7.理想の学校像〜転編入生が求めるものは?
これまで述べてきた通信制高校について転編入生たちが思っていることは、最後の設問の「理想とする学校は?」と重なり合っています。
この設問は、解答がしにくかったのか、「なし」という回答が12で、無回答が54になりました。ただ、「理想がない」というのは、思い浮かばないということか、「学校」を見限っているのか、その判断は難しいところですが。いずれにせよ、有回答数は134ということです。
これらの回答を、重複や曖昧さがありますが、(1)制度的なこと(2)学習・勉強にかかわること(3)先生・教師のあり方にかかわること(4)個性や自由の尊重にかかわること(5)内面の充実が得られ、人間関係のよい学校(6)規則が抑圧的でないこと(7)楽しく過ごせる学校という7つの視点から分類してみました。それを通して見えてくるものを考えてみたいと思います。(1)制度的なこと〜「単位制」のように柔軟な学校を!
- 学年など関係のない完全な単位制。分かるまでに次に進まないでちゃんと教えてくれる学校。
- やる気を出して勉強しなければ卒業できない単位制がいい。校則なども特に決めず常識の範囲でいい。
- 団体の一人でなく、生徒が一個人であることを認める場所。義務教育ではないので、3〜4年を無駄に過ごすことはなく、全ての高校が単位制がよい。そうすれば本当に卒業したい人が卒業するので感動が大きい。楽しく学校生活を過ごすこともとても大事。
- 年代、学年の枠を取り払って、自由に自分の興味あることを学んでいける学校。科目にも新しく、ユニークなものをとり入れる。
- クラスの生徒数を減らし、先生と生徒がより交流できるように。詰め込み学習ではなく、内容を厳選し、ゆとりある学校生活が送れるように。
- 国、人、年に関係なく誰でも学べる学校。
- 一度中退しても、再び学習の意欲があるなら、年齢などの関係なく学べる学校が本当の学校と思う。
- 中学までで勉強の基礎はいいので、高校は沢山の科目から自分がやりたいものを選び、深く学んでいける学校がいい。
- 趣味を広げたり、進路に関していろいろなことに興味が持てたり、体験できるような学校。
- 自分で好きな教科目を選んで、単位を修得して卒業していくのがいい。今後この手の学校が増えていくのかもしれない。
- カリキュラムなど自由に学びたいことを学べる学校。
- 自分の学びたいものが学べて強制のない学校。
- 通信制と全日制が混ざった価値が良い。勉強は通信制的にやり、通うのは毎日という形がいい。そうすればいい加減にならないと思う。
- 学校に行った目的によって、それぞれにあった学校やクラスに分けても良い。定時と通信の併修なども一般的にできると良い。
- 通信制がいちばんいい(他に類似が8件)。
- 生徒が勉強や学校生活に疲れたとき、半年や一年など自らを見つめなおすための休学期間がとれるようになったらいい。それには休学、留年しても下の学年にすぐ溶け込める環境づくりも必要。
- まず制服・規則は必要ない。お金の無駄。自由な中にも自分らしく過ごせるところ。
- 少人数で、学校だけの勉強でOK。海外の学校を手本としてほしい。
- 自由であるべき。単位やテストは関係なく、出席だけ。
- 好きな時間に勉強できる。3年間くらいで卒業。楽しいところ。
- もっと充実したカウンセリングのシステムがあればよい。
- 自分の家だけで学ぶ学校。
- 全日制の普通校が一番だと思う。
このように実に多彩な学校像が制度に関わることに注目しただけでもでてきています。その中でも、転編入生たちの間には、全日制・定時制の硬直した学校制度には、批判的なことが分かります。いくつか解釈してみると、「単位制」という言葉でイメージされているのは、学年には関係なく学べ、自らの主体的な学習の成果を積み重ねていくことで卒業が可能になる仕組みのことなのだと思います。それは、幅広い選択制と、自らの知的関心を一層深めることのできるカリキュラムを求める意見とも重なり合うものといえましょう。その他に、上記の意見に見られる少人数クラス、再入学の容易さ、画一的でない学ぶ集団、それぞれの学ぶペースが尊重されるシステム、通学頻度の弾力性、制服・校則の無意味さなどは、今ある学校制度とは対極的な仕組みといえます。
