特集U 道徳教育とシチズンシップ教育
環境教育とシティズンシップとESDについて
 
羽角 章
  1. 私の問題意識
     まず、私が自分の授業を工夫する中で突き当たった問題でシティズンシップに関係するものを書きたいと思う。

    (1)「社会なんか変わるわけない」という感覚
    次の文は私の授業で生徒が書いた作文の一部である。
    「いくら意見を言ってもどうせ誰も聞いてくれない」
    「いくら努力したって社会なんか変わるわけない」
    「どうせ自分には何もできない」
    「話し合いなんてやってもムダ」
    「どうせ力の強いやつが勝つ」
    「お上品に構えてきれいごとばかり言っている」
    「バカは厳しく管理されたって仕方がない」
    「イジメられたくなかったらフツーにしろ」
     このような「どうせ社会なんて(人間なんて)こんなもの」という感覚を持つ人が多かったら民主主義は成り立たないだろうし、実際日本社会ではこういう感覚を持つ人が多いのではないだろうか。
     意見が対立する時にものごとを決めようと思ったら、深い話し合いと信頼関係がなければ力関係(多数決を含む)で決めることになってしまう。そして、力関係で決まったあとには「恨み」や「あきらめ」などの感覚が残る。上の感覚は、そういう「恨み」や「あきらめ」の感覚であると同時に、力関係を正当化する感覚だと思う。

    (2)子供たちの体と心の変化
     1980年代から子供たちの体と心が変化しているのではないかという指摘がある。例えば、運動中の傷害・疾病率を調べた各種の調査から、子供たちのけがが増加しているのは明らかである。子供たちの自尊感情・幸福度・自治活動への参加率などの国際比較の調査からは、日本の子供たちのそれらの感情や活動が低いことがわかる。
     因果関係はわからないが、私はその背景には子供たちの遊びの変化があるのではないかと疑っている。昔の子供たちは自然の中で群れて遊び、その遊びの中で体力や社会性を身につけてきた。今の子供たちはゲームや個人的な趣味などの「引きこもり型の遊び」が主流で、自然の中で群れて遊ぶ体験が不足している。

    (3)学校の押しつけがましさ
     だいぶ前の経験だが、広島へ修学旅行へ行くことになった学年で広島での平和学習の企画案を説明していた時に「それは押しつけじゃないですか?」と言われて面食らい、うまく答えられなかったことがある。後から考えてわかったことだが、平和学習をイデオロギーの「押しつけ」と言うなら、学校での教育はすべて教科内容や学校文化というイデオロギーの「押しつけ」なのである。私はそういう学校の「押しつけ」性に辟易していたのに、教科書以外の大事なことだからと生徒に平和学習や原発問題学習を「押しつけ」ていたことに気がついた。
     しばらくして、LHRの時間に外部の人を呼んでクラスで講演してもらったり、物理の時間にいろいろなテーマで作文を書かせたりしていた学年で、何人かの生徒に「押しつけがましい」と感想文に書かれたことがある。ショックだったが、次のことがわかった。多くの生徒達は、勉強というものはテストのためにやるものだと思っている。だから、テストや受験に関係ない授業はよけいなことだと感じている。教科書的内容をさんざん押しつけられているので、これ以上押しつけはイヤだと思っている。学校での授業や勉強は基本的に自分の生き方や社会とは関係がなく、やらされるものだと思っている。それが平和学習などへの反発となって出てくるのだと思う。

