【寄稿】

教科書をめぐる最近の動き
―2015年夏、中学校教科書採択問題を中心に―

樋浦敬子

はじめに
  4年に一度の中学校教科書採択が,この夏に行われた。前回2011年、育鵬社が歴史と公民でシェア約4%を占めたことが話題になった。特に神奈川県では歴史・公民を横浜市(従来18採択地区であったものを1採択地区に変更していた)、藤沢市などが採択したため、県内最大シェアの教科書となっていた。
 この4年間、教育・教科書をめぐる「安倍教育再生」政策がさまざま進められた。その中で、日本教育再生機構が広報誌『教育再生』などを通じて育鵬社「採択運動」を広く呼びかけており、育鵬社をめぐる動向が,2015年の今採択でも注目されていた。
  1. 格差社会と定時制
     中学校教科書をめぐる「安倍教育再生」の動き
    1. 中学校教科書検定に向けた規定の改定
       2013年1月、教科書検定基準が改定された。その内容は前年6月発表の自民党の提言と酷似しており、「自民党の教育への不当な支配・介入である」との批判もおこった【1】。
       「公正・中立でバランスの取れた教科書の記述になるよう教科用図書検定基準の改正」
       (1)未確定な時事的事象について記述する場合に、特定の事柄を強調し過ぎていたりするところはないことを明確化する。 (2)近現代の歴史的事象のうち、通説的な見解がない数字などの事項について記述する場合には、通説的な見解がないことが明示され、児童生徒が誤解しないようにすることを定める。
       (3)閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解や最高裁判所の判例がある場合には、それらに基づいた記述がされていることを定める。

       また学習指導要領解説書の改定(中学校・高校の社会科)を行ない、「領土の記述問題」「災害時に自衛隊等が果たす役割」についてが加筆された【2】。さらに4月、検定審査要項に「教育基本法が示す目標に照らして基本構成に重大な欠陥があれば不合格」というルールが加えられた。
    2. 採択をめぐる通知・国会での論議
       文部科学省(以下文科省)は今年4月7日「平成28年度教科書の採択について(通知)」を都道府県教委に発出した。今までも文科省は採択権者の権限と責任で採択を行うよう通知を出してきているが、今年の通知については、絞り込みの禁止を指示したものだと一部で喧伝された。
       その後、4月22日の衆議院文部科学委員会での議論でこの通知を含む採択の問題が取り上げられた。教員は「生徒に適した教具及び教授法を判断する資格」を特に有していること、教科書の選択についても「主要な役割」が与えられるべきとする「ILOとユネスコの教員の地位に関する勧告」についても尊重されるべき事を文科大臣が言明。また文科省初等中等教育局長も、採択権者の責任と権限での採択を前提としつつも「必要な専門性を有し、児童生徒に直接指導を行う教員が果たす役割は決して小さくない」、「採択権者が調査研究の結果を十分吟味し、審議を行うことが必要」「調査研究の結果としての評定を付し、それを参考に」採択が行われることは不適切ではないと、4月7日の通知について説明をした。また総合教育会議において,教科書採択は協議題にすべきでないことも言明した【3】。
  2. 中学校社会科教科書は今
    (1)今春の検定結果は
     2015年4月7日,新聞各社は一斉に中学校教科書の検定結果を報じた。「竹島・尖閣全教科書に―『固有の領土』明記」(読売新聞)、「にじむ安倍カラー」(毎日新聞)、「正常化 課題は『高校』」「自虐史観傾向やや改善」(産経新聞)「検定 教科書に政府見解加筆―中学慰安婦など意見6件」(朝日新聞)等。災害時に自衛隊が果たす役割についての叙述急増(現行3点→13/18)また海外派遣を「国際貢献」と捉える教科書が増えたとの報道もあった。その多くが検定による記述変更ではなく、「国の意思を明確に感じた」【4】教科書会社が、検定基準、指導要領解説書の改訂を受けて自発的に対応したものである。
     新基準の適用例として各社報じたのが関東大震災の被害者の数をめぐる記述であった。「警察・軍隊・自警団によって殺害された朝鮮人は数千人にのぼった」(現行教科書)を「自警団によって殺害された朝鮮人について当時の司法省は230名余りと発表した。軍隊や警察によって殺害されたものや司法省の報告に記載のない地域の虐殺を含めるとその数は数千人になるとも言われるが、人数については通説はない」と変更した(清水書院)。
    (2)教科書叙述の比較
     検定基準の変化、自民党の「教科書の検定の在り方特別部会」による教科会社の事情聴取【5】、国会での攻撃【6】なども影響したのか,各社の叙述が変化した。しかし勿論多くの記述には、それぞれの教科書の工夫や主張が見えてくる。ここでは公民の平和に関する主な記述を紹介する。

