“検証 高校改革推進計画”を読んで
「学校とは何か」 ふたたび語り合う時が来た
 
宮田 雅己

  1. はじめに
     ねざす45号の特集 「高校教育改革推進計画の検証」 に 「『学校』 と 『非学校』 の間 再編後のいまどのような学校をつくるのか」 のテーマで書かせてもらった。 今回は、 『ねざす』 47〜49号に掲載された教育研究所名の論文 「検証 高校教育改革推進計画」 (以下 「検証」) を読んでの感想を書くよう依頼された。
      「検証」 は46ページにおよぶ大部なもので、 (その 1 ) で県教委が 「県立高校改革推進計画」 (以下 「計画」) を立案するまでの生徒急増→百校計画実施→課題集中校の発生→グローバル社会化と並行した学校批判の高まりをていねいにたどり、 (その 2 ) で 「計画」 発表・高教組2003年委員会 「神奈川の高校教育改革プログラム」 (以下 「プログラム」) 発表→ 「計画」 の実施・「計画」 の理念と矛盾する学力向上政策の開始の経過をさらっている。 そして、 (その 3 ) では、 「計画」 の理念の実現具合や、 「計画」 実施後のある高校に通う生徒の居住地や通学時間の変化や入試結果の変化など新しい資料を紹介している。
      「計画」 の前から後までを丁寧に追ったこの 「検証」 は、 「計画」 の全貌と 「計画」 前後の20年間にその場その場で感じた感覚を思い出させてくれた。

  2. 「検証」 を読んで再確認した 「計画」 の落ち度
      『ねざす』 45号でも指摘した通りだが、 私は 「計画」 の結果について唯一評価していることは、 不登校生徒に代表される、 それまでのあり方の学校ではない学校 (これを 「非学校」 と名付けてみた) を望んでいる生徒のねがいを社会的に公認し広め、 そういうねがいに応えることも教育機関の役割なのだということを多くの教職員や市民に突きつけたということだ。 今回 「検証」 を読んでみてあらためてこの感を強くもった。 その理由は、 以下の 「計画」 への批判によっている。
    1. 「計画」 は結局学校数減らしが主目的だった。
        「計画」 は様々な理念を並べ立てるが、 この理念実現のためになぜ 2 校を統廃合しなくてはならなかったのか。 理念実現なら、 単独改編でよいはずである。 「計画」 発表当時から私たちが批判してきたように学校数減で全日制進学率が、 とりわけ川崎や横浜などで下がることになった。 このことは、 「検証」 (その 3 ) でも批判している。
    2. 「計画」 の掲げる理念は 「計画」 実施でなければ実現しないものではなかった。
       多様・柔軟・個が生きるなど 「計画」 が掲げた理念があるが、 総合学科・単位制などの新タイプ校でなければ実現できないものではなかったはずだ。 事実、 新タイプ校以外の学校でも、 学校運営はかなり柔軟になってきているし、 多様・個の幅をどれくらいとるかにもよるが、 発達障害を抱える生徒たちへの対応力を例にとれば、 かなりの学校でその力を強めてきた。 どうしてもモデル校として形にしたければ、 学区 1 校の単独改編でよかったはずだ。
    3. 「計画」 は 「計画」 の名で行政の求める学校改造を進める隠れ蓑だった。
       職員会議の形骸化・校長の権力強化・分掌からグループへ・企画会議・観点別評価など、 現場の教職員を苦しめる学校改造は、 どれも 「計画」 とどこかでつながっている。 生徒にとって柔軟な学校が新タイプ校なら、 教師にとってがんじがらめの運営の学校も新タイプ校から発していた。 良くも悪くも教員文化・学校文化を壊すのが目的だったら、 はじめからそう言うべきだった。
    4. 「計画」 は 「事業化→成果報告」 の学校運営を学校現場に持ち込んだ。
       平均的な生徒に平均的な教員がかかわり、 平均的な学習や行事を実現する平均的な学校は評価されず、 基準となる予算配当も低く抑えられた。 かわりに、 新しい取り組みを見つけそれに名前を付け 「事業」 化した 「事業」 に対して予算が付く。 「事業」 を行った学校はそれに見合った結果が出たか 「成果」 を報告する。 「計画」 以来これが当たり前の学校運営となった。

  3. 「成果」 のでない普通のことにも予算を付ける教育行政に
     私の望むことは、 「計画」 の落ち度の再修正である。 平均的な学校は学校としてはふさわしくないのか、 再度一から検討したい。 その時に、 高校生・卒業生の声も反映したい。 教員が県教委や校長の意を体して働くことが、 教育という行為を実施する上で本当にいいのか、 このことも同様に検討したい。 そして、 教育予算が目に見える 「事業」 化されたものだけに配当されるやり方が、 教育全体をうまく回すことになるのか、 根本的な検討を加えたい。
      「事業」 の結果、 それにかかわった高校生が育ちを見せることもあるかもしれない。 しかし、 学校という所での育ちの多くは 「事業」 になっていない、 ごく普通の毎日の生活や学びの中で高校生に獲得されているのではないか。 良いことなんだけれども 「事業」 にするにはおよばないことや 「事業」 にしたがためにその良さが消えてしまうこともたくさんある。
     高校再編という祭の終わったいまこそ、 こうした小さな事実を再度掘り起こし見つめて、 新タイプ校もそうでない学校もはしゃぎすぎない学校づくりを再び始めたらどうだろうか。 県教委はそれをこそ支えるべきである。

 (みやた まさみ 生田高校教員)

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