    (4)隠れたカリキュラム
     日本の学校では、先生が学習内容を説明しながら黒板に書き、生徒がそれをノートに写すという、講義型授業が主流だ。そこでは生徒は受け身の状態に置かれており、生徒が発言するのは先生に質問された時だけに限られ、自分の考えや意見を自分から発言する機会はほとんどない。生徒は自分の生き方や関心とは無関係に、さも事務的仕事が流れていくような授業を受ける。そこでは権威ある先生がすべてを教えてくれて、与えられた知識や技能を自分が身につけることが目標になる。もちろん、「授業とはこういうものだ」という考え方もあるし、そういう授業は必要だとも思う。しかし、毎日繰り返されるこういう授業は生徒に次のような「隠れたメッセージ」を与えているのではないだろうか。
    「勉強というものはできあがった知識体系を自分が取り入れることだ」
    「それは権威ある先生が与えてくれるものだ」
    「知識や真実は自分が見つけるものではなく、すでにがっちりとした体系となっていて、変えることはできないものだ」
     これらは学校の「隠れたカリキュラム」の一つだと思う。
     もし学校がこのような権威主義的なイデオロギーを生徒たちに与えているとすると、日本の非民主的なシステムを学校が支えているのかもしれない。

    (5)熟議と公正さの不在
     これは(4)と関係するが、例えば原発問題のように、何十年も論争が続いて問題点が明らかになっているにもかかわらず改善されず、福島原発事故という破局を起こし、それでも推進システムが変わらないという日本社会の現状を見て考えてきたことだ。「原子力ムラ」と呼ばれる推進組織が反対意見を排除し、自分たちに都合のいい論理を作り上げて政策を実行するというシステムだが、このようなことは日本社会のいろいろな場面で見ることができる。教育行政にも当てはまることで、例えば学校現場でほとんどの教員が不必要だと思っている観点別評価もその一つだと思う。
     上で「日本の非民主的なシステム」と書いたのはこのことだが、よく考えるとこのシステムは国民が支えているのである。なぜ国民が非民主的で不公正なシステムを支えているのか、シティズンシップ教育を構想する上で考えなければならない問題だと思う。

    (6)「All or Nothing」の発想
     これは(1)の生徒たちの後ろ向きの発想の一つで、人間というものは困難にぶつかった時、つい「どうせ努力したってできないんだから、やってもムダだよ」と考えがちだということ。こういう発想は、個人的な問題に限らず、社会問題を考える時にも多く見受けられる。例えば、「添加物なんか考えていたら食べるものがなくなっちゃうよ」とか「どうせ反対したって建つものは建つのだから、反対したってムダ」という考え方である。日本社会では(5)で述べた強固な支配システムと教育によって、多くの人が社会を変えることを「あきらめさせられている」のではないか。そして、その「あきらめ」を正当化するのがこの考え方なのではないかと思う。
     「All or Nothing」の考え方に誘惑されるのは自分が努力しないことを正当化できるからだが、どんな努力もムダということはない。例えば原発反対運動についても「原発が建ってしまったから原発反対運動の負け」ということはない。原発反対運動があったからこそ政府や原発推進側は計画通りに推進することができなかったし、安全規制も強化せざるを得なかった。つまり、どんな政治的な勝ち負けも100%というものはなく、どのくらい影響があったかという中間的なものだ。
     現実の社会というものは変わらないのではなく、どんな人も影響を及ぼすことができるという「希望」がシティズンシップ教育では大切な前提だと思う。
  2. 環境教育のいろいろな考え方
     環境教育といっても人によって考え方がかなり違うので、少し整理しておきたい。私が今まで環境教育の研究会に出た経験ではすれ違いの議論が少なからずあったが、それは次のような考え方の違いによるところが大きい。

    (1)「環境教育とは自然体験をすることだ」という考え方
     子どもたちを自然の中に連れて行き、子どもたちが夢中で遊んだり、自然のおもしろさを体験したりすると、確かに目の色が変わったり、それ以後の行動が変化したりする。深い自然体験は子どもを変える力があることは確かだが、自然体験だけで終わらせると、そこから社会を変えることにつなげるのに無理がある。

