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ガイダンススペシャリストとして-神奈川県での体験-

坪井 美智子

ガイダンススペシャリストになるまで
 私は、養護教諭として平成13年まで東京都立高校を3校経験し、最後が都立小石川高校でした。その時は、養護教諭として全国の役員等、学校の内外から多くの仕事が舞い込んで、家庭のことは殆ど頭なの中から飛んでいる状況でした。所が、主人に大腸癌が発見され、それももうすでに肝臓にも転移し六ヶ月と宣言されたのです。「学校の先生方や生徒たち、そして、関係の方々にこのままではどれだけ迷惑をかけるだろうか、また、結婚以来、学校・学校で仕事に夢中になり主人のことは放っていたが、今、私は何をしたいのだろうか。何を大切としているのか。どう生きたいのか」と考え、主婦になり看護をしたいという自分の本音に気付きました。ちょうど、皆さんからの推薦で文部科学大臣の表彰を受けたばかりでしたが、義理も何も果たさず、年度途中12月末で退職しました。主人はその後2ケ月後に亡くなりました。短い期間の看病でしたが、この2ヵ月が私の支えとなり、その後の10年を生きてこられました。葬儀が終わり、どう生活したらいいのかと悩んでいた時に、縁があり、区の相談員として勤め始めました。しかし、相談室に勤務すると、私の気持ちの中に日に日に強く思うことが出できました。それは「相談室に来る前、学校で生徒たちは何らかのサインを出しているはずだ。それにもっと敏感になり受け止めることが出来れば、閉じ込もって不登校になってしまう前に学校で何か出来るのでないのか。学校を離れたから見えてきたこと、学校にいたときには気付かなかったことを心に留めて、もう一度学校に戻りたい」と思うようになりました。これも縁なのでしょうか。ある先生から、「神奈川県で、K高校とA南高校が再編統合されて、県下で最初のフレキシブルスクールとして平成16年に開校する。そこで、生徒たちへの支援と共に校内の相談体制をつくるガイダンススペシャリストとして来ないか」と誘いを受けたのです。
 「学校に戻れる。東京都でないが、学校に戻れる。養護教諭としてではないが、生徒たちに支援をすることが出来る。」と、たった一年で相談員を止めて多摩川を渡り、飛び込んで行ったのです。
神奈川県立K・S高校で学んこと・体験したこと
 昭和という年代が終わる頃,都立高校では強制移動が実施されました。私も長年勤務していた普通高校から商業高校へ移動しました。その時体験した・学んだことは何処へ行こうとも学校は学校、そして生徒は生徒というものです。その体験があったからなのでしょうか、抵抗無く県立K高校の職員室での着任式に出席することが出来ました。ガイダンススペシャリストという舌を噛みそうな役割について、当時担当であった先生から仕事の説明と勤務の仕方等について伺い、私のすることは何かを考え、二つのことを実現してみようと思いました。
 一つは、ガイダンススペシャリストという役割を理解してもらうこと。
 二つめは、校内に組織体制を形付けること。


実際の活動から体験し・学んだこと
 ガイダンススペシャリストという役割・活動は、スルールカウセラーとは少し役割・活動が異なるように思いました。具体的には、生徒・保護者の面接活動と教職員との面接や啓発研修、そして、保護者への研修を計画して実施したのです。先ず、新1年生に対してはオリエンテイーションを全定で行うことをお願いしました。全体を対象でなく各クラスに回って行ないました。自分の名前とどのようなことを行うのか、また、来校する日や相談室の場所等を伝え、更に「相談活動とは全ての生徒が対象であり、特別な人のための活動でないこと。自分を見つめ、自分の望んでいること、行いたいと思っていることを知り、自分で判断し行動が出来るようになることで成長していく」と話し、その後に簡単なアートセラピー(家族について折り紙を使って表現したり、今の気持ちを折り紙でと表す等)を行いました。また、生徒のみでなく入学式の後の保護者会、そして、PTAの委員会等にも出席させてもらい、あらゆる機会に自分の役割を話し、カウンセラーという仕事や相談室の敷居を低くし、活用してくれる事を願ったのです。
 このような活動の効果があったのか、生徒との定期的な面接活動がスタートしました。大きな成果があったのは、二つ目の校内体制との関係からです。これについて述べてみます。この学校には、生徒指導部の中の教育相談係の他に保健部から生まれた委員会、生徒相談体制委員会が有りました。この委員会は週に1回関係者が無理の無い範囲で集まり、校内体制をどのように運営するか、他校の情報、教師間の連携や医療等との繋がり方など多くのことが話合われました。また、今抱えているケースについては、その生徒の関係の担任・学年主任・委員会のメーバー等が話し合い、どのような方針で具体的に何を行なうかを検討して行ったのです。
 そんな活動の中で、1年生の後半から不登校状態であった生徒が、担任の勧めで来室し始めました。この委員会・チームの活動によって、生徒の居場所が、相談室から、次は特別講座、公開講座へと学校の中に広がっていったのです。特に、パソコンを学びたいとの気持ちがあることが分かったときは、委員会の要請でパソコンのインストラクター等の協力を得て、授業を行っていない日・時間に登校するようにさせたのです。そして、その教室ではインスラクターと本人と私の三人だけで授業を実施したのです。誰の眼も無く安心した状態で、パソコンを学んでいったのです。そして、出来て褒められたとき、その子は初めて笑い顔を見せてくれました。クラスには入れませんでしたが、相談室にクラスの友人が来室しても隠れなくなって行ったのです。その頃母親との面接で、家でも変化が見えたことが伝えられました。その後進路の問題についても担任やカンセラーだけでなく委員会・チームで話し合い方針を出していったのです。あくまでも本人に任せるというやり方をとったところ、私との面接後、担任のところへ自ら進路について相談に行ったのです。自分の意志で決定することが出来たのです。
 カウンセラーや担任等、一人の力には限界があります。しかし、チーム・委員会という校内組織が機能することで思わぬ効果が、生まれることを体験したのです。校内で、組織・委員会がコーディネーター、コクサルタント、プロモター、アドバイザー、ガイダンスとしての役割を行なうことで、どれだけ力量のあるカウンセラーよりも生徒たちの中に、自ら判断し決定していく力を生むのです。このことを認識・体験できたことは何よりの宝になりました。
 保護者との研修会は毎月10〜15名の参加でしたが、私が去るまでの三年間続きました。実施した内容は、ゲーム的なものからロールプレイまでいろいろです。子どものことだけでなく親自身が自分で超えなければならない課題も見えたものです。
 この学校・神奈川県での経験は、後に非常勤講師を務めた大学での講義の中でも随分と生かすことが出来ました。ある体育系の大学での講義で組織的にそれぞれが役割を果たすことが大きな成果や生徒の成長につながることを伝えました。そして、今年度、後期の試験の答案にある学生が「教師になる学生はこの講義を聞くべきである」と書いてあるのを読み、教壇から去る私にとっては何よりの区切りを貰った気がしました。
 よその者である私を抵抗無く受け入れてくれ多くのことを体験させてくれた神奈川県の先生方に感謝しています。これから教育界は多くの地方からの先生方が赴任して来るでしょう。いつまでも懐の深い学校・先生方であって欲しいものです。

 (つぼい みちこ 元県立高校ガイダンススペシャリスト)

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