    [帝国書院]日本国憲法は,前文において、ふたたび戦争の惨禍が起こることがないようにすることの決意を明確にしています。そして、第9条で戦争を放棄し,戦力を保持しないことや、国が戦争を行う権利を認めないことなどを定め、平和主義を宣言しています。日本は平和主義の下、第二次世界大戦後一度も戦争にまきこまれることなく、平和を守ってきました。

    [育鵬社]第二次世界大戦に敗れた日本は,連合国軍によって武装解除され、軍事占領されました。連合国軍は日本に非武装化を強く求め、その趣旨を日本国憲法にも反映させることを要求しました。このため,国家として国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、「戦力」を保持しないこと、国の「交戦権」を認めない事などを憲法に定め、徹底した平和主義を基本原理とすることにしました。(中略)戦後の日本の平和は、自衛隊の存在とともにアメリカ軍の抑止力(攻撃を思いとどまらせる力)に負うところも大きいといえます。【7】

    (3)学び舎が問うていること
     「学び舎」が歴史に新規参入した。一度不合格になり、再度提出、合格したという。最終的には30名の元教員及び教員だけで「子どもの視点での教科書」を執筆。研究者などをコア=アドバイサーとして組織。助言を受けながら完成した。見開き2ページで1テーマ、「子どもたちの問いを生み出す」導入から始まる。タイトルはどれも大変興味深い。例えば日露戦争は「戦場は中国であった―日露戦争」で、日露両軍により住むところを追われた9万人の中国人難民についての囲みから始まる構成だ。子どもがたくさん登場すること、人々の生活に注目することなども特徴である。また太字(重要語句)がない。これについては、子どもにとっては重要語句の積み重ねが歴史を学ぶことになってしまう、だから太字をやめて人々の姿から浮かぶ問いや疑問をもとにして、子ども自身の自分なりの読み取りができるようにしたと著者の一人安井哲夫は言う【8】。中学校の教科書ではあるが、高校の教員も参考にできる切り口、使える資料満載である。
  3. 今年の採択
    (1)日本教育再生機構の「採択戦」
     「日本教育再生機構」と「改正教育基本法に基づく教科書改善を進める有識者の会」(「教科書改善の会」)は月刊広報誌『教育再生』などを通じて育鵬社の「採択戦」【9】の旗をふってきた。新教育委員会制度を総合教育会議等で首長の意向が反映できるとして歓迎、2014年6月には「教育再生首長会議」が発足。さらに「教科書無償措置法」の改正で採択地区の縮小が可能になったとことも期待されていたが、採択地区の縮小は進まなかった。【10】
     見本の教科書は展示会で閲覧する以外、現場の教員も市民も手に取る機会はないが、育鵬社教科書のみ、連休明けから日本教育再生機構が1冊1000円で販売している。また日本教育再生機構は「採択率10%以上を目指して」特別基金を募集。今年の4月まで10万円以上の法人基金を46口、1万円以上の個人基金を456口集めたと報告している【11】。9月7日に「日本教育再生機構」と「教科書改善の会」は連名で採択状況と「コメント」を発表、2016年度版育鵬社の採択は歴史約6.2%、公民約5.6%となり「幅広い支持を受け躍進」とした【12】。
    (2)藤沢市の場合
     藤沢市教委は2011年、歴史も公民も育鵬社を採択。私は藤沢市在住で、2011年以降、教育委員会傍聴、中学校の先生方と育鵬社を含む各社の教科書研究、地域の皆さんとの大小さまざまな学習会開催などを中心に活動してきた。他のグループと共に採択に当たっては「中学校の先生方や保護者の意向を尊重してほしい」という要望書を54,000筆を超える賛同署名を添えて提出。意見書を展示会へ行き、提出しようという呼びかけも行った。
     こうして7月29日の採択を迎えた。歴史も公民も3年間実際に使用した、教科の専門家であり日々子どもたちの指導に当っている現場の教員の調査研究である「教科用図書調査書」で極端に評価の低かった育鵬社が採択された。公民の賛成発言の要点を議事録でまとめた。【13】

