所員レポート 

「KY」という流行語は、誰によって広められたのか?
―子ども・若者を「消費」する教育言説を問い直す―

香川 七海

  1. はじめに
    「最近の子ども(若者)たちは……」という切り口ではじまる子ども・若者論は、いつの時代でも、過剰なまでに人々に供給されてきました【1】。程度の差はありますが、こうした子ども・若者論のほとんどは、青少年の過去と現在を比較し、「今の青少年は、おかしくなっている」というような現状を否定的に見る結論に終始しています。
    しかしながら、子ども・若者論というものは、マス・メディアによってつくられた青少年へのイメージをもとにして構成されていることも少なくありません。マス・メディアは、非日常的で、これまであまりなかったできごとを好んで取り上げるという傾向がありますから、1000人に1人いるかどうかという、例外的な青少年の事例が、まるで、今の青少年たちすべての実態であるかのように報道されることもあるでしょう。そして、そうした報道によって、青少年たちを否定的に見る向きの子ども・若者論が構築されていくこともあるのではないかと思います【2】。
    また、大人と青少年の間には、存在してしかるべき世代間の格差というものがあります。大人と青少年は、お互いに社会的な立場と生活環境が違うので、そもそも、その意識や行動のあり方に格差が出るのは当然なのです。ですから、それを取り上げていけば、きりがありません【3】。それに、大人と青少年は、お互いに生まれ育った時代も環境も違いますから、その意識や行動に格差が出るのも普通なことです。こうした格差というものは、存在して当然のものであって、それは、安易に青少年を否定的に論じるための「道具」にするべきものではないのです【4】。
    こうしたことを踏まえて、近年、軽薄な子ども・若者論は、もうやめよう、それよりも、もっと現実に即した真摯な議論をしていこうという声が、社会学域の研究者たちを中心に主張されるようになりました。ですが、そうした主張は、進歩的な研究者や教育実践家を中心にしたもので、まだ、教育界全体、ひいては、社会全体を揺さぶるものにはなっていないというのが現実でもあります。そこで、本稿では、そうした主張が、もっと教育界全体、社会全体に響いていくようにという願いから、現代の子ども・若者論について考えてみたいと思います。

  2. 「KY」という流行語と子ども・若者論
    かつて、青少年に共有されていた著名な流行語に、「KY」という言葉があります【5】。この言葉は、「空気が読めない」という言葉をローマ字に変換し、その頭文字をもとにつくられた略語です。言葉の流行の最盛期は、およそ、2007年から2008年ごろで、当初は一部の子ども・若者を中心とした流行語でしたが、のちに、その流行の様子がメマ・メディアに取り上げられると、年齢や性別を問わず、全国的に言葉の認知度が高まることとなりました。
    本稿では、この「KY」という言葉をもとに、子ども・若者の流行語が、大人たちから、どのように解釈され、どのように語られ、子ども・若者論が生み出されていったのかということについて見ていきましょう。
     年度 2006 2007 2008 2009 2010 2011
     件数  0 26  35  12  12 
     ※表1 「KY」に関する新聞記事数の変遷

    上の表は、「KY」という言葉の流行の実態を探るために、2006年から2011年までの『朝日新聞』の新聞記事を手がかりとして、私が作成したものです【6】。朝日新聞には、2007年以降、「KY」という話題をした記事が、全部で93件登場しているのですが、それらを年度別に分けると、この表のようになります。
    これを見ると、新聞記事には、2007年から、「KY」という言葉が出現するようになり、2008年をピークに、その後、ゆるやかに減少していく様子がうかがえます。こうした様子には、流行語としての「KY」への人々のまさざしが反映されているといえるでしょう。

    「KY」という言葉が若者の間ではやっている。「空気(K)が読めない(Y)」ということである。
    私の周りでもよく笑いのネタで使われている。しかし、この言葉に私は違和感を覚える。なにか社会のゆがみが反映されているように思えるのである。「空気が読めない」とは、大多数からもれた人を指すのである。変った人間、少数派を排除しようとしていると、とらえられないだろうか。
    (『朝日新聞〈朝刊〉』「(声)「KY」に見る、いじめの風潮」2007年10月27日)

