 1996年中教審が打ち出し、 2002年からの学習指導要領で実現したのが 「総合的な学習の時間」 である。
  「総合的な学び」 は、 日本の教育の歴史の中でも繰り返し試みられた。 戦後の小学校では、 「総合的な学び」 が中心であり、 教科の枠組み自体が流動的なものであった。 日教組の教育課程改革試案 (1976年) では 「総合学習」 は教科領域の中に含まれているが、 検討の過程では、 教育課程の独自領域とした方がよいという見解もあったことが報告されている (『教育課程改革試案』 一橋書房)。 現行の学習指導要領では、 「総合的な学習の時間」 は教科とは別な領域であるという位置づけになっているが、 教科学習の一種、 または発展と見なす考え方や 「総合的な学び」 をあらゆる教科に浸透させようとする考え方もある。 いずれにせよ、 「総合的な学び」 は1960年の系統学習に偏った教育課程の改革として登場した。 このことは日教組の改革試案とも重なっている。
 学習指導要領が、 「総合的な学習の時間」 のねらいとしたのは次の二つである。
自ら課題を見付け、 自ら学び、 自ら考え、 主体的に判断し、 よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。
学び方やものの考え方を身に付け、 問題の解決や探究活動に主体的、 創造的に取り組む態度を育て、 自己の在り方生き方を考えることができるようにすること。
 また、 例示した学習活動は次の三つである。
国際理解、 情報、 環境、 福祉・健康などの横断的・総合的な課題についての学習活動
生徒が興味・関心, 進路等に応じて設定した課題について、 知識や技能の深化、 総合化を図る学習活動
自己の在り方生き方や進路について考察する学習活動
  「新しい学力観」、 中でも 「学び方の学び」 「学びの主体化」 をもっとも明確に具体化したのが、 「総合的な学習の時間」 であった。 また、 「総合的な学習の時間」 は、 そのネーミングも含めて学校が内容を決めることになっていたから、 「学校に基礎をおいたカリキュラム」 であった。 中学校では 「選択の時間」 の拡大、 高校では学校設定教科・科目の新設とあわせて、 学校が独自に決められる幅は大きく広がった。
 一方、 教科の枠組みの変更については、 一部の学校での試み以外には実現しなかった。

「高校改革」
  「高校改革」 は、 臨教審、 1991年の第14期中教審答申、 中教審答申を受けた高校教育改革推進会議報告 (1 〜 4 次) をもとにしてすすめられた。 「高校改革」 ですすめられたのは、 単位制高校、 総合学科等、 制度改革を含んだ改革である。
 単位制高校は、 1950年代以来、 高等学校を覆っていた学年制を改革した、 原級留め置きのない高校であり、 総合学科高校は、 これも1960年以降ほとんど姿を消していた職業高校以外での職業科目の履修を実現しようとしたカリキュラムを特徴とした。
 つまり、 高等学校の制度には含まれてはいたが、 時代的背景のもとで日の目を見なかった単位制などを前面に出した改革であった。
 大幅な選択制、 学校設定教科・科目の導入などは、 ゆとり教育、 新学力観などを高校制度改革において実現しようとするものであった。
 総合学科では 「想定される生徒像」 について、 高校入学に際して 「目的意識のない」 ことを積極的に評価していたことも大きな変化であった。
また、 2002年からの学習指導要領では、 普通科で戦後はじめて新しい教科 「情報」 が生まれるなど教科の枠組みについては新しい動きがあった (専門教科では 「福祉」 が生まれた)。 また、 総合学科や単位制高校では 「系列」 などといった名称で、 新しい領域が設定された。 こうした領域では 「教科横断的」 だけではなく、 「合科的」 な試みも行われた。

「キャリア教育」
 キャリア教育は、 「普通教育と職業教育の統合」、 「生徒自身の進路設計能力の育成」、 「子どもたちの職業選択と職業的自己実現のための支援」 などを理念としてアメリカ合衆国で始まった教育改革運動である。 1980年前後には、 日本に紹介されている。
 1970年代から80年代にかけて、 高校増設が進み、 同世代のほとんどが高校に進学するようになると、 高校進学に際しては偏差値による輪切りが一層行われるようになり、 高校卒業に際しても、 それまでよりも進学に偏る進路指導が行われるようになった。 いわゆる 「受験教育」 である。 日本におけるキャリア教育は、 こうした進路指導に対する 「改革」 として1990年代に登場したが、 教育政策としてより明確になったのは1990年代後半である。
 その背景には、 産業・就業構造の変化に伴って若者を中心に非正規雇用が増加し、 深刻な問題になったことがある。 教育政策としてのキャリア教育は、 当初、 若年者の失業や非正規雇用の増加対策として再登場することになった。 さらに若者の勤労観や職業観の問題点 (未熟さ) に対応するという側面を色濃く持ったものであった (1999年中教審答申、 政府がとりまとめた 「若者・自立挑戦プラン」 2003年 など)。 1999年の中教審の答申では、 キャリア教育は 「望ましい職業観、 勤労観及び職業に関する知識や技能を身につけさせるとともに、 自己の個性を理解し、 主体的に進路を選択する能力・態度を育てる教育」 と定義されていた。
 一方、 雇用情勢の悪化と社会構造の変動によって 「学校から社会への移行」 は、 従来のやりかたではうまくいかなくなっていた。 高校の就職指導でいえば、 学校がハローワークと連携し、 堅実な企業を紹介、 推薦し、 企業がそれを受け入れるというやり方は、 破綻したのである。 あたらしい進路指導をどうつくっていくかということは (つまり進路指導改革は)、 大きな課題であった。

5. 神奈川の高校改革を検証するに当たってのまとめ
 1999年以降の高校改革推進計画を検証するにあたって、 これまでの内容を要約しておきたい。
  1. 百校計画は、 後期中等教育段階での教育機会を拡大したが、 「課題集中校」 などの課題を新たに生んだ。
  2. 「課題集中校」 はそれまで当たり前だと思われていた日常に疑問を投げかけた。 その日常とは、 生徒は毎日学校に通って授業を受け、 一方学校は校則を設定し、 カリキュラムにそって指導を行う、 といったことである。 この疑問は、 脱学校論的な疑問であった。
  3. 1990年代に入ると社会構造は大きく変化し、 学校もこれまでと同じやり方ではうまくいかなくなってきた。 構造変動は、 生徒を取り巻く環境に及び、 意識の変化も促した。
  4. 学校に居ることや学ぶことの意味が明確でなくなり、 学校は存在意義を含めて問われることになった。
  5. 文部省等中央の教育政策は、 社会構造の変動にあわせて大きく変化し、 地方教育政策当局を通して学校に対し、 変革を促した。

 OECDは、 1990年代に日本で行われた後期中等教育の改革を、 教育行政当局が 「学校での失敗に取り組んだ結果だ」 と肯定的にとらえている (『学力低下と教育改革  学校での失敗と闘う』 OECD著 アドバンテージサーバー 2000年)。
 1990年代に現場が直面した課題は、 「ねざす」 等で再三にわたって指摘されてきた学校の問題点をどう改革していくか、 ということであり、 社会構造の変化やさまざまな課題に対応した改革を次々と提起する教育政策とどう向き合うか、 ということだったのである。
          
  
(担当 永田裕之)
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