「学校」 と 「非学校」 の間
再編後のいま、 どのような学校をつくるのか

 
宮 田 雅 己

再編統廃合計画に出会ったとき
 1999年 8 月に県立高校再編計画が発表されたとき、 私は寛政高校にいた。 「課題集中」 校から統廃合するだろうとの予想は的中した。 寛政高校では、 94年ころからの県教委の指示にもとづく 「特色つくり」 を受けて校内論議を積み重ねていたから、 自分たちの学校に通う生徒と生徒の実態に応える授業や生活指導などを含む学校システムの整合性を多くの教員が了解していた。
 計画発表後に県教委は学校で説明会を行ったが、 「寛政の生徒が新校に行けるわけがなく、 生徒層はすっかり入れ替わるはずだ」 とほとんどの教員が思い、 県に対してその思いをぶつけた。 しかし、 計画が変更されるわけもなく寛政高校は粛々と廃校になった。 私自身は、 廃校前に転出したので統廃合後の鶴見総合高校のことはよく知らないが、 寛政に来ていた生徒層は、 やはり鶴総にはあまり来ていないようだった。 ここでも予想は的中したように思う。

「学校」 に対して感じていたひそかな不安
 私の初任校は旭高校で、 1982年から 9 年間勤めた。 就職当時は校内暴力時代で私もその洗礼を浴びたが、 体罰もまだ残るそういう時代だった。 不登校もまだ少なかったが、 私のクラスからは不思議と毎年一人程度不登校で退学や転校していく生徒が出た。 「宮田のクラスからは必ずやめるやつが出る」 とはある生徒の言葉だった。
 2 回のクラス担任生活を送り、 生徒の保護者とも家庭訪問・クラス懇談会・飲み会等で楽しく暮らしたが、 「このままの学校でいいのだろうか」 という感覚がそのころあった。 私自身が若くて人生経験や学問力量が至らない中で生徒に合った授業内容を作り出せていなかったのが理由ともいえようが、 旭高校のカリキュラム自体 (旭高校のみならず日本全国の普通科高校がすべて同じカリキュラムだったが…) が生徒の学び育つ要求にかなっていないのではないかというなんとなくの不安というか不全感だった。 すべての生徒が大学進学するわけでなく専門学校進学や就職する生徒もいるのに、 進学校と同じカリキュラムで同じ教育内容では、 生徒の生活実感とつながらないのではないかと思い、 生徒の生活とつながる学習を組み込めないかと考えてはいたが、 当時の私には授業内容自体を変えたり作り出したりするだけの力はなく、 クラス活動・生徒会活動・学校行事に生徒とのふれあいの場所を求めていた。

寛政高校で試した個人的授業改革
 寛政高校のカリキュラムは、 選択科目に商業科目があるものの基本的には全国の普通科高校と共通のカリキュラムだった。 教員は教材や教え方を工夫して生徒の理解を進める努力をしていた。 94年以降は、 「特色つくり」 の中で、 生徒にあった学校つくりを目指し生徒に関しての議論を進めていたが、 日々の授業はなかなかうまくいくものではなかった。
 私個人は、 寛政高校での授業を、 @生徒の身近な問題を内容とすること、 A生徒が自分の頭と手を使い文章を作る論述試験をすることの 2 つで作り上げることにした。 1年地理では、 「鶴見川・東京湾・上下水道・電力・環境」 など。 2 年世界史はそれなりに。 3 年現代社会では、 「刑法・刑事訴訟法・少年法・家庭内暴力・子育て・男と女」 など、 科目内容に即しつつ、 ある問題をデフォルメして扱う手法をとった。 現代社会の授業ではとりわけ 「家庭内暴力」 が生徒に受け、 「うちのことだ」 「ためになった」 などと言ってくれた。 また、 3 年の自由選択科目として 「地域・生活・人生を考える」 という講座を起こし、 京浜工場地帯の中心部にある学校の地の利を生かし、 地域の紙リサイクル工場、 産業廃棄物再生工場、 ドラム缶工場、 活性炭工場、 米軍鶴見貯油施設、 石油精製工場、 東電横浜火力発電所、 横浜北部第 2 下水処理場などを見学した。 また、 農家の生徒のお宅やすし屋の生徒のお宅を回らせていただいた。 生徒以上に自分の勉強になった。 私はこの経験などから、 「普通科高校と総合学科高校の中間的な学校がよい」 と考えるようになっていた。
 文章による論述試験は、 文章をまともに書く経験を持たない生徒との格闘だった。 保護者の協力、 事前の補習などさまざまな手段を使い、 事前に示した問題を生徒にあらかじめノートに解かせ、 そのノートを持ち込んで試験に臨ませる。 試験の結果はある意味あらかじめ分かっているので、 生徒は安心してノートから解答をそのまま写し良い点を取る。 「やればできる」 を体感する機会となってくれればよかった。