ところで、今もって、単位制を「多様化と種別多層化を基本とする高校教育全体の再編成に便利な一つの道具」(「高総検レポート」No.35 1998.7.7より)ととらえる、生徒たちの思いや考えからかけ離れた批判があります。これについては、その批判の根拠になっている肝心の理念(=戦後教育)が現実的な根拠をすでに失っているのでないか、という疑問を断ち切れません。もちろん、その理念が現実的でなくなったのは、政治的な理由が大きいことも、否定できませんが。(2)学習・勉強に関わること〜自分らしさが尊重される学習を
- 個性を大事にする
- 楽しみながら勉強する雰囲気があって、興味があることを伸ばせる。人によって違うからいろいろなタイプの学校があるといい。
- 幅広く深いところまで追及できる勉強ができる学校。
- 自分の延びそうな科目をいっぱいやりたい。学校は人間関係を学び、自分の長所を伸ばすところであってほしい。
- 基礎的なことを学べて、後は自分の学びたいことを学校が用意してくれる。
- 自分で学びたいことを学べる学校。規則が少なく自由な学校。(他に類似が2件)
- 生徒自身が自分の特徴を生かせる学校。もっと選択教科をたくさんに。(他に類似が1件)
- 個人の得意とする能力を伸ばし、社会の求める人材を育てるような学ぶ分野を学校が提供すると良い。
- 自分で勉強して、たまに学校に行って、先生は生徒を絶対見離さず、人を見下さず、分かるまで教えてくれる。授業なんて要点だけを教えてくれればいい。
- 競争社会で難しいと思うが暗記だけの勉強はよくない。心にゆとりを持てる方法で人間として生きている価値を認め、人間としてどのように生きていくかを教えていくほうが今の学校には必要。そうでないと学校はどんどん悪くなる。
- 学校という枠にはめ込まれないで、先生と生徒が仲良く、点数主義ではなく、人間教育に視点を置き、自由に学んでいける学校。
- 必要最低限の時間で学習できて、自分の時間が持てること。
- 考え方などと他の人と対話するような授業形式。
- 社会で役立つこと。(他に類似が2件)
- 学校は学ぶところ。分からないところを聞く場がもっとほしい。聞くことが恥ずかしいと思わせる場ではあって欲しくない。(他に類似が2件)
- 落ちこぼれを落としていかないでほしい。
- 勉強に縛り付けられないような学校。
- 大学にいける学校。
- 働きながら勉強するのはすごく大変。帰宅すると疲れて何もできない。もう少し楽に勉強できればと思う。
生徒の視点から見た学習の望ましい像は、まとめれば大体以下のようになるでしょうか。学習内容は、基礎的なことを踏まえ、あとは自由で多様な選択科目があり、自分の関心・興味を深められる専門的なことができること、また、知識の量・点数にとらわれないこと。学習環境としては、上から教え込まれるのではなく、自由な雰囲気の中で、一人一人を人間として尊重してくれるような教師のもとで、生徒の自主的な学びの行為を進めていけること。こうしたことが、これらの回答の最大公約数といえるのではないでしょうか。
今の学校の中での学習が、生徒たちの主体的に考える姿勢や批判的な精神を培っていないことへの批判がこうした意見から伺えるような気がします。「こんなしっかりした意見をもち、意欲的な生徒ばかりならば、苦労はしないよ」という予想される多くの教師の反応は、ここでは問題にしないでおきましょう。むしろ、そのような生徒が、今の全日制・定時制にいられなかったことがことの本質なのですから。(3)先生・教師のあり方にかかわること〜信頼でき誠実な教師を
(学習での教師のあり方)
- 知的好奇心をかき立ててくれる先生・教材の下で学習できる環境。先生と生徒が触れ合える楽しい学校。
- 楽しく授業を進めてくれる先生がいるところ。
- 始めは何も知らないのだから、低レベルでも興味を示したら、とことん教えてほしい。範囲をこえた質問をしたら「やらなくていい」といわれ興味をそがれた。先生として学生が聞いてきたらとことん教えてほしい。先生ももっと勉強すべき。
(生徒への態度)
- 生徒は教師を敬うのが当然で、生徒には礼儀はいらないと思う教師が多い。「先生」の言うことを聞かないと「嫌われる」。
- もっともっと一人一人のことをよく理解してほしい。(他に類似が1件)
- 個人の目標にあった指導をしてほしい。
- 生徒のことを考えてくれる学校。
- 生徒のことを考えてくれる学校。
- 応援してくれる先生がいたり、勉強・進学・就職に力を入れてくれ、友達がたくさんいて、思い出のつくれる学校。