    (2)「身近な生活上の問題を伝えるべき」という考え方
     ごみ問題を学んでリサイクル活動に結びつけたり、合成洗剤、食品添加物、農薬などについて学んで賢い消費者になることを目指したりすることは大切なことだが、それだけで終わらせると、どうしても個人や家族の範囲しか考えなかったり、押しつけ的な「道徳」になったりしがちである。

    (3)「環境美化」や「奉仕活動」で環境を学ぶという考え方
     最近「地域貢献活動」や「奉仕活動」という名前で、地域や川・海の清掃などを学校やPTAが行うようになった。イベント的に年に1回やっておしまいという学校が多いようだが、これでは環境学習とは言えない。海岸に流れ着いたゴミを拾って、どんなものが、どこから、どれくらい来たのか調べたり、ゴミを素材にして作品を作ったりする「ビーチコーミング」という活動があるが、ここまで内容を深めれば立派な環境学習となる。

    (4)「社会構造まで考えるべき」という考え方
     例えば、水俣病についての学習では、原因企業のチッソや行政がいかにひどいことをしたか、その中で患者さんたちはどのように生きてきたか、そして状況をどのように改善してきたかというような内容を学ぶ。それによって、多くの生徒が正義感を揺さぶられ、患者さんたちに共感し、自分の生き方を問い直すことにつながる。これは日本の多くの教員が取り組んできた「公害教育」と言われるものである。

    (5)「持続可能な開発のための教育(ESD)」という考え方
     最後に詳しく解説するが、最近やっと環境教育に取り組む人たちの中で「ESD」という単語が交わされるようになった。しかし、「持続可能な開発」とか「持続可能な社会」という言葉は使う人の立場によって自分の都合のよいように解釈できる言葉なので、言う人によって内容がかなり違う場合が多い。
  3. 開発教育との出会い
     私が環境の授業を本格的に始めた1995年頃はまだ「参加型学習」とか「ワークショップ」という言葉がなかった時代なので、生徒参加型の授業を工夫するのが大変だった。しかも、1で書いた私の問題意識から、私は環境だけでなく平和・人権・民主主義なども総合した環境教育を目指していた。その頃私は「開発教育」という分野に出会った。そこでは、将来の民主主義社会を担う市民を育てなければ南北問題、環境、平和、人権などの地球的課題は解決できないという発想から、次のような生徒参加型のワークショップなどがたくさん考案されていた。
    ・自分の意見が認められることを通して、自分は価値がある人間だと思う(自尊感情を高める)。
    ・自分を表現し、他人を受け入れることを通して、まわりの人を信頼することを学ぶ。
    ・主張すること、および協力と妥協を学ぶ。
    ・以上を通して、自分には状況を変える力があることを学ぶ。
     これらは1で述べた私の問題意識にピタリとはまる内容だったので、以後私は積極的に授業に開発教育のワークショップを取り入れるようになった。
     こういうワークショップなどは、生徒が主体的に参加し、考え、行動することによって、自尊感情や人間への信頼感、そして「やれば社会は変わる」という希望を育てることにつながる、つまり民主主義の基本的スキルを身につけるのに非常に有効な一つの方法だと思う。「シティズンシップ教育」にはこういう観点が必要なのではないだろうか。
  4. 環境教育の整理
     以上述べてきた私の問題意識、環境教育の考え方、開発教育のワークショップなどを総合して、私たちのグループ「新しい環境学習をつくるネットワーク」は2000年に環境教育を次のように整理した。(「教育」と「学習」の意味の違いから私たちは「環境学習」という言葉を使った。)
     これは、自然体験、人と人のぶつかり合い体験から始まって、最終的には民主主義のスキルを身につけた市民を育てようという目標を立てて整理したものである。ただし、必ずしもこの順番通りにやるということではない。どういうことを目指して、ここではどういうことをするか、というような展望を持つためのものである。これによって、見通しを持って教材作りができるようになった。