降ってわいた再編統合と学校存続への危機感
 こうした学校改革を模索していたときに、 再編統廃合計画が出たのでがっかりした。 しかし、 私の中には 「寛政高校独自に学校改革しても地域で学校存続ができるのか」 という不安もあった。 それは、 「生徒が地域に迷惑をかける」 学校が地域にいることができるのかということだった。
 生徒と教師の関係は寛政高校教員集団の努力で 「良好」 な状態を作ることができていた。 しかし、 生徒が地域にかける迷惑は、 この 「良好」 な関係作りとぶつかった。 迷惑をやめさせようと躍起になれば、 生徒と教師の関係は 「不良好」 となり、 学校に生徒が来なくなる。 地域と教員が仲良くしようと努力はしたが、 地域の人々すべてが教育的に生徒を見てくれるわけはない。 「教育の成立」 と 「地域への迷惑」 は決定的な矛盾となった。 そして、 「学校がなくなるのも仕方ないか?」 という思いが頭をよぎった。

再編統廃合計画をどう見るか
 再編統廃合計画にはもちろん反対だった。 県当局の思惑が教育予算削減にあること、 国や財界の思惑が雇用形態の規制緩和と雇用流動化への対応にあることは分かっていた。 しかし、 県内の多くの再編計画がそれほど大きな抵抗を受けずに進んでいったことは、 高校に通わせる生徒の保護者や学校に勤める教員自身、 そして市民の中に再編を支持する意識が存在したことを示していたのではなかろうか。  一つは、 1980年代の校内暴力状況批判に始まるマスコミを中心とした 「学校・教師バッシング」 が人々をイラつかせていた。 二つは、 私が先に書いたような 「生徒と学校のミスマッチ」 を感じた人がいたことだ。 三つは、 学校には適応できず学校から排除される生徒たちがたくさん生まれてきていたことだった。 こうしたことがらは、 これまでの学校に対する攻撃感情を人々に育て、 それまでの学校のあり方を改めるという取り組みやそれにつながりそうだと感じさせる 「県立高校再編計画」 を人々に支持させのではあるまいか。
 とくに、 学校から排除された人々  体罰を受けた人々・成績不振で退学した人々・問題行動で退学した人々・不登校になった人々・外国籍で高校入学が難しい人々・心身の理由で高校入学が難しい人々・成績が悪く高校入学が難しい人々など  は、 グローバル化や社会状況の変化の中で年々その数を増していたから、 そういう人々の学校に対する憤りの感情は年を追って積もり重なっていたと考えられると思う。
 つまりはこういうことだ。 私たちがよしと考えてきた戦後の学校をもし 「学校」 と名づけるとすると、 この 「学校」 というシステムに対して 「学校」 から排除されてきた人々が異議申し立てをしてきたのではないか、 別のシステム  言葉にするならば 「非学校」 とでもしよう  を求める力が強まってきたのではないかということだ。 「非学校」 を求める要求にある意味で行政が応え、 「学校・教師」 批判する人々  その中に教師自身が含まれることもあった  がそれを支えたということだ。 そして、 「非学校」 を求める人々は、 社会で 「周辺」 に位置する人が多いから、 この問題は別の言い方をすると社会の 「周辺」 問題を学校が抱えることとも言えるのだ。 再編統廃合計画の社会・経済的側面はいざ知らず、 文化的側面から見るとこう言えるのではないかと思う。