- 理想の学校は、自分にはこの学校が必要であることや自分の可能性の大きさを気付かせてくれ、主役の生徒を脇役の先生の力で引き立ててくれる場所。
- 生徒を縛り付けない学校であってほしく、自分の仕事の情熱を持った先生と出会いたい。
(教師・生徒関係)
- 教師と生徒の関係がきちんとする部分はちゃんとし、他の部分は良い意味で友人のような関係が築ければいい。
- 学校外でも気軽に声をかけられる先生のいる学校。(他に類似が2件)
教師のあり方は、教育問題の中でもっと巷間にあふれ、マスコミなどの格好の素材になっています。それはややもすると精神論から語られがちです。また、これほど教師の個性の属するものはなく、その範囲の中でしか論じられないことが多いといえるかもしません。ここでは、そうした不毛な視点は取らず、教師のあり方は、学校の制度的、あるいは社会的な位置づけに深く関わるものであることをまず確認しておきたいと思います。その上でこれらの生徒たちの意見を考えてみましょう。
教師の「考える」という行為は、それが先立つものではなく、「学ぶ」人間があって初めて成り立ちます。このことは当り前ですが、現実には、学集指導要領=教科書、あるいは自主的な教材を自ら前提として、生徒に教え込むことが、今の多くの教師の業務となっています。この「教育」は、教師の主観においては、「客観的な根拠を持つ必要なもの」または、「生徒のことを考えた、生徒のためになるもの」とされ、「授業」として生徒に授けられていきます。この伝達過程において、生徒の「参加」が工夫されたり、生徒の反応に応じて教える内容と過程にフィードバックがなされ、よりよいものの追求が試みられていきます。この積み重ねで教師は「成長」していきます。
しかしながら、上記の生徒たちの意見はこうした「教育」に批判的な視点を向けているといえないでしょうか。「教育」の基本的な構図が誤っているのかもしれません。「学ぶ」ことからこそ教育は出発してほしい、つまり潜在的な可能性を伸ばそうとしている自分をありのままに受け止め、邪魔をせず、援助してほしい、この「学び」をしやすくする条件を整えてほしい、こうした「学び」に答えられる教育をこそ求めているのではないでしょうか。「主役はわれわれなのだ」という主張をしていると思えます。「教壇に立って教鞭をふるう」という一般的な「教育」のイメージは上記の生徒たちの理想からはかけ離れているようです。
こうした「教育」がこれまで延々と続いてきたことの重要な原因として、1クラスの生徒の数の多さ、学習指導要領の縛り、学区の問題等についての国家と地方自治体の教育統制があることも忘れてはならないことです。生徒にしてみれば、この政治権力と教師の権力という二重の統制のもとに置かれ続けてきたわけですが。
生徒たちが求めている学校の姿をあといくつかの観点から整理してみましょう。(4)個性や自由の尊重にかかわること
- 今の世の中は「学校」がどうあるべきか言えないが、個人個人を大切にしてくれる学校がいい。
- 今は机だけでの勉強を教える場になっている。人間のぶつかりあえるところが少ない。規制して枠にはめるのではなく、自主性が必要。個性を大事にできる学校。
- 一人一人の個性を尊重してもらいたい。
- 自分のペースに合う学校。
- 自主性。
- 団体行動や集団行動の全くない学校。個人で学べて誰からもかまわれない環境。
- 全日制ももう少し自由な方がいい。アメリカンスクールみたいなところに通ってみたかった。
- 自由な学校(他に類似が2件)。
- 成績をうるさくいわないで、もっと自由がいい。
- けじめのある学校。校則が自由でも、自分たちで考えて行動している学校が良い。
(5)内面の充実が得られ、人間関係のよい学校
- 学歴にばかりこだわらず、人間にとって大切なものは「心」や「易しさ」だか、内面的に充実できる学校が良い。
- 清き心を育てる場所が学校ではないか。
- あえていえば足の引っ張り合いがないような、皆がやる気のある学校。
- 友達や先生と話がたくさんできれば、理想。
- クラスで何でも話せ自分の意見を言え、それを聞いてくれるような学校。
- 学校は決して学問だけを学ぶところでなく、生きていくため色々な人との出会いによって、心を成長させる場だと思う。校・強制的なことで嫌なことをやらせて、イジメを無視し、行きづらくするのはいや。学校は行きたいと思うやすらぎの場であってほしい。