    環境学習の段階的整理
    (1) 自然とふれあう体験
    今の子供に不足している原初的体験を追体験する。
    野の花の観察、ネイチャーゲームなど
    (2) 基本的人間関係をつくる体験
    これも今の子供に不足している原初的体験。民主主義のための基本的人間関係(雰囲気)をつくる体験で、日本の学校に欠落している部分。
    自尊感情を育てる、緊張をほぐす、信頼・協力関係をつくるワークショップなど
    (3) 自分のまわりの社会を知る
    これも子供時代から体験する、自分のまわりの社会がだんだん広がっていく体験。
    環境地図づくり、水質検査、ゴミ処理場・下水処理場見学など
    (4) 基礎知識を持つ、自分の暮らしや生き方と社会の関係を考える
    自分の暮らしや生き方と社会の関係を考えるための基礎知識。知識詰め込み型ではなく、自分の生活や生き方とリンクした、生きた知識となる方法が重要。
    学校の授業を想定している
    (5) 自分の意見を持つ、自分にできることを考える
    民主主義の基本的スキルを身につける。自分自身の行動が社会を良い方向に向けることができるということを伝えたい。日本の学校に全く欠落している部分。
    KJ法、ロールプレイ、ディベートなど
  5. 私なりのESDを目指して
     最後にESDについて解説しておきたい。
     ESDとは「持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development)」のことで、「持続可能な開発」とは「環境と開発に関する世界委員会(ブルントラント委員会)」が1987年に提唱した「将来の世代のニーズを満たしつつ、現在の世代のニーズも満足させるような開発」という定義がよく用いられる。
     1992年にリオデジャネイロで開かれた「国連環境開発サミット(地球サミット)」を始めとし、その後の人権、人口、社会開発、女性、居住などに関する一連の国際会議での議論を経て、環境問題は環境という単一の問題ではないことが認識されてきて、「持続可能な開発」の概念が深まっていった。。
     1997年にギリシャのテサロニキという都市で「環境と社会に関する国際会議(テサロニキ会議)」が開かれた。テサロニキ宣言では「環境教育を『環境と持続可能性のための教育』と表現してもかまわない」、「持続可能性という概念は、環境だけでなく、貧困、人口、健康、食糧の確保、民主主義、人権、平和をも包含するものである。最終的には、持続可能性は道徳的倫理規範であり、そこには尊重すべき文化的多様性や伝統的知識が内在している」とされている。
     このような国際的な議論を踏まえて、2002年南アフリカのヨハネスブルグで開かれた「持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルグサミット)」で日本政府が「持続可能な開発のための教育の10年」を提唱し、その後の国連総会で採択され、2005年〜2014年までの10年間がその実施期間となっている。
     上のような国際的な環境教育の流れやESDの話を聞いたとき、私たちが独自に進めてきた参加型環境学習の考え方と共通点が非常に多いことに驚いたのだった。
     国際的な環境教育の議論の内容を知ると、日本の学校での環境教育のレベルが全く追いついていないことに気づく。特に、日本政府が提唱したにもかかわらず、日本の学校でのESDの動きはほとんどない。
     ある人に紹介されてオーストラリアの環境教育プログラムを読んだことがある。それは自尊感情を高めたり他人の信頼感を高めたりするワークショップから始まり、環境・平和・人権・民主主義などについて体験的に学び、最後は地域の課題を地域の人と一緒に解決するという、まさに総合的なシティズンシップ教育プログラムだった。日本でもそういったシティズンシップ教育プログラムが必要だと思う。そして、私自身もそういうプログラムを目指して環境の授業を行ってきたつもりである。
     紙数の関係で私の授業実践や「新しい環境学習をつくるネットワーク」の仲間と開発した教材などを紹介できないのが残念だが、興味のある人は「新しい環境学習をつくるネットワーク」http://www.jca.apc.org/~neg/ 及び「私の総合学習」http://homepage2.nifty.com/hahofu/ のホームページを見てほしい。

  (はすみ あきら 川崎高等学校教員)

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