再編統廃合は結果として 「非学校」 = 「周辺」 に応えることができたか
 いずれにせよ、 それまでの 「学校」 に代わって新校が現れ10年がたった。 それまでの戦後の 「学校」 は学年制・クラス制・生徒集団制・必修制をその土台としていたから、 「非学校」 である新校はその逆を行く。 単位制・個人制・選択制である。 果たして、 10年後の結果はどうか。 それを知りたくて、 「教育討論集会2009」 に参加した。 討論集会では、 そもそも論もあったが、 現象的なものとしてはつぎのことがらが出されたと思う。
  • 当初ついていた予算や人がつかなくなった
  • 当初からいる教員が転勤して講座維持が難しくなった
  • 教員の過重な仕事を前提にして学校が回っている
  • 学校の人気が出るほどにクラス制を求める生徒が増えてきた
  • 「課題集中」 校に入学できていた生徒の居場所がなくなった、 などである。
 残念ながら、 これらのことがらは再編計画発表当時、 寛政高校に勤める人々が予想したことがらだった。再編による新校はすべてが新タイプ校だが、 新タイプ校にあう生徒がどういう生徒でどれくらいの人数の生徒が新タイプ校を求めているのかを事前に調べた上での再編計画ではないのだから、 ある意味では当然の結果である。 新タイプ校を求める生徒像を私なりに想像すると、 「元気で・ものを言えて・それなりに動けて・それなりに自分があって・クラスなどの集団生活が好きでない」 生徒ではなかろうか。 「クラスなどの集団生活が好きでない」 生徒が、 新タイプ校の定員以下だとすると、 「クラスなどの集団生活が嫌いでない」 生徒も新タイプ校に通わざるを得なくなる。 そして、 例えば 「非学校」 をもとめ社会の 「周辺」 部分を構成する新タイプ校のシステムにあわない 「問題行動」 的な生徒がやむなく新タイプ校に入ったとしても、 新タイプ校のシステムにはあわない彼らはそれまで可能だった高校卒業から排除されることになる。 新タイプ校になり学校が地域に迷惑をかけない学校に変身しているらしい。 しかし、 それまで果たしてきた 「問題行動」 的な生徒を面倒見るという教育の任務は放棄されたと指弾されても仕方がない。
 というわけで、 もともと再編反対派の私は再編計画を失敗と評価するが、 しかし計画の推進が私たち教員文化に大きな影響を与えたことだけは評価しなくてはならない。 それは、 「非学校」 を求める人々のねがいを実現することも教育機関の仕事だということを、 多くの教員が知らされたことだ。

ではどうすればよいのか、 どんな学校をつくるのか
 ここに至って私たち教員は何をすべきなのだろうか。 再編校の看板を守るために最後まで体をはるか。 再編をチャラにしてもとの学校に戻すのか。 私はある意味で答えは簡単だと思っている。
 一つは、 「非学校」 を求める 「周辺」 的な人々のねがいがあることを知った上で、 再編校も非再編校も学校のあり方を探ることである。 その際に、 再編校は今ある条件から、 非再編校も今ある条件から発想すべきことはいうまでもない。
 二つは、 制度としての学校は、 すべてのタイプの人々を吸い上げることができないことを自覚すべきということだ。 不登校の子どもを持つ親は言っている。 「学校に行けるいけないで悩んでいるうちは幸せよ。 問題は学校を出た後にある」 のである。 「非学校」 を求める社会の 「周辺」 にいる人々が幸せに住み続けられる地域や社会をつくる問題なのだ。
 三つは、 それぞれの現場の変身を行政が認めることである。 教員が疲れ果てる学校が生徒の幸せな学校だなどという逆説はあってはならない。 「生徒も教師もそこそこ幸せ」 の位置をすり合わせて定める仕事が大切だ。
 そして最後に、 学校で学ばない・学べない人々の学習を保障するための学校外の制度  たとえば不登校のフリースクールなどへ財政援助するなど  をつくることである。
  「非学校」 をなるたけ多く取り込んだ 「学校」 をつくり、 「学校」 に行かない人々を支える社会がつぎの社会なのだということを事実をもって示したのが、 神奈川の県立高校再編計画とその後の顛末なのではあるまいか。
  (みやた まさみ 生田高校教員)
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