高等学校独自のインクルーシブな学校創り
    〜 組織的発達障害の萌芽について 〜
 

中田 正敏
 国の動向を受けて 「インクルーシブ教育システムの構築」 というコンセプトでの雑誌の特集が組まれるようになってきた。 特殊教育から特別支援教育への転換が検討され始めた頃の国の報告書には、 インクルージョンという用語は付属資料の脚注に最も小さなポイントで記載されていた。 隔世の感もあるが、 教育制度のレベルでのインクルーシブ教育システムの構築の提言は、 マイクロシステムのレベルで生徒と日々接している私たちの実践にどう関係するのか。
 国の報告書ではインクルーシブ教育システムの連続体のひとつとしての高等学校を位置付けている。 こうした位置付けとは異なる形で、 インクルーシブな学校創りというテーマの設定もある。 このテーマについては 「サラマンカ宣言」 でも既に提起されていて、 宣言に付属している 「行動大綱」 では、 これまでにないようなインクルーシブな学校が生徒と教職員の関係性の中で形成される可能性についても述べられている。
 インクルーシブな学校創りについて考える時、 神奈川の高等学校でもいくつかの具体的な切り口があり、 それについては既に現場ではインクルーシブというように表現されてはいないものの、 実際には芽生えつつある。 ここでは、 高等学校の組織的発達の萌芽について考えてみたい。

 まずは、 生徒の声をどのように把握しているのか、 という切り口がある。
 L.S.ヴィゴツキーというロシアの心理学者、 教育学者がいる。 教員採用試験の教育心理学の分野で出題されていたのを覚えている。 発達の最近接領域という用語と結びつけると正解だった。 そのヴィゴツキーが否定的定義・消極的定義について議論をしている。
 否定的定義は私たちの回りに満ち溢れている。 ◯◯ではないという定義である。 ヴィゴツキーはこの把握の仕方に異議を唱える。 例えば、 黒でないものという定義は、 黒という色以外の色の集合体を示すものである。 多様なものを一括して強引に意味づけることにもなるので、 実践的にも理論的にも成立しがたいという議論である。 否定的定義は人の多様性に着目しない。 発達障害に関する定義や非行などの問題行動に関する定義には、 そのほとんどが否定的定義である。 否定的定義のコンセプトの列挙は、 難問山積という言葉で締め括られがちである。 前途は暗くなる。

 しかし、 生徒の声を聴く場面に先ず身を置くことにより、 それがすぐれた実践に繋がることがある。 その生徒って、 どういう生徒?と聴かれると、 最初は否定的定義を使って表現しているが、 やがて、 生徒の声から、 その生徒も自分なりに現在のところは、 ◯◯できないという状況から離脱しようしているという状況にあることを知ることがある。 苦境から抜け出すために、 なにかに挑戦している生徒は、 肯定的に定義される。 ◯◯が出来つつあるというように。 そこには、 実に多様な試みがあり、 それについての支援も多様である。 いろいろやり方がある。 前途が拓ける。

 こうしたプロセスについては、 手順を踏む形でフローチャート風に展開することは稀であり、 多くは表面的にはかなり 「場当たり」 的である。 最初の場に当たる時には、 否定的定義が起点になることもある。 しかし、 そうした場を経験するうちに、 つまり、 生徒の声を聴き、 対話的な関係性の中で、 否定的定義が肯定的定義に転換する 「場数を踏んでいく」 うちに、 生徒の把握の仕方が洗練されていく。 その場その場で、 その都度その都度、 否定的定義が肯定的定義に書き換えられることになる。
 このようにして、 生徒の声が何らかの肯定的定義で語られるようになることが、 インクルーシブな学校創りの切り口のひとつである。

 次の切り口は教職員の協働である。
 先に述べた生徒の把握の仕方を洗練化させるためには、 その場その場で、 その都度その都度、 生徒の声を教職員のあいだで伝え合うことが必要である。 協働の原初的なものであるが、 オン・ザ・フライ・ミーティングという造語がある。 多くのフォーマルなミーティングは、 会議室の机で椅子に座って行われる。 この形は、 オン・ザ・シート・ミーティングであるが、 それぞれの立場で発言が形式的なものとなり、 かなり限定的になる傾向があることも指摘されている。

 この 2 つのミーティングの関係はどうなっているのだろうか。
 例えば、 フォーマルな職員会議が会議室で行われた後、 三々五々職員室に引き揚げる時に、 自然に発生するのがオン・ザ・フライ・ミーティングである。 実に本質的、 具体的な事柄が開放的な雰囲気で話されることが多い。 フォーマルな場では出しにくいが、 組織にとっては貴重な論点が話題になっている。
 休憩時間の職員室内で何気なく即興的に行われているオン・ザ・フライ・ミーティングもある。 生徒に関する話題が豊かに交わされていると、 生徒指導のフォーマルな会議にもよい影響を与える。
 形式張らずに気軽に即興的な立ち話をすることを、 フォーマルな会議の補完物として位置付けることも可能である。
 しかし、 むしろ、 こちらのタイプのミーティングを主導的なものとして考えることもできるのではないか。 つまり、 やや非生産的な傾向を持つことがあるオン・ザ・シート・ミーティングは、 日常的なオン・ザ・フライ・ミーティングの総括をしているものとして機能的には補完的なものとして位置付けられる。   
 支援ができる組織がどのように機能するか、 という観点に立つと、 オン・ザ・フライ・ミーティング主導の考え方のほうが適合的であるようだ。

 ここまで、 生徒の声を聴くというかなり原初的な実践と、 それを引き継ぎ、 支援を創り出すためには、 教職員のあいだの協働の原初的な形態とも言えるオン・ザ・フライ・ミーティングが必要不可欠であることについて述べてきた。
このふたつの対話的な関係性が構成する 「対話のフロントライン」 は、 支援プログラムを生成する豊穣な場である。 生徒の声から協働が導出され、 それが支援プログラムの創出につながり、 例えば、 昨年度は対応できなかったが、 今年度に入り開発された支援プログラムにより対応ができるようになったということが高等学校の現場でも可能になりつつある。 これはインクルーシブな学校としての組織的発展であり、 高等学校という組織の新たな可能性を示すものとも言える。

 高等学校は特殊教育の時代から特殊教育が組み込まれないままに、 特別支援教育の時代に参入した。 そのため、 支援のための資源が皆無であるとする発言に出会うことがある。 特別支援教育という枠組みではかなり遅れていることは確かかもしれない。 しかし、 インクルーシブな学校創りについて、 高等学校独自の取り組みは、 特別支援教育的な手法とは異なる軌道、 言い換えると、 特別支援教育的な従来の枠組みにこだわらない軌道を辿ることも可能なのではないか。 「対話のフロントライン」 を土壌とする形で多様な支援プログラムを生成していくインクルーシブな展開の萌芽はある。 このような取り組みの中で、 特別支援教育の実践を参考にするということはあり得るとしても、 このような高等学校独自の取り組みもなしに単発的に外部からあれこれ導入してもあまり意味がないだろう。


 (なかた まさとし 教育研究所代表)
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