    *自分の過去、現在、未来を考えることで,他人事であったことが自分事になり、学習の内容に理解につなげられる、公民的資質を育む、自ら考える設定、非常にできのよい教科書(A委員)
    *他人事ではなく自分のこととして現代社会をとらえる教材を充実させている(B委員)
    *全体の記載が自由、ゆとりと自由度、授業に参加できるようなタイプの教科書、国の権利とか領土問題について詳しく提示、規律正しく対応する日本国民の評価(東日本大震災の叙述について)が生徒たちに日本人としての誇らしさを感じてもらえる一助になるのではないか(C委員)
    *自分も国や社会などの公の一員として考え、公のために行動できる人と公民の意味をわかりやすく説明、義務教育を終了して,社会に出る前の心構えを養うのにとてもいい、考え、話し合う活動ができる、子どもたちに興味を引く内容になっている(D委員)

     歴史も公民も教育委員が上記のような推薦の弁を述べただけ。委員の発言は、冒頭委員長が列挙した参考にした資料を、どのように吟味したのか、賛成の理由の根拠も全く不明である。これだけ議論のある教科書をこれから4年間市内の子どもたちに手渡すという自覚がそれぞれの委員にあるのだろうか、傍聴をしながら疑問に思った。現在多くの疑義について公開質問書や教育委員会請願で市民に対して説明を求める動きが起こっている。
  4. 教科書を選ぶのは誰か
     2011年の採択時に藤沢市教育委員で、唯一育鵬社に反対した澁谷晴子さんは、取材に答えて次のように言う。「教育委員が教科書すべてを読み込み、分析するのは不可能。調査書にまとめられた教諭の意向を踏まえずに採択するのであれば,委員個人の趣味・趣向による判断だと言わざるをえない」「レイマンコントロール(素人による統制)と言われている教育委員会だからこそ,教育実践のプロである教諭の意向を尊重する必要がある。議論の場をもっとオープンにして,教諭や保護者、市民らのさまざまな意見を直接聞く機会を設けてみてはどうだろうか。採択後も学校現場で実際に使ってみてどうだったか、教諭らと意見交換する場があったらいいと思う。次の採択にも生きるのだから」【14】
     中嶋哲彦名古屋大学大学院教授も,採択で教員の意向を無視すれば「教育の劣化をもたらしかねない」「日々、子どもに接している教諭だからこそ,教科書の良しあしが分かる。教育の専門性の担保がない採択を行っているのであれば,その採択には実質的な意味で瑕疵があるといえる」「どのような教科書であれ、子どもたちが疑問を持ち、自分で考えることを促すものである必要がある」「特定の内容を教え込みたいということであれば、それはもはや教育ではなく,戦前に行われた『教化』だ」と語っている。【15】
     教員は、使いづらい教科書だと調査研究で発信したのに、さらに4年間、納得のいかない説明で選ばれた教科書を押し付けられるという思いが強いだろう。でもなかなか市民はその思いが共有できない。地域で「教科書」をキイワードにつながりを作っていくのは大変困難である。多くが教科書は教員の問題、お任せしておけばという認識である。一方で採択の行方を,我が子の教育当事者として深刻な思いで見ている保護者たちもいる。再度採択が行われてしまった今、教員、保護者、そして市民が教科書問題を通して子どもたちの教育について,出会いなおしをするよう迫られているのかもしれない。


【脚注】
【1】子どもと教科書全国ネット21声明(2013年12月25日)
【2】八木秀次(日本教育再生機構理事長)発言。領土教育が登場するようになったことを「自民党への要望が実った」(神奈川新聞2015年7月20日「時代の正体 採択の夏上」)
【3】衆議院文部科学委員会議事録 2015年4月22日質問者は畑野君枝議員(日本共産党)
【4】東京新聞2015年4月17日記事より 教科書会社の担当者の言
【5】2013年5月28日、教科書会社3社(実教出版、東京書籍、教育出版)を呼び、4月に検定結果が公表された高校日本史の内容を中心に数時間に及ぶ「聴取」を行った。(5月29日朝日新聞)
【6】2013年4月10日衆議院予算委員会での西川京子(自民党)、中山成彬(維新の会)の質疑
【7】神奈川新聞2015年7月21日 「時代の正体 採択の夏中」掲載資料より
【8】小冊子『学び舎 中学校歴史教科書 ともに学ぶ人間の歴史』(2015年7月)
【9】「『教育再生』は育鵬社教科書採択の成否で決まる。このような決意で採択戦に臨みます。」(2014年4月号 八木理事長の巻頭言)。
【10】宮崎正治(日本教育再生機構常務理事)は連載「教育再生の窓」(『教育再生』2015年2月号)で問題地域に出向いているが、細分化が進まないことを嘆いている
【11】『日本教育再生』2015年4月号
【12】日本教育再生機構ホームページより
【13】藤沢市教育委員会ホームページ議事録より
【14】神奈川新聞2015年7月22日 「時代の正体 採択の夏下」より
【15】同上

(ひうら たかこ 元県立高校教員)


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