- イジメのない学校。
- みんなが仲良くできれば、学校自体は変わることはない。(他に類似が1件)
(6)規則が抑圧的でないこと
- 生徒の考え方も取り入れて、あまり厳しくない学校がいい。
- 校則より学ぶ気が歩かないかを大事に見てほしい。
- 生徒を校則に縛らない学校。
- 規則が多すぎない(他に類似が2件)。
- 私立は学則で事情を問わず「前例がない」ひどいことを言う。もっと融通を利かせ、誰が一番傷つくかを考えてほしい。
- ルールがあってそれを守る学校。今は、土足・トイレの喫煙を除けばよい学校だと思う。
(7)楽しく過ごせる学校
- 自分の中で当然の日常の場であればいい。そこにいて違和感や「なぜこんなところにいるのか」という疑問が生まれないような場所。第二の「うち」のような、帰るところのような場所。
- 先生・生徒が明るく、授業が楽しく、家から近ければ何の問題もない。
- 明るく来て楽しい学校。今は単位を取るためだけ来ている感じ。
- 楽しく勉強ができ、いろいろな人から学べる学校(他に類似が8件)
- 学校に行くのが苦にならないような、退屈ではなく、楽しくて、自由にのびのびやれれるところ。
- 自由な校風でもけじめがついていて、通ってい楽しい学校。
以下の(4)〜(7)の願望・理想は、一つ一つを見れば、素朴で率直なものといえましょう。なぜこのような願望・理想を今の学校という場は実現できずにおり、これらとはほど遠いところにあるのでしょうか。一人の人間としてこうした生徒たちが書いてくれたことは、私たちも素直に受け止め、教師が願望・理想をかなえる新たな学校の制度を作り上げていく必要があるでしょう。
生徒たちが望んでいることを大きくまとめれば、一人一人の個性が尊重され、自主的な生活に基づく自由があり、精神的に充実することができ、ルールは生徒参加による必要最低限のもので、人間関係のよい楽しく過ごせる学校、ということになるでしょう。このような姿での学校は、おそらく教師の大半にも異論がないと思います。
また1988年調査でも「理想の学校像」を聞いています。そのまとめとして分析者は、「生徒の理想とする学校像は『生徒を信頼・理解する先生がいる』『規則で拘束しない』『自己管理にまかせて自由な学習を』という点に集中している」とまとめています。この10年間学校という存在は、生徒たちにとっては一向に変化がなかったようです。私たち教師はこれまで何をやってきたのでしょうか。
■まとめにかえて
教師というものは生徒の述べる理想の学校像に接すると、「それは生徒の質による」と考えがちです。アンケートの回答の中にも、「前の学校では、友達はいやいや学校に来て、来たら来たで授業をまじめに受けず、遊ぶことばかり考えていた。私もそれに染まっていた。どんな学校でも生徒による。もっと学びたいという意欲のある生徒がいれば、学校はいい方に変わっていく」という意見が、類似の2件を含めて、ありました。
しかしながら、今はもうこのように問題を属人的に考える発想からは、縁を切る必要があるのです。これでは、永遠に個人の自己向上や「質の良さ」という訳の分からないことへの偶然の期待に終わるしかないでしょう。問題は常に先送りです。現実に根づかない批判をし、「正しさ」をひた走る、前記した発想とも縁切りが必要です。生徒の生の声、ありのままの現実をしっかりと踏まえた現場からの改革こそが必要なのです。
その際、私たちが、しっかりと意識の中に入れておくべきは、むしろ次のような生徒の痛烈な批判ではないでしょうか。ある生徒は、アンケートの中で書いています。
「学校とは何を学ぶために行くのか。本当に学校は必要なのか。それに代わるものはないのか。学校があって当たり前という考え方を問いたい。」
社会的な通念が、語られ、実践されるとき、抑圧的に働く場合があります。学校という言説は、規律=権力として、存在する以外にはないのでしょうか。ある生徒の「理想の学校があればそれはもう学校ではない。本来学校はどういうところかを見直すべき。現代はこの学校に意味にずれが生じている」あるいは、「学校はない方がいい」(「理想の学校は」という設問に「なし」と答えた12人のうちの何人かはこれと類似した考えなのかもしれません)という回答は、鋭く「学校」の理念と現状を問うているのです。
(担当 中野渡強志 山梨彰)