    中高生の間で「KY」という言葉がはやっているそうだ。「空気が読めない」の略という。民意を読み切れずに参院選で惨敗した安倍前首相を評して、メディアにもしばしば登場した。流行語としてもてはやす風潮に、私は危惧を覚える。
    「KY」は、殺伐とした社会の空気そのもののような言葉だ。労働者は成果主義のもとで疲弊し、学校ではいじめ保護者の不当要求が絶えない。他者への思いやり、個人の尊厳は細るばかりだ。
    携帯電話は使い方次第で、人間関係の閉鎖性に拍車をかける。塾講師の私は、講義中も携帯電話を手放せない生徒を目にする。注意すると、メール返信をすぐにしないと友達と気まずくなるという。メールで緊密に連絡をとりあい、グループ内の人間関係を維持するのにきゅうきゅうとする中高生。メールの返信速度を競い、顔文字や一字一句に神経をすり減らす。その果てに、暗黙の「作法」を一歩誤れば「KY」と排除されるのか。いじめ自殺が相次ぐ中、これほど残酷な言葉を私は知らない。
    (『朝日新聞〈朝刊〉』「(声)「KY」が映す、息苦しい社会」2007年10月30日)

    ここで示した文章は、「KY」が新聞記事に頻繫に登場するようになった2007年の投書欄からの引用です【7】。新聞記事において、「KY」は、さまざまな文脈で用いられているのですが、これらの文章からは、書き手が「KY」の流行という現象と、さまざまな子ども・若者の「問題」という現象を結びつけているということが典型的に読みとれます。以後、『朝日新聞』には、このように、「KY」という言葉を、青少年の「問題」(=友人関係の希薄さ、いじめ、同調圧力など)と結びつけて記述された記事が出現しつづけます。

  3. 「KY」の流行の過程
    しかし、実際のところ、「KY」という言葉は、本当に、青少年の「問題」を言い表したものなのでしょうか。また、「KY」の流行と、この言葉が青少年の「問題」は、本当に結びつくものなのでしょうか。こうしたことを明らかにするために、まずは、「KY」が、どのようにして、子ども・若者の間で大規模に流行していったのかという道筋を検証してみたいと思います。

    最近、中高校生の間では、「KY」という言葉がはやっているらしい。
    「K」とは「空気」、「Y」は「読めない」。仲のいい友人同士の間で、周囲の雰囲気に気づかず身勝手に行動する級友がいたら、「あの子はKY(空気が読めない)だ」という使い方をする。
    この若者言葉が安倍首相を評する時にも使われている。
    (『朝日新聞〈朝夕刊〉』「(窓・論説委員室から)安倍首相は「KY」?」2007年8月10日)

    この文章は、『朝日新聞』において、最初に「KY」が登場した記事からの引用です。ここからも読みとれますが、この当時、マス・メディアでは、総理大臣の安倍晋三さんを評する言葉として、子ども・若者の間で流行していた「KY」が、しばしば使用されていました【8】。その後、この「KY」は、2007年11月に「ユーキャン新語・流行語大賞」(「現代用語の基礎知識」選)にノミネートされ、さらに、2008年2月に株式会社・大修館書店から、『KY式日本語』という書籍が出版されたことなどにより(同書は発売から1ヶ月半の期間で、5刷20万部のベストセラーになりました)、その知名度を増していったようです。それを裏づけるように、2008年には、『朝日新聞」においても、「KY」の出現した新聞記事数が、もっとも多くなっています。
    最初に、いつ、子ども・若者が「KY」を使いはじめたのか、また、いったい誰が使いはじめたのかなどということについては、よくわからないのですが、少なくとも、この言葉は2007年に入ってから、子ども・若者の間で流行しはじめました【9】。そして、それを全国的な規模の流行にまで押し上げたのは、先に見たような、マス・メディアの功績であり、すなわち、これは、ほかでもない大人たちの功績であるといえます。このように見てくると、「KY」という言葉は、その流行の最盛期には、「子ども・若者の間で流行していた」のではなく、「大人たちの影響によって、子ども・若者の間で流行していった」と見るほうが適切ではないでしょうか。
    ですが、この「KY」は、友人関係の希薄さ、いじめ、同調圧力など、子ども・若者の「問題」を説明するには、とても、使い勝手のよい「意味」を持つ言葉でした。そのために、「KY」という言葉は、大人たちから「意味」を読み替えられ、単なる流行語というレヴェルから、子ども・若者の「問題」をあらわすレヴェルの言葉として、再構築されていったのです。「KY」が子ども・若者の間で流行しているという事実は、彼らが「異質な人間を排除しようとしている」ということ、「他人の視線を気にして生きなくてはならない」などということと結びつけられ、次々に青少年の現状を否定的に見る、子ども・若者論が生み出されていきました【10】。
    こうした子ども・若者論が、「KY」という言葉は青少年の「問題」にかかわるもの、教育の「問題」に関わるものとして読む態度を、人々に採用させることになったと思われます。そして、そのような「KY」への解釈は、再生産され、さらに拡大していくこととなります。ですが、そこには、「KY」という言葉を子ども・若者に隅々まで浸透させたのは、大人たちであるという視点が完全に抜け落ちていて、それは、まったく考慮されることはありませんでした。「KY」を使用した子ども・若者論には、大人たちによって拡散された言葉を青少年が使用し、それを大人たちが否定的に解釈するという、奇妙な構造が隠れていたのです。
    さらに、このような子ども・若者論には、実際に青少年が、どのような文脈で「KY」という言葉を用いているのかということを問い直す視点は、ほとんどありませんでした。たとえば、「KY」は、親しい関係にある子どもたちの間で語られるとすれば、それは、お互いの親しさをあらわす言葉となるでしょうし、同様の関係にある教師と生徒の間で語られても、やはり、同じような種類の言葉になるでしょう。
    本来、言葉は、それが語られた前後の文脈と引き離すことのできないものなのです。ですから、いつ、どこで、誰が、誰に、どのような口調で語ったかなどの前提を抜きにしては、その言葉の「意味」は半減してしまうか、誤解されるという危険性を孕んでいます【11】。そうした性質を持つ言葉(=流行語)を、子どもたちの生活文脈から引き離して、ただ、言葉の見かけだけの「意味」に注目し、子ども・若者論をつくるとしたら、それは、空想と妄想に満ちた、物語(フィクション)の創作に近い行為だといえるでしょう【12】。けれども、「KY」をもとにした多くの子ども・若者論は、こうした行為のレヴェルから脱却することはできませんでした。

  4. おわりに
    本稿では、「KY」という流行語をもとにして、現代の子ども・若者論についての考察を進めてきました。
    子ども・若者論は、おもに、研究者や評論家、ジャーナリストなどによって生み出されていくものです。そうした人々にとっては、青少年は貴重な「資源」であり、ある意味で、子ども・若者論は、彼らを「消費」するものといえるのではないでしょうか。青少年の「問題」を解決しようとして、過剰な子ども・若者論を生み出すことになれば、社会には、青少年への否定的な評価があふれていくことなります。すると、結果として、青少年には社会からの「疑惑のまなざし」が向けられることになるかもしれませんし、そうした評価は、さまざまな種類のメディア(=テレビ、ラジオ、新聞、書籍、雑誌、映画、音楽、そして、「授業」や「講義」という、「空間系メディア」も含めて)を通して、青少年たち自身にも降りそそぐこととなるのです。それ自体が、彼らの自己肯定感を損なうものになっていくかもしれませんし、彼らの生きづらさを誘発するものになるかもしれません。また、青少年への否定的な評価を、彼ら自身が再生産していくことにもつながるかもしれないのです。
    もちろん、多くの子ども・若者論は、青少年を思いやる論者たちの「善意」から生まれていると思いますが、そうした「善意」が、場合によっては、青少年の害悪になることもあるということを踏まえて、時には、禁欲的に自制することも必要なのではないでしょうか。これは、私自身への戒めでもあるのですが。


《脚註》
【1】こうした子ども・若者論(=「教育言説」のひとつ)の出現は、戦前から続くものでした。教育言説の歴史については、以下の文献に詳しく書かれています。広田照幸『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会、2001)。
【2】たとえば、ここ数十年、青少年による犯罪は減っているのにもかかわらず、マス・メディアによる報道の量は増え続けています。それによって、多くの人々が青少年による犯罪が増えている(=青少年が凶悪化、凶暴化している、おかしくなっている)と思い込んでいる状況などは、まさに、マス・メディアによって、青少年を否定的に見る向きの子ども・若者論が構築されている事例であると見てよいでしょう。これについては、次の文献に詳しくまとめられています。土井隆義『若者の気分――少年犯罪〈減少〉のパラドクス』(岩波書店、2012)、鮎川潤『少年犯罪――ほんとうに多発化・凶悪化しているのか』(平凡社新書、2001)。これらの文献は、一般向けに書かれているものなので、読みやすいものです。
【3】竹内郁郎・児島和人・橋元良明『メディア・コミュニケーション論』(北樹出版、1998)によれば、学生と社会人では、社会人のほうが友人との深つきあいを望む傾向があるという結果が、ここ数十年の社会調査から明らかになっていると指摘されています。すなわち、中高年齢層から見ると、いつの時代も、学生は、「対人関係が希薄」な存在なのです(同書、123‐124頁)。こうした例を通して考えると、世代間の格差を簡単に子ども・若者論の「道具」とすべきではないと思い知らされます。
【4】1973年に、社会学者の濱島朗さんは、その年代の青年の特徴について、「なりゆきまかせ」、「生きがいの喪失」、「ドライ」、「没イデオロギー」、「共生性の欠落」、「自閉主義」などのキーワードを用いて説明をしました(濱島朗『現代青年論』(有斐閣、1973)。これらの言葉は、ほとんどそのまま現代の子ども・若者論に通じるものがあるのではないでしょうか。こうした子ども・若者論は、結局のところ、世代間に存在する格差について触れたものにすぎないのです。
【5】現在でも、この言葉は青少年に共有されていますが、もはや、すっかり定着し、流行語というレヴェルではないでしょう。
【6】本稿では割愛しましたが、現在、『朝日新聞』以外の新聞記事からも、「KY」という言葉の流行について考察した論考を用意しています。ここでは、朝日新聞社の「聞蔵Ⅱ」を利用し、「KY〈AND〉空気」という、2つの単語から新聞記事数(全分類・全期間)を検索し、そこから抽出された記事から、「KY」に関するものだけを抜粋し(検索をかけただけでは、「TOKYO」など、「KY」を扱ったものではない記事までも抽出してしまうからです)、表を作成しました。もちろん、一種類の新聞にだけ注目して、「KY」という言葉の流行の実態を探ることは、必ずしも適切な方法ではありません。それに、さまざまな方向性のテーマを扱う新聞記事から、厳密な意味での「KY」の量的な増減を語ることは難しいでしょう。しかし、流行の大まかな傾向を探ることはできるだろうという考えから、このような表をつくりました。なお、「KY」に関する記述のある記事のうち、「KY」そのものを主題として扱っている記事は、2007年から2011年の間に、18件ありました。それ以外の76件は、「KY」を小道具として使用する内容のもの(たとえば、「KY内閣」などの用例がそれに相当します)、あるいは、副次的に「KY」について触れる内容のものでした。
【7】「KY」が子ども・若者の「問題」を指す言葉であると明確に記述されている内容の文章は、とくに、2007年の投書欄に多く見られました。
【8】たとえば、「(ことば談話室)空気を読む 背景に若者気質も」(『朝日新聞』2007年10月7日)など。その後も、現在まで、各社の新聞記事には、政治家や政党を「KY」という言葉で例えるものが登場し続けています。
【9】2007年以前の各社の新聞記事には、「KY」の記述が登場せず、また、女子中高生の流行語が反映されやすい、『nicola』(新潮社)、『LOVE BERRY』(徳間書店)、『Seventeen』(集英社)、『Popteen』(角川春樹事務所)などの各誌にも、同時期より前には、「KY」は登場していないので、2007年以前は、それほど流行していなかった、あるいは、まったく流行していなかったと考えるのが妥当でしょう。
【10】代表的なものとしては、以下の文献が挙げられます。土井隆義『友だち地獄「空気を読む」世代のサバイバル』(ちくま新書、2008)。また、その他にも、菅野仁『友だち幻想』(ちくまプリマー新書、2008)142‐143頁、『日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか』(集英社新書、2009)125‐127頁などにも、「KY」に関する記述はあります。また、各新聞社の新聞記事にも、同様の向きの「KY」に関する子ども・若者論は確認することができます。
【11】田浦武雄『教育の現象学』(福村出版、1975)174‐190頁。
【12】オランダの教育哲学者であるマルティヌス・ヤン・ランゲフェルト(1905~1989)は、子どもや子どもをめぐる事態について考えるときには、大人の側の意識や思考からではなく、彼らの意識や思考を理解したうえで、彼らの側(=内側)から、それを眺めるべきであると主張しています(和田修二・皇紀夫・矢野智司『ランゲフェルト教育学との対話』〈玉川大学出版部、2011〉191‐192頁)。これは、次にように例えると、わかりやすいでしょうか。――「先生、気持ち悪い」と、体調不良を訴えた生徒がいたとして、それに対して教師は、「先生に気持ち悪いとは、何事だ!」と怒ったとします。これは、教師が自分の側の意識や思考だけで生徒の発言を注意したのであって、生徒の側の意識や思考とは、かけはなれた次元の指導といえるでしょう。ここで教師は、「生徒が教師を気持ち悪いと罵った」という、物語(フィクション)の創出を行なったのです。……このような事例は、単純な聞き間違いのレヴェルのものですが、こうした聞き間違いの構造は、「KY」をもとにした多くの子ども・若者論に見られるものですし、学校教育の場面においても、しばしば散見されるものではないでしょうか。

(かがわ・ななみ 日本大学大学院文学研究科博士前期課程・教育